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最終話 9月の和歌山(最後の出張旅 和歌山市)

 修一は、会社生活最後の15年間も、全国エリアを対象とするセールスエンジニアだった……。自由で気ままな営業生活を送っていた修一も、60歳を過ぎて定年再雇用の立場となると全国の出張旅に出る機会は全く無くなる。現役を外れ、商談系の業務は無くなり社内勤務で各営業を支援する毎日となっていた。9月中旬のある日、技術部門から配置換えになった新しい営業の仲間、31歳の若者『中村君』が話し掛けて来た。


「和歌山でシステム導入の問い合わせがあるんですが、営業で一緒に同行して頂けませんか? 先輩のようなベテランに同行して頂いた方が先方も安心すると思うので。よろしくお願いします」


 社内勤務に退屈していた修一は直ぐに了承した。久しぶりに味わう羽田からの飛行機の旅で1泊2日。早速、朝一番のJAL便を予約した。Tレンタカーは中村君が予約してくれているので自分では何も準備する事がない。当日のプレゼンも中村君が担当するので特に準備することはない。本当の付き添い同行だけだ。しかも、和歌山県だけは現役時代に出張で訪れる機会がなかった唯一の県だったのでとても嬉しかった。私の頭の中では、南紀白浜や高野山、熊野古道などが真っ先に思い浮かぶ憧れのエリアだ。以前のランチや宴会の際に、中村君の故郷が和歌山県ということを聞いたのを思い出した。中村君がまだ技術担当だった頃のことだ。


「和歌山は、平地が少なくて海岸部まで山が迫っているんです。商談地域によりますけど、空港が県の中央部ですから、数件あると県内の車移動は大変ですよ。僕は、和歌山から出たかったので東京の大学に来て、東京の企業に就職したんです。友人も皆そんな感じで東京や大阪に行きました」

彼が入社してからその時まで、中村君が和歌山県の出身者だという事を知らなかった。


 出張の当日は、同じJAL便で朝8時50分には南紀白浜空港に到着した。空港で合流して、Tレンタカーに到着すると彼が受付を済ませレンタカーを運転してくれた。いつもは一人出張が原則で、同行者がいても自分で車を運転していたのでこんな事はなかった。不思議な贅沢な気分になった。今の修一には、最高のビジネス旅行と言えた。彼のプレゼンは素晴らしく、施設へのシステム導入の契約は当日即決で決まった。彼は、日常的には自己主張が強すぎる一面もあり、営業対応やプレゼンでも失敗していたことを修一は知っている。そんな個性的で真っ直ぐな一面が、今まで女性に縁が無かった原因だったのかもと感じていた。


 その夜は和歌山市内で成約のお祝いをしようと、和歌山県出身者の中村君主導で食事と美酒を楽しむ事になった。和食の店に入りカウンター席に座ると、彼は直ぐに紀土(きっど)という私が初めて聞く日本酒の名前の『ひやおろし』を注文した。郷土のせいか知っているのだろう。


「今年9月に解禁になった『きっどのひやおろし』です。美味しいですよ」

そう言うと、若い女性が純米吟醸酒の『ひやおろし 紀土(きっど)』と小さなグラスを置いていった。和歌山県の『ひやおろし』の解禁日は、9月9日で解禁されて間もなかったようだ。


「成約おめでとう。大きな案件が取れて良かったね。今日のプレゼンすごく良かったよ」

「僕は以前の営業で、お客さんの意見と妥協を一切せずに大失敗した事があるんです。それで、今回の危険な時は先輩に空気を調整してもらおうかと思ったんです。不純な動機で済みません……」

「そんな事ないよ。久しぶりに外の仕事で嬉しかった。ありがとう。実は、和歌山県だけが現役時代に来れていなかった唯一のエリアだったんだ。これで、今日やっと日本全国の営業制覇できたかな……。まずは、乾杯しよう」


 2人で、グラスを合わせて乾杯すると、軽くまろやかな口当たりの『ひやおろし紀土(きっど)』が心と喉に染み渡った。落ち着いたころに、二人のカウンター席に若い女性が、お摘みの注文を取りに来た。とても爽やかで美しい好感の持てる女性だった。中村君は、彼女を全く見ようともせずに真剣にお摘みを注文しようとしたので、修一が遮って彼女に声を掛けた。


