第41話 6月の山梨編(甲府市)
6月になって、山梨の契約先から契約内容の変更について相談があり訪問することになった。山梨県は、甲府市だけに6件の契約先が集中していて車移動で苦労することはない。問い合わせ施設の訪問時間だけを確定させて残りの5件はアポなしで訪問することにした。出張当日は、新宿駅が朝7時発の特急『あずさ1号』に乗ることにした。
(古い曲で、狩人の『あずさ2号』という曲がありました。東京方面から甲府方面に向かうのは偶数の号車ではなく、奇数の『あずさ1号』になります。若い人からは、そんな曲なんか知らんと言われそうですが……)
この特急で甲府に向かうと、朝8時半には甲府駅に到着した。今回は天気も悪く雲が空を覆っている。雨が降りそうな印象の天気だ。大好きな富士山も見える可能性はかなり低い。そんな楽しみは無さそうだが、何とかして今日も1日楽しんでやろうと知恵を回らせていた。
(朝から仕事前に、お前は何を考えてるんだ! と叱られそうです……)
甲府駅を出ると武田信玄公の像の前に歩み寄り、深々と頭を下げ存在感のある像に心の中で挨拶した。
『おはようございます。今日も1日よろしくお願い致します。何か良いことが有れば、どうかご利益を……』
そんな事を、何回か頭の中で唱えていた。要するに、修一は甲府駅前にある信玄公の像が好きなだけなのだ。寺社仏閣に立ち寄ってもこんな事はしない。一礼すると、Tレンタカーの甲府駅前店に向かった。
「S社の伊藤です。P1クラスで終日予約しています。」
「承っております。本日は、どちらまでのご利用になりますか?」
「甲府市内が中心で、遠くてもその周辺部くらいかと思います」
「お気を付けて」
車の傷のチェックをすると、運転席に乗りナビで訪問先6件分セットした。1件目のアポは10時半の指定で余裕があったので、朝のうちに市内観光を兼ねて武田神社に立ち寄ることにした。甲府駅からは、車で10分ほどの距離だった。境内や周辺部にも無料駐車場があり、神社に向かうことにした。天気は、晴れてはいなかったが鳥居をくぐり赤い橋を渡り階段を上ると幻想的な空気感を感じた。途中のお堀には鯉が泳いでいるのが見えた。曇り空で天気は良くなかったので、どこにも富士山などが見える気配は全くなかった。
神社に参拝し、二礼・二拍手・一礼をして心を安らげた。この時は、何も願い事は思い浮かばず、特にお願い事はしていない。参拝を終えて、『姫の井戸』『武田水琴窟』などを見て周りパワーを蓄えた。まだ、早い時間で参拝の人の姿は少なく境内は静かなたたずまい。姫の井戸は、信玄公のご息女が産湯に使ったとか。水をペットボトルに汲んで持って行く人がいた。水琴窟は、竹の筒を土の中に埋めた瓶に水を流し入れると透明で美しい音色を聞くことができた。これで、今日の仕事は良いことが有るだろうと車に戻った。
そこからは、ナビの設定どおりに行動することになる。最初の訪問先は、甲府市の西側にある〇〇病院。駐車場には10時20分には到着し病院受付に進んだ。
「S社の伊藤です。10時半に、事務長様にお時間を頂いていますが……」
「確認を取りますのでお待ちください」
電話で確認を取っている。
「ご案内致しますので、こちらへどうぞ……」
事務長室に通された。
「S社の伊藤です。お呼び頂きまして有難うございます」
「お忙しいところ、来て頂いてありがとう。実は、来月からMRIを入れることになって、追加で支援サービスをお願いしようかと思ってね。変更後のサービス内容と料金等をご説明いただけないかな」
「利用料金は、検査機器や検査内容ごとに違っておりまして、MRIの診断レポートはCTよりも500円高くなります。緊急診断もCT検査と同じように500円追加になります。その他の詳細につきましては、こちらのパンフ説明書をご確認ください。いつ頃からご利用になりますか?」
「今月末には、装置を納めてもらうので来月にはサービス追加したいね」
「分かりました。来月に開始できるように準備致します。一つだけ確認事項があります。診断機器と弊社側の接続費用で導入されるメーカーさんと意思の疎通が取れていないと、後から別に追加の接続費用40万円が追加されることがあります。大丈夫でしょうか? 今の段階でしたら、『現在利用中の診断支援サービスと接続したい』と早めに意思表示されては如何でしょうか?」
