憎悪の連鎖
クレアは無我夢中で走り続けて、平民の住宅区域から王都の外へつながる森へと身を隠した。
そこでついに体力の限界に達して、仕方なく木の根元にうずくまって夜まですごした。
「寒い……」
冷たい雨に打たれて、体温が急激に下がっている。
クレアは仕方なく落ちていた枝に鉱石術で火をつける。
枝が濡れていたのと、魔力が回復していないために時間はかかったが、なんとか暖をとることはできた。
「これから、どうすればいいんだろう」
クレアは立てた両膝を胸に抱き寄せて、不安そうにつぶやいた。
暴力と労働に支配された監禁生活は苦しかったが、衣食住には困らなかった。
「お腹すいたな」
頼れる相手もおらず、雨に打たれながら必死に身を隠すしかない状況がなんとも無様で、クレアは膝に顔を埋めてむせび泣くしかなかった。
小雨になって、雲の切れ間から燃えるような赤い夕陽が覗いた。
塔の上から眺める夕陽と大きさが違って新鮮だったが、ずっと嵐の中にいたせいで頭痛がひどくて気分は最悪だ。
追手に見つからなかったのは幸いだった。しかし、どこへ行くべきかわからなかったので、ひとまず町の様子を見に行くことにした。
嵐で吹き飛ばされて木に引っかかっていたクロークを羽織って、王都の商業区に入る。
八年前と比べて出店も多く、雨が上がったことでどの店もにぎわいを見せている。
甘い菓子の匂いや、食欲をそそるスープの香りにお腹が鳴った。
「ライザ様だわ!」
その声にびくりと体が震える。
クレアは挙動不審にならない程度に周囲を見回した。
すると出店に並んでいた人々が広場に集まっているのが見えた。
人々が釘付けになっているのは魔鉱石で作られた長方形型の巨大な映像装置だった。
小型の機械に記録された映像を、この巨大な画面に映し出すことが可能だ。
巨大な薄っぺらい映像装置には、神妙な顔つきでこちらを見つめるライザが映っている。クレアへの殺意は影をひそめて、聖女らしい清らかさを演出している。
「聖女ライザから、みなさんにお願いがあります。それは聖女クレアの捜索です。彼女は聖女としての務めを放棄して失踪してしまったのです」
聖女の失踪と聞いて広場がどよめいた。
務めを放棄? あなたが殺そうとしたくせに! クレアは唇を噛みしめた。
ライザは一度ことばを切って、悲痛な面持ちで言った。
「その理由をここで発表することになるのは、とても心苦しい」
ライザは目元を拭いながら、
「私、聖女ライザは一月後に星羅騎士団騎士団長のルベン様と結婚する予定でした」
ざわめきが波のように広がり、クレアの頭の中は真っ白になった。
「けれど聖女クレアもまたルベン様に想いを寄せていた。そして昨夜、クレアはその強力な聖女の力を乱用して、ルベン様を誘惑し、無理矢理肉体関係を結ばせたのです!」
初代聖女と同じと言われた金色の瞳から、はらはらと大粒の涙がこぼれる。
クレアの中で驚愕と怒りが交互に押し寄せるが、処理しきれない感情が限界を越えると人間は硬直してしまうのだと初めて知った。
どうしてこんな嘘をつくのだろう?
