第16話 11月の奈良(奈良市)
11月中旬に入り、奈良市で解約の申し込みが入り営業訪問する事になった。奈良県は契約が2件だけで、今回の訪問は商談ではなく解約1件の対応だった。普通なら有名な観光都市でもあり喜びそうな場所なのだが、社内の営業には人気のないエリアだった。新幹線の京都駅で在来線に乗り継ぎ、京都駅から奈良駅まで行く事になるが50分近く掛かってしまう。飛行機の場合は、伊丹空港からリムジンバスや鉄道利用でも1時間20分程度は掛かってしまう。こんな交通アクセスから、若い営業には人気が無かった。
今回も、若い営業担当が奈良県の案件で相談に来た。
「先輩、奈良の契約先から解約が入ったんですが、変わってもらえませんか? 早めに片づけたい仕事があるので」
「奈良なら行くよ。先方に挨拶もしたいからさ。資料作り忙しそうだから頑張ってね」
国内の営業エリア分けとかは、特にしていないためそんな話も出てくる。そんな場所なので、大きな商談エリアでも気持ちが入らず契約先も増えない状況が続いている。奈良観光ならば喜んで行くのだろうが仕事は別物。今までにも、何回か奈良の商談を変わっていた。
修一は、奈良の営業案件が入った時は、京都駅からレンタカーを利用して移動する事にしている。自由に時間を潰せて効率が良いからだ。今回は、朝6時発の『のぞみ1号』に乗り京都に向かった。朝8時8分には、京都駅に到着し改札を出るとTレンタカー京都駅新幹線口店に向かう。少しだけ遠目で、駅前の信号を渡り大通りを少し歩くようになる。店舗に着くとカウンターで予約の確認をした。
「S社の伊藤です。P1クラスで終日予約しています」
「ご予約頂いております。本日は、どちらまでご利用されますか?」
「奈良まで行くんですけど、ナビの設定は有料より距離優先の方が良いですかね?」
「時間は変わらないと思いますよ。どこを通っても1時間超えで着くと思います。お気をつけて」
運転席に座りナビの設定をすると、有料利用・一般道・距離優先の3コースが表示される。朝コーヒーでコンビニに立ち寄る事も考えて距離優先でセットした。目的地まで1時間程度なら、修一的にはそんなに不便なエリアではない。やはり、若者とは仕事のプランニングや感じ方が違うのかなと考えていた。
ある時、若い営業と二人で地方に出掛けた時に、レンタカーを運転して貰った時の事を想い出した。途中のコンビニに朝コーヒーの調達で立ち寄り、コンビニを出て車の助手席に乗ろうとすると声を掛けられた。
「先輩、済みませんけど運転変わってもらえませんか?」
「どうしたの?」
「実は、運転免許は有るんですけど、車を持ってないので運転慣れてないんです。前進は出来るんですけどバックするのは無理なんです。それで、前進駐車したんですけど……」
「そうなの、知らなかったよ。運転させちゃってゴメン。今日は、運転するから良いよ」
(俺の若い時は、車の運転がしたくてたまらなかった……。そう言えば、会社の若い人が車を買うのは結婚してからだもんな。それに、運転免許すら持っていない奴も居るし。普段は公共交通機関の利用だけで不便には思っていないみたいだ。俺は、若い頃は車が欲しくてたまらなかったな。時代も変わったもんだ……)
そんな事を思い出していた。だから、今回の様な案件も嫌がるのかもしれない。
そんな事を考えながら京都市内を抜けると車も少なくなってきた。コンビニを見付けて朝コーヒーを調達する。今日の予定は、午前に契約先の訪問1件と午後に解約撤去作業の施設を1件訪問する予定になっている。午前の早い忙しい時間に、営業訪問するのは難しいため奈良公園に向かう事にした。奈良公園は、有名な史跡・文化財があり、紅葉の時期ならば『 紅 黄 緑 』のコントラストも楽しめる。秋に商談が有れば、一度はぜひ訪れてみたいと考えていた。修一には、決して悪い話では無かった。午後も空き時間が無さそうなので、午前の早い時間に奈良公園を訪れる事にした。車を走らせ、朝の9時半過ぎには奈良公園に着くことが出来た。