「何かお薦めはありますか? 東京から来たんですけど美味しいもの教えてもらいたいので……」

「取り敢えず、お摘みにマグロとか鯨の竜田揚げとかは如何ですか? お刺身は、大トロや中トロを盛り合せてお出しできますよ。それと、梅水晶はいかがですか? 南高梅が入って美味しいですよ」

「それ、美味しそう。全部お願いしようかな。ところで、お嬢さんはバイトなの? 学生さん?」

「はい。私、地元の大学の4年生なんです。就活してるんですけど、なかなか決まらなくて。できれば、東京に行きたいと思ってるんですけど、良く分からなくて……」

「ここに居る彼は、東京の生活や企業のこと詳しいから、良かったら連絡とってみたらどうかな。彼は親切だから……東京に来たら、いろいろ相談に乗ってくれると思いますよ」

「嬉しいです。よろしくお願いします」

「僕がこの場の成り行きの責任者になりますからね。ご安心を……」


 修一は、彼女に名刺を渡して何かあったら連絡をと言うと、彼女は素直に目を輝かせてお辞儀をした。中村君も続いて、照れくさそうに名刺の裏に自分の携帯番号を書いて彼女に差し出した。彼女は、それから注文を伝えるため戻って行った。彼は、顔を少し赤らめていたが嬉しそうだ。


「ごめんね。中村君の注文を遮っちゃってさ。どうしても、素敵な彼女だから見てもらいたかったんだ。一目で気に入っちゃってさ……。良い()でしょ?」

「ありがとうございます。まったく、彼女を見てませんでした。もし、連絡が来たら案内してみます。感じの良い素敵な()だと思いますけど、本当に連絡くれますかね? サポートを有難うございました……」


 彼女が、マグロの『刺身の盛り合わせ』と『鯨の竜田揚げ』『梅水晶』を持ってきた。


「マグロのお刺身三種盛りは、どれも美味しいですよ。ごゆっくり……」

と言うと、修一の方に冷酒を継ごうとしたので、

「今日は、彼が仕事の立役者なんです。僕は良いから彼に注いでくれますか? 祝勝会なんですよ」

「おめでとうございます。今度、お電話しても良いですか? 実は、私一人で東京へ行くのがちょっと怖かったんですよね。友達と同じ会社を応募するわけじゃないので、一緒に行くこともありません。就活は出遅れてるんですけど、10月から東京へ何回か行こうと思っていました……」


 中村君は、顔を少し赤らめながら真剣に言った。

「僕で良かったら……。東京で就活する会社の希望を聞いて相談に乗ったり、住まいや通勤ルートの勘所をご案内しますよ。僕……実は、和歌山出身で東京で働いてるんです」

「えぇ……。そうなんですか? 嬉しいです。よろしくお願いします」


 普段の彼からは、感じられない爽やかな笑顔があった。その後、彼女は就活で中村君に何度か連絡を取り上京した。真っ直ぐな彼は、上京した彼女の住まいのエリアや土地柄も案内しながら、応募する就職先なども一緒に考えてあげた。彼女は、師走には応募した会社からの採用通知をもらい4月から東京で働くようになった。それからの二人は、自然に交際するような流れになっていた。

(これまでの彼は、仕事以外の自分にほんの少し勇気が無かっただけだったのかもしれないな……)

そんな風に、修一は感じていた。


 それから一年が経ち、会社を完全にリタイアした秀一に和歌山出身の2人から結婚式の招待状が届いた。一度だけの和歌山県出張の後で立ち寄った博物館で、江戸城大奥に入ったと言われる紀州では有名なお姫様『種姫』の展示を何故か想い出していた。

(彼女も、これからは中村に嫁いで江戸で一緒に暮らすのか……)

あの夜の乾杯と2人の出会いを想いうかべていた。

(あの最後の出張は、仕事はしなかったけど我ながらナイスフォローだったんじゃないかな……)

修一は届いた招待状を見つめながら、これから結ばれる2人の幸せと東京での楽しい生活を祈った。


                                       <終>


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