第1話 魔合
1912年。北イタリアで発見された奇妙な古文書──ヴォイニッチ手稿は、完全に未知の言語で記されていた。
現在まで解読されないその暗号のような文章も謎だが、挿絵の意味もまた意味不明。
植物や水槽の絵。女の裸体などの奇妙な絵図が、ほぼ全ページに渡り描かれていた。
暗号説、捏造説。もしくは未発見の文明の痕跡。ひょっとすると、宇宙人が人類にあてたメッセージかもしれない。
世界中の天才たちが、これまでに何度も手稿の謎を解き明かそうと挑んできたが、未だ解読には至っておらず。
野心あふれる考古学者たちにとっても、この書は魅力的な研究テーマであった。
しかしとっておきの真実とは、いつだって我々にとって最も信じがたいものに相違ないのだ。
そして、受け入れ難い真実に何度絶望しようとも、我々は歩み続けなけらばならない。
そう… それだけが、矮小なる自己存在を認識できるたった一つの方法なのだから──。
時は経ち、2408年。
その頃の人類は、超高度に発達した文明社会を築いていた。
AIのシンギュラリティが起こり、労働も老いることさえも必要なくなった世界。
人々は現実の肉体から解脱し、完全な仮想世界で永久のユートピアを築いていた。
その名もカテドラルスペース。
世界各地の都市部に建設された巨大な塔の内部には、仮想空間にアクセスできる人工羊水と、ナノマシンの詰まったプールという生命維持装置が何千万台も設置された。
市民たちは、プールを通して自意識のみをバーチャルワールドにアクセスし、快適で何不自由のない個々の人生を謳歌していたのだ。
そして、それほどのテクノロジーを持ってすれば、どんな古文書の解読だって可能だ。
一時は解読不可能と思われたヴォイニッチ手稿も今日。長い時を経て、その一部が完全に解読された。
コンピューターの解析により、解読結果は完全に正しいはず。
しかしそれは、学者たちの予想だにしないものだった……。
─侮ることなかれ
空想が現実となり、悪夢が災いとなって降りかかる。
死者の霊、悪魔、ウィッチ、レプラカーンやドラゴン。
異世界の住人たちは、1000年の時をもって日常となる。
恐るることなかれ─
ヴォイニッチ手稿 改め、ヴォイニッチ予言書より 第57項 新世界開合
そこにあったのは、不吉な言葉と異世界などという不可思議な単語の羅列。
1000年間も議題にされた本の中身は、虚妄で埋め尽くされた戯言の塊であった。
現実的に考え、ラノベじゃないんだ。異世界なんて到底ありえない。
「ココに書かれてあるのは本当なのか?」
「悪魔?ドラゴン? 馬鹿げてるとしか思えない!!」
仮想空間の研究室で、エアディスプレイに表示される分析結果を見ながら、学者たちは驚きと困惑の声を上げた。
非科学的で、世界観はまるでオトギ話。多くの考古学者たちは肩を落としていた。
25世紀の科学を持ってしても、ドラゴンなどの存在はやはり非現実だ。
証明はされていない。信じることなどできない。
学者が求めていたのは知識であって、予言などというオカルトでは決してなかった。
「……偽物でしょうね」
「どこかですり替わってしまったんだよ!」
歴史の中で、古文書の行方が消失するということは何度もあった。
おそらくその時のいずれかで、本物は失われてしまったのだろう。
そのように判断した学者たちは、偽りの書かれた古文書を、現実空間に存在する史料室の奥深くへと封印したのだった。
やがて人々の記憶からも、ヴォイニッチ手稿と偽の予言は完全に忘れ去られることになった。
人口の大半が仮想空間で生活するようになってから、この時すでに、百年余りの年月が経過していた。
仮想空間では電気的な意識のみが存在する。
そのため、肉体の優劣に左右されることなく、想像力だけでなんだって出来た。
念じるだけで炊事からプログラミングまで出来るし、そもそも食事の必要すらなかった。
また、外見を自由に変え憧れの対象に成り代わることも、超人的な力であらゆる欲望を満たすことさえ可能だったのだ。
どんなことも出来る世界だ。しかも、誰もがそこで暮らす権利がある。
わざわざ辛い現実世界で生きようとするなんて、よほど物好きじゃなければいない。
考えられるのは、反仮想空間の思想を持つアンチダイバー。それと産業用ロボットくらいなもの。
それ以外の人間は、一生を仮想空間で暮らすことが出来る。
何も不自由はない。もちろん幸せだった。
しかし、そんな仮想世界での満ち足りた生活も、突如として終焉を迎えることになる。
古文書の中で示唆されていた非現実世界の者たちによって…………。
2422年
それは、ヴォイニッチ手稿の予言が顕現される日。
空想が現実になるときが、ついに訪れたのだ!
のちに、魔合と呼ばれる人類史上最悪の大災害である。
異世界の扉はレーダーには映らなかった。
肉眼でしか見る事ができず、この世界とは異なる理による神秘の青い月なのだ。
日に日に肥大化するその謎の新天体の存在に、地上のアンチダイバーはその時までずっと恐怖していた。
そして、時は満ちる。
月と太陽、そして異世界から来た青い月。星々の影が完全に一つに重なった。
蝕と共に星の光は全方位に弾け飛び、辺りは白く明るい闇に包まれる。
神のようであり悪魔のよう。神聖さと悍ましさを兼ね備えたカオス。
極光は千里を一瞬で駆け抜け、魔界と現世の二つの世界は、輝ける闇の下に一つに包み込まれた。
ここに、混沌に満ちた新世界は創誕した。
魔界には未知の微生物が存在しており、それらは人間たちの世界にも数多くの影響を及ぼした。
その最たるものが、魔力という概念をこちら側の世界に持ち込んだことだ。
大地は魔力を秘めた緑光の結晶体で覆われ、空では火を吐く7匹の怪鳥が奇声を上げながら舞い踊る。
悪夢のような暗黒の中、肉の焼ける匂いと共に血煙が天まで立ち上り、誰もが否応なしに終焉を知覚させられる。
だが、こんなことは全く大したことでは無かった。次の事柄に比べれば……。
そう。これ以上に最悪な事があったのだ。
それはつまり、魔界から来たモンスターたちが、仮想空間で人々が眠る塔をブチ壊して回ったことだ!!!
アンチダイバー達はなんとかその破壊を止めようとした。
だが、狂暴な牙を持つモンスターによって、逆に数を減らされてしまった。
大量のプールのある塔をいくつも壊され、仮想空間で暮らしていた人間はすべて死に絶えた。
200億まであった人類は、わずか2億にまで数を減らした。
それ即ち、文明の崩壊である。
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