「大丈夫だと思うけどメーカーに確認してみるね。ありがとう。よろしくお願いします」
そんな会話で、面談を終了すると次の施設に急ぎ向かった。まだ、時間が11時になっていなかったので出来るだけ多めにユーザー訪問をしたい。あいにくの天気だが、ランチとフリーな時間を増やしたいところだ。特に問題なく5件目の訪問になると、事務長室の中に入るように勧められて腰を据えた面談になった。
「S社の伊藤と申します。日頃から弊社のサービスをご利用いただきありがとうございます」
「実は、先日の病院会で話をした時に、こちらで利用しているサービス内容に興味があって、他の施設の院長から色々聞かれたんだけど、答えきれなくて良かったら連絡とってくれる? 私の名前出して良いからさ。〇〇病院っていう施設なんだけど、サービス内容は褒めておいたからよろしくね」
「貴重な情報をいただき、ありがとうございます。早速、連絡をして可能ならば面談をさせて頂きます」
丁寧にお礼を言って、事務長室から退出した。紹介事例なので、紹介者の顔を潰さないように丁寧に対応しなければと思っていた。お昼の時間になっていたが、まずは紹介先に電話をしてみると、午後2時なら面談できるとのこと。訪問の約束をして電話を切った。まずは、戦いくさの前に腹ごしらえと食事処を探した。やはり、信玄様のご利益ではと思い『ほうとう』の店を探すことにした。店を探して駅の方向に走らせていると、ほうとうの看板は沢山あったが、気になる店があり入ってみる事にした。のれんに『元祖 手打ほうとう』と赤い文字で大きく書いてあるので目立つ店構え。元祖だからといって信用している訳ではないが……。
店に入ると、昔ながらの木のテーブルとカウンター。天井も古民家で良く見るような木を露わにしたような味のある内装だった。メニューを見てみると『かぼちゃほうとう1,200円』『辛味ほうとう1,300円』『きのこほうとう1600円』『甲州地鶏ほうとう2,000円』など、他にも色々なほうとうがあったが予算も考え『ほうとうランチ1,200円』を注文することにした。一見、ランチのほうとうは量が少なめに見えたが、『甲州牛コロッケ』と『麦ごはん』が付いている。少し高めだが、お得感のある『ほうとうランチ』を食べることにした。
運ばれてきたほうとうを目の前にするとカボチャ、じゃがいも、人参、椎茸などの野菜に煮干し一匹が載っている。料理のアクセントだろうか? 修一は、店員さんに聞いてみた。
「この味はどうやって作ってるんですか? 味噌汁みたいな感じですか?」
「ほうとうは、甲州味噌を使わないとこの味が出ないんです。それに、カツオ節、椎茸、昆布、煮干しなどを使ってダシを取り味を調整するんです。カボチャやじゃがいも、人参も美味しいですよ。麺は手打ちです」
「そんな手間があったんですね。美味しいです」
話を終えて目の前のほうとうに集中した。『甲州牛コロッケ』は、ほうとうランチでのサービスのせいか小さ目だが、麦ごはんも付いていて、修一が食べる量としては十分だった。ほうとうのスープは美味しいので残すのは勿体ない。全てを食べ終わるとお腹がパンパンで動けない感じになった。会計をして店を出ると、午後の訪問時間には、まだ間がある。常備している食べ過ぎ用の胃薬を飲み、店の駐車場で少し休むことにした。
電話の連絡先でナビをセットすると10分くらいの移動時間。車で横になる。もう少し休めそうだ。満腹感で、思考が鈍くなり眠くなった。危険だと思い、念のためアポの20分前くらいにスマホのアラームを付けた。野菜系でこんなにお腹が一杯になるとは思わなかったが、戦の前の束の間の休息だと思っていた。
(そんなカッコいい物ではない……。ただ、食べ過ぎてお腹がいっぱいなだけです)
40分ほど休憩すると、アラームが鳴る前に起きて車を動かした。だいぶ、お腹は落ち着いて来たので面談は大丈夫そうだ。病院に到着すると、受付に進み本日の連絡で事務長と午後2時に面談予約を入れたことを伝えると直ぐに案内してもらえた。
「S社の伊藤です。本日は、お時間を頂きありがとうございます」