ルベンとクレアの婚約は公表されていなかったため、真実を知る者はこの場に存在しない。
だからこそジェード家やモリブデンがわざわざこんな発表をさせるとは思えない。
つまりライザの独断であることはあきらかだ。
「私を……そんなに追いつめたいんだ」
ここは聖女ライザを支持する王都だ。
彼女は自分の支持者を操って、クレアを完全に叩きのめそうとしているのだ。
「でも私はクレアを許します」
ライザは悲しみを振り払うように微笑んだ。
「だって聖女になる前からの親友だもの。話せばきっとわかりあえると私は信じています。お願いクレア……もどってきて」
「ふざけないでよ」
許すとは、まるでこちらが罪人のような口振りである。
怒りで全身の血が沸騰するかのようだ。
「なあ、そこの女」
クレアは我に返り、フードの奥から周囲を見回す。
すると誰かがクレアを指差しているのが見えた。
クロークで隠してはいるが、聖女の礼服が見えていたのだろう。
「聖女クレアは赤髪だったよな?」
クレアの背後から誰かの手が伸びて、頭のフードを後ろに落とした。クレアは慌てて頭を隠したが、遅かった。
広場に集まった人々の視線が一斉にクレアを射抜いた。
彼らの目には聖女への敬意など存在しない。誰もがライザという聖女を傷つけた大罪人への敵意に燃えていた。
「やっぱりこいつ、聖女クレアだ!」
「のこのこもどって来るなんて、この恥知らず!」
「ライザ様がお許しになられても俺たちが許さないぞ! よくもライザ様を悲しませたな!」
「いくらライザ様が羨ましかったからって、神聖なる聖女の力を使ってルベン様を誘惑するなんて汚らわしい女……」
「お前なんか聖女じゃない。卑しい魔女だ!」
初めて向けられる不特定多数の敵意と殺意に、クレアは恐怖で身動きがとれなかった。
怒号と罵詈雑言の嵐が聴覚を蝕み、軽蔑の視線が胸を刺し貫いた。
不思議なことに、地上に降りても生贄に捧げられたような気分だった。
「違う……ライザが私を嵌めたのよ!」
勇気を振り絞った反論は石の嵐にさえぎられて、クレアは両腕で頭を守りながら逃げ出した。
防ぎきれなかった石が額に当たって、垂れた血が視界を赤く染めていく。
やはり私はインフェルノへ落とされたのだろうか?
クレアは両側から伸びてくる手を掻いくぐって、再び森の中へと飛びこんだ。
「助けて、誰か!」
クレアは助けを乞いながら、ひたすら走った。
すると背後から何者かにクロークをつかまれて、クレアは後ろに引き倒された。
そのまま腹の上に馬乗りされる形で押さえつけられる。
「よお、お前が聖女クレア様か」
伸び放題の髭の奥で、下品な笑みを浮かべた男がクレアを見下ろしている。
おぞましさに総毛立った。
「聖女の力なら、どこでも言い値で買ってくれそうだ」
「きゃあああ!」
「騒ぐな!」
硬くて分厚い手で口を塞がれて、クレアは息苦しさと恐怖にもがいた。
まだ自由を許されている右手で口を塞ぐ男の手をつかんで、もっとも得意な火の鉱石術を発動させた。
ちょっとした火傷程度の攻撃ではあるが、男は大袈裟に驚いてクレアの体から飛び退いた。
「こ、こいつ! やりやがったなクソ女!」
「うわぁぁぁぁ!」
クレアは叫びながら近くの岩をつかんで、飛びこんで来た男の頭に振り下ろした。
鈍い音が手元から響いて、男は白目をむいて泥の中に倒れた。
クレアは血のついた岩を落として、肩で呼吸をしながら動かなくなった男を見下ろした。
「こ……殺した?」
呼吸が早くなる。
初めて人を手にかけた。犯罪だ。
いや、正当防衛だ。私はまちがっていない。
ゆっくりと正当化の過程をたどっていると、男の背中がびくりと震えて、泥にまみれた顔を上げた。
ぼんやりとクレアを見ていた男の目が、ぎょっと見開かれた。
まるで魔獣と遭遇したように、男は悲鳴を上げて逃げて行った。
「は、はは!」
一時的に危機が去ったからか、笑いがこみ上げてきた。
ひとしきり笑ったあと、クレアは男が去った方向とは逆の方向に歩き始めた。
何の当てもなかったが、このままじっとしていると王都の人間に追いつかれるかもしれない。
再び雨が降り始めた。
クレアは常に人間と魔獣の気配に怯えながら、雨の中をひたすら歩き続けた。
