食べた?
「噂のあれ、食べた?」
大学が休講になったので寮の自室にこもってスプラ3に没頭していると、先輩が勝手に入って来て言った。顔を覗き込んでくるものだから、ヒッセンに叩きのめされてしまった。屈伸で煽られたから電源を落とした。
「なんの噂すか?」
外見だけは無駄に良いから、間近に迫られると心臓に悪い。けれどこの人は、そんなことはちっとも気にしてくれない。悔しいからこっちも無関心のフリをしている。
「じんにくラーメン」
その噂は聞いたことがある。こういうの、先輩も好きだろうと思って調べたりもしたけど、それは言わない。
「駅裏の汚いラーメン屋ですよね? 聞いたこと、あります」
「行ってみない?」
「今からすか?」
「うん」
外は暮れかけている。夕飯時だ。
けっきょく先輩と二人で夕暮れの駅前を歩くことになった。東横線で渋谷まで一本で行けるけど、人は少ないし緑が多い。ひなびた雰囲気だ。
「この辺りで若い女の人が二人、行方不明になってるやつですよね?」
「そうそう」
それを使ってラーメンを作っている。そんな陳腐な噂だ。C級和製ホラー映画の導入みたいなチープさだ。
「安物のホラー漫画みたいだね」
先輩も同じような感想だ。何故だかこの先輩とは、趣味や嗜好、考え方とか色々が似ている。だからこんな風に、何となくいつも一緒にいるのかもしれない。
「頼み方も知ってる?」
「はい」
「じゃあ大丈夫だ」
決まった方法で注文すると、そのラーメンは出てくるらしい。
まだ蒸し暑さの名残が漂う商店街を抜けると、その店はあった。古びた外観。古びた木製の引き戸に、曇りガラスがはまっている。「らーめん」と書かれた暖簾は、くたびれほつれていた。
遠くでひぐらしが鳴いている。
「さ、入ろう」
先輩に続いて、中に入った。
店内は臭かった。生ごみをしばらくほったらかしたようだ。
蛍光灯の白井光は、時折不快にちらついている。床は油にまみれている。足を着けるとぬるりと滑り、離そうとするとべとっと粘着してくる。
ぬる、べと、ぬる、べと。ぬる、べと、ぬる、べと。
ぬる、べと、ぬる、べと。ぬる、べと、ぬる、べと。
手前から二つ目のテーブルに、先輩と向かい合て座った。椅子の座面はビニール製で、やっぱりべとっとしている。
壁には手書きのメニューが短冊のように並んでいる。
あった。
にんにくらーめん。最初の「に」が下手だから、「じ」に見えている。もう帰りたくなってきた。けれど先輩は物おじせずに手を挙げた。
「注文、いいですか?」
カウンターの奥から無精ひげのおじさんが出てきた。白い服を着ているはずなのに、あちこち汚れで黒ずんでいる。しゃがれた声で言った。
「なんにする?」
注文しようかと思ったけれど、先に先輩が口を開いた。
「にんにくラーメンふたつ、にんにく抜きで」
「肉は?」
「骨付き肉を」
「……火加減は?」
「弱火でじっくり」
「……あいよ」
おじさんが引っ込み、しばらくすると厨房の奥からカチャカチャと音が聞こえてくる。
出てくるまでの間、一言も話さなかった。先輩はにこにこと笑っていたけど、こっちにそんな余裕はない。
「おまち」
目の前に丼が置かれた。模様の無い真っ白な器だ。その縁は、傷がついて黒ずんでいる。
そして中には透明なスープと縮れ麺。そして上にはよく分からない肉が乗っている。長く煮込んだのか、茶色でぐずぐずになっている。
「た、食べようか」
流石の先輩も、少し声が震えている。二人で割り箸を割ると、おそるおそる箸をつけた。まずは麺を一本つまみ上げて、ほんの一口かじる。
ものすごくしょっぱい。くたくたの柔らかい麺から、塩がにじみ出てくるようだ。
次にレンゲでスープをわずかに口に含む。
透明なのにとんこつの様な臭みがあり、しかも少し苦い。もう気分が悪くなってきた。けれど本番はこれからだ。
茶色でどろどろとした肉を箸先でつまみあげ、口元まで持ってくる。
先輩を見ると、ちょうど肉を頬張ったところだ。結構大きめの塊を齧っている。今まで見たことが無いくらい難しい顔をして味わっている。
食べるしかない。
ちびりと齧り取った。くたくたに煮込まれ、味も触感もよく分からない。
何の肉かも分からない。
分からない。
でも確信した。これはきっと……。
「ごちそうさまでした」
勘定を済ませて外へ出ると、先輩と二人で暫く黙って歩いた。
何を話そうか。迷っているうちに、また先輩が先に口を開いた。
「違ったね」
少し寂しそうな、安心したような、複雑な口調だ。
けれど、そう。
そうなんだ。あれは人肉じゃない。何の肉かは分からなかったけど、少なくとも人じゃなかった。
でも、どうして先輩はそれが分かったんだ?
だって、そうと分かるには知っていなければいけない。それじゃあ、先輩は……。
そこで考えるのを止めた。もしこちらが気付いていると、先輩に知られてしまったら……。先輩とは考えも趣味も思考も、驚くほど合う。ちょっとしたことで気付かれてしまうはずだ。
何か会話をしなきゃ。
何を言おう。なんて言おう。何を言う。
「もしかしてさ……」
先輩が顔を覗き込んできた。間近に迫る顔に、心臓が音をたてる。
「食べた?」