「○○病院の事務長から話を聞いたんだね? 実はね……病院会の宴席で話を聞いたもんだから、そちらのサービスの名称忘れちゃってさ。ネットで探したら、〇〇ネットとかの似たような名前が沢山あって分らなくなっちゃってさ、どうしようかと悩んでいたところ。訪問のタイミング良かったね」
「ありがとうございます。信玄公のお導きかと思います。午前に武田神社に寄ってから営業に出たので……」
「初対面で、面白いこと言うね。この前、〇〇病院の事務長から聞いた話だと、サービス対応がとても良いと言ってたので内容を教えてください」
資料をもとに、サービス内容と料金等の説明を一通り終わると、緊急の診断サービスの内容が心に残ったようで、院長に連絡をするとこちらに来るとのこと。院長が中に入って来て一通りの説明を行うと、初期費用無料ということもあり、契約書に署名と捺印をしてサービスを始めるようにと事務長に指示を出した。
「運用方法については、院内での説明対応が必要なのでサービス開始前に説明会を開くように、院内の主なスタッフに連絡してください」
院長はそう言うと急がしそうに部屋を出ていった。2週間後の設置完了時に、職員への説明対応を行うことを約束して、成約のお礼を言って事務長室を退出した。心なしか事務長の顔が優しく微笑んでいた。
駐車場に戻り、運転席に座るとオフィスにいる部長に連絡をする。
「伊藤です。甲府の営業で新規案件を周ったところ成約しました。2週間後からサービス開始となりますので、設置の日程調整をお願いします」
「伊藤君は、いつも運が良いね~。前もこんな事があったよね。山梨か。近いけど、甲府近くの温泉にでも1泊するか。翌日の稼働確認しないといけないからね。技術は誰にするかな……。気を付けて帰ってね」
(また、棚から牡丹餅だと思ってるな。俺だって苦労してるんだよ。でも、今回は信玄公のご利益かな)
そんな事を考えながら、最後のユーザー訪問施設に向かった。全ての仕事が終了したが、まだ時間は3時半過ぎにしかなっていない。このまま、夕食を買って特急に乗り込むとレシートの購入時間を見て、経理から問い合わせが来るのは間違いない。このまま、会社には戻りたくない。スマホで調べると甲府駅の近くにサドヤワイナリ―という所があり見学もできるという事が分かった。そこにナビを設定すると車で向かう。甲府駅からは数百メートルとかなり近い場所にある。こんな所にワイナリーが有ったのかと驚いてしまった。さすがに山梨県と感動……。
中に入るとワイナリの説明やワインの飲み方や味わい方も教えてもらえた。ワインの試飲や購入もできるが、近いとはいえ運転して車を戻さないといけない。ワイナリーでの試飲は諦めた。有料で見学コースに参加したのだが、お土産に試飲用のグラスが貰えた。販売コーナーで、一番安い赤ワインを買うとTレンタカー甲府駅前店に戻った。どうして、赤を選んだかという理由は、帰りの車内で常温のワインを飲むという事を考え、冷えていない白では無理という結論になったからだ。
甲府駅に戻り、ベーカリーのコーナーで美味しそうなパンとハム系のお摘みを買い車内で食べることにした。お昼の状況から調度良い選択だと思った。列車は、甲府駅が5時半過ぎの特急『あずさ』に乗ることにした。列車が走り始まると、ワイナリーで買ってきた赤ワインをワインオープナーで開けた。試飲用のグラスに赤ワインを注いでパンを頬張ると、何故かいつもとは違うワインを飲む自分が上品に感じた。
(いつもは、おそらく車内のただの酔っ払いにしか見えないが、今日は上品な人でいつもとは違うだろうと勝手に思っていたのだ……。飲み物をワインに変えただけで、そんなに人が変わる訳がない……)
今日は、富士山が見えるような良い天気ではなかったが、結果的には成功の1日だった。部長に言わせれば、棚から牡丹餅だそうだが修一はそうは思わない。せめて、今日は幸運な1日という事にしておこうと思っていた。半分は『自分の努力』で、もう半分は『信玄公のご利益』という事にしておこうと思いながら、自分へ向けグラスに注いだ赤ワインで乾杯した。赤ワインは、新宿に着くまでに飲み干して空になった。夜7時を過ぎて、新宿駅のホームに降り立つと(夕食をパンと赤ワインで済ませてきた俺は、まるでフランス人じゃないか)と、別な意味で自己満足しながら帰路に着いた。