野草で飢えをしのぎ、泥水をすすっているうちに、時間の感覚を忘れた。
あの時、ルベンの行いに目をつぶっていれば、搾取される檻の中でふかふかのベッドで寝起きできたのかもしれない。そのほうがずっと幸せだったのではないか。
何度か後悔しそうになって、そのたびに否定する。
いつか限界は訪れたはずだと。
疲労と空腹と眩暈で、クレアはついに一歩も動けなくなって倒れた。
「死ぬのかな……」
クレアは感覚も曖昧になった指でペンダントに触れて、目蓋を閉じた。
あの子供を救えたことだけが、クレアの人生の誇りだ。せめて、美しい思い出を抱いて死にたかった。
すると遠のく意識の中で、誰かの声が聞こえた。
「お嬢さん、もう少し頑張って。そこに私の家があるのよ」
重い目蓋を開くと、そこには心配そうにこちらを覗きこむ腰の曲がった老婆がいた。
「よかった、意識があったのね。立てるかしら?」
「はい」
クレアは背中に添えられた手の温かさに泣きながらうなずいた。
彼女は自分が汚れるのも厭わずに、クレアを支えながら温かい家の中へと迎え入れてくれた。
王都から離れているためか、クレアが聖女だと気づいていないのかもしれない。
「ほら、ここでゆっくりしていて。すぐにシチューを作るからね」
「あの、私は」
「気にしないで。何か事情があるのでしょう?」
老婆はクレアをタオルで包むと、クレアを問いつめることなく食事を作り始めた。
クレアは彼女の厚意に甘えて、タオルで濡れた髪などを拭きながら暖炉の前で体を温めた。
しばらくして老婆は、ホワイトシチューを入れた木の皿を持ってきてくれた。
「ほら、熱いから気をつけてね」
「ありがとうございます」
クレアは木製のスプーンでシチューをすくい、一口含んだ。
久しぶりの温かい食事に、自然と涙がこぼれた。
「お、美味しいです」
「あらあら、泣かないで」
クレアは泣きながら何度もお礼を言って、シチューをあっという間に平らげた。
胃の中がほわりと温かくなって、指先の感覚がもどってきた。
生き物にとって食事がどれほど大切なものか、クレアは身を以て理解した。
「あの、突然すみませんでした。こんなに親切にしてくださって本当にありがとうございます」
「深くは聞かないわ。あなたの姿を見れば、想像がつきます。大変な思いをしたのね」
こちらを労わるような微笑みに、クレアは再び目頭が熱くなった。
人間はみんな敵なのだと思っていたクレアだったが、こんなにも親切な人もいたのだと考えを改めた。
人間は王都だけに存在するわけではないのだ。
「きょうはもう休みなさい。詳しいことは、あしたにしましょう。使っていない部屋があるからそこのベッドでおやすみなさい」
温かい手が、クレアの頭をそっと撫でる。
両親にも向けられたことのない慈しみの行為に、クレアは感激した。この人に、いつか恩返しをしたい。
部屋に案内されたクレアは、ふかふかのベッドに横になりながら幸福感に包まれていた。
「ニケ……大丈夫かしら」
飢えをしのぎ、一晩の寝床を得た安心感から、ようやく自分以外のことを考える余裕が生まれた。
しかし意識は半分夢の中だ。
このまま意識を手放そうと気を緩めたクレアを、誰かの話し声が引きもどした。
声はあの老婆のものだ。
ここまでずっと誰かの気配に敏感だったせいで、ちょっとした話し声すら自分のことを噂していると思いこんでしまう。
クレアは意を決してベッドを抜け出し、後ろめたく思いながら扉の隙間から盗み聞きをした。
「なんだよ母さん。こんな夜中に呼び出して」
「二階にいる子ね、城下町で話題になっている聖女クレアだよ。あの礼服はまちがいなく聖女のものだね、私は知っているんだから。ほら、騎士団が血眼になって探しているやつだよ。通報すればきっと金になるよ!」
一気に意識が覚醒して、クレアはぼろぼろになった靴を履いて、二階の窓から飛び降りた。
地面を転がり再び泥にまみれながら、クレアは全速力で森の中を走った。
どうしようもない馬鹿だ。愚かだ。なぜまた人を信用しようとしたのだろう!
「もう誰も信用しない! 私だけで生きてやる!」
クレアの赤い瞳に憎悪の炎が宿った。