大きな駐車場は有るのだが休日ならば混雑するだろう。平日は、2時間までの駐車は無料で空いていた。これが平日に訪問する営業旅の強みかもしれない。駐車場に止めてゆっくりと公園内を散策した。
(朝からこんな事してても良いのか。でも、今日は時間が空いてないし仕方ない。11時まではフリーだから……)
早朝の光の中、公園内が紅葉する中で五重塔・東大寺・正倉院や鹿の姿を見て周れたことは嬉しかった。さすがに、建物内まで見学する余裕は無かったが、午前の時間帯を十分に堪能し楽しむ事ができた。
11時になると午前訪問に向かうため車に戻った。ナビをセットしてクリニックに向かう。11時半には到着して、クリニックの受付に要件を伝える。このような時は、アポなしで面会を待つ方が時間効率は良い。待合スペースを見てみると、10名以上の製薬会社や他メーカーの営業が立って待っていた。異様な感じなので、最近は座って待つように指導する施設も多い。診察待ちの患者は既に居なかったので、修一は構わずに座って呼び出しの順番を待った。この様子では、おそらく15番目位になるのだろうか。院長の面会はなかなか進まない。12時を過ぎても半分も進んでいないので、立ち上がって受付まで行き訪問の趣旨を伝えた。
「S社の伊藤と申しますが、本日は近くの契約先に作業があり立ち寄らせて頂きました。大変申し訳ないのですが、午後の作業時間も迫っておりますので、残念ですが院長先生によろしくお伝えください。来年のカレンダーと粗品をお持ちしましたので宜しくお伝えください」
そう言って、受付の女性に社名入りのボールペンとカレンダーを添えて手渡した。
「ありがとうございます。院長に伝えますね。本日は、混雑しておりまして申し訳ありませんでした」
修一は、車に戻り昼食の事を考えた。こんな時でも、食べる事だけは忘れない。車を走らせながら小さな洋食店を探した。同僚から奈良の洋食系のキッチンは美味しいと聞いていたからだ。動物的な感を働かせながら、あまり新しくない店の駐車場に車を止めた。中に入ると昼時なのでそれなりに客は居たが、秀一1人くらいは問題なさそうだ。テーブルについて、メニューを見るとグリル料理が多かった。ウェイターが注文を取りに来た。
「お決まりになりましたか?」
「備中高原鶏のグリルとパンにしてください。コーヒーもお願いします」
ウェイターに注文してから10分ほど過ぎると熱々のグリルが運ばれて来た。焼き立ての地鶏にフライや野菜がのっている。それ以外に、スープやサラダが別に付いている。これで910円という価格を考えると、お得なセットだと思った。大きな鶏肉と獅子唐辛子の焼目がとても美味しそうに見える。最初は、何もつけずに口に運んだが、自然な表面の焼目の感触とジューシーで柔らかな肉のハーモニーがたまらなかった。その後に、着いて来たソースを掛けると熱い鉄板の上に零れ落ち食欲をそそる音がした。合間に獅子唐辛子やフライを食べながらスープを飲むと、あっという間にパンが残り少なくなった。パンを追加すると食べ過ぎだと思ったので残りを調整しながら食べた。美味しく頂いてから、レジで支払いをするとピッタリ税込みで1,000円と言われた。コーヒーは別だと思っていたので得をした気分だった。
車に戻り午前の飲み掛けのコーヒーを飲み干した。午後の訪問は2時だったので、ナビをセットして直ぐに出出発した。病院には、10分前に着いたのでそのまま車を出て受付に向かう。
「S社の伊藤と申しますが、解約の撤去作業で伺いました」
「お待ちしてましたので、ご案内いたしますね。どうぞ、こちらへ……」
案内を受けて作業部屋に案内されると担当者が待っていた。今回は、パソコンと他機材も回収しなければいけないようだ。担当者が撤去作業をしている秀一に話し掛けてくる。
「S社さんは利用していて、特に不満は無かったんだけどD社さんが頻繁に案内に来てね……。何度も話してる内に、気持ちが向こうに移っちゃってさ。それで解約になっちゃったの。S社さんは、あんまり来ないもんね」
「そうでしたか……。申し訳ありませんでした。私共のサービスが行き届かずに残念です……」
「機材は要りませんので、全て回収してください」
そう言われて、PCなど機材を段ボールに回収した。作業が終わって挨拶をすると、段ボールを宅配便の営業店舗に持ち込んだ。着払いにして会社宛てに発送した。発払いにすると自分で立て替えなければいけないので旅費の精算が面倒だからだ。修一は、いつも着払いにしていた。これで、全ての作業が終わったのでTレンタカーの店舗にナビをセットした。車を返すと既に4時半になっていた。
いつもより、時間が掛かったので京都駅で食材を買い求めて帰りの新幹線に乗り込む事にした。京風の和食系弁当の感じでは無かったので、店舗の弁当コーナーで違う物をと思い探していると肉厚の『かつサンド』1,000円が目に止まった。お摘みも探してみると京都の蒲鉾屋さんの『お摘みセット』350円が美味しそう。これにビール2本を買えば、出張の夕食代2,000円位になる。領収書を2,000円で切ってもらい新幹線に乗る準備をした。
京都駅が、夜6時20分発の『のぞみ』の2列席の窓側を予約した。混雑した場合、3列席だと東京まで窮屈な感じで嫌なのだ。列車が走り始まってからお弁当とお摘みを開くのが醍醐味。別に『乗り鉄』でも『呑み鉄』でもないがそんな習慣。いつも、列車内の晩餐は1日のストレスを癒してくれた。『かつ』も『蒲鉾』も京都老舗の品らしい。柔らかい『かつサンド』や上品な『蒲鉾』を口に運びながらビールで流し込んだ。時間はタップリあるので、今日の奈良公園を想い出しながら夕食を楽しんだ。帰りの新幹線の晩餐は、何故か修一自身の反省会を含むことが多いが、前半戦は楽しい事の回想と心に決めている。東京が近づくと、いつも何故かしんみりしてくる。
名古屋駅に到着した頃には、大分ほろ酔い気分になってきた。寄りの車窓を見つめながら浜松駅を通過すると秀一はソワソワしてくる。パーサーが近くまで来るのを待っているのだ。
(今は車内販売が無くなった様ですが、この頃は新幹線の車内販売の方が来てくれる時代でした……)
浜松駅の通過が、カチンカチンの高級アイスクリームを買うタイミングなのだ。間もなくパーサーの方が直ぐ脇まで来たのでアイスクリームを購入した。購入したアイスクリームは窓側に置いて熱海辺りまで放置すると調度食べ頃になる。安心して残りの晩酌を開始した。車窓から別に景色が見える訳ではないが、夜の灯りは修一の気持ちを落ち着かせた。静岡駅を過ぎると早速アイスクリームを手にした。早いかと思ったが、食べ頃に柔らかくなっている。
高級なアイスクリームを口に運びながら、今日の解約の事を考えていた。修一自身も含めて奈良にもっと行けていればこんな事には成らなかっただろうと反省していた。明日の出張報告書には、今日の内容を克明に書くつもりだ。何人が共鳴してくれるかは分からないが、『訪問できていない施設の競合他社への心移り』は若い人達には伝えなければいけないと感じていた。勿論、若い人達の出張への価値観までは変わらないだろうが、修一自身の思いを少しだけでも伝えたかった。新幹線が新横浜駅に着くとほろ酔いだった気分が一気に覚醒された。東京が近づくと起きるこの現象を、修一は『大宮-横浜-覚醒』と勝手に名付けている。終着の東京駅に着くと全ての苦楽の思考は消え、硬いホームを足元に感じながら帰路に着いた。