(最終話)元聖女は天使を飼っている
潮の匂いがする。
港に停泊している船をぼんやりと眺めていると、強い風に吹かれて、クレアは髪をまとめなかったことを少し後悔した。
潮風でぼさぼさになってしまいそうだ。
買ったばかりの赤いワンピースの裾もめくり上がるので、押さえ続けるのもなんだか恥ずかしくなってしまう。
「旅行ですか」
クレアが振り返ると、そこには小綺麗な格好をした青年が立っていた。
声をかけられるとは思っていなかったので、少し驚きながらうなずいた。
「えぇ。海を見てみたくて」
「そうですか。ここからの眺めも素敵ですよね。少し前までは漁獲量も減って町全体が落ちこんでいましたけど、少しだけ勢いがもどってきて、町も海も生き生きとしている」
青年はクレアの隣に立って、同じように海を眺めて言った。
「魔獣もほとんど見かけなくなったおかげで、観光客も増えてきました。グロリアからの支援もありまして、もとの活気がもどりつつあります」
「グロリアと言えば、魔鉱石に頼らない機械でしたっけ?」
「そう! それがまた売れるんですよ」
どうやら商人のようだ。彼は人好きのする笑顔を浮かべて、右手を差し出した。
「よければ私がこの町を案内しましょうか。あなたにこそ案内したい美味しいレストランや夜景の美しい場所があるんですよ」
「クレア!」
凛とした声が割りこんで、アイスクリームを両手に持ったレイがもどって来た。
クレアの予想通り、商人の青年はレイの美貌に驚いた様子だった。
レイが青い瞳を細めて、青年に微笑んでみせる。
「おや、僕の妻に何か御用でしょうか」
「これは……」
青年はまいったなぁ、と言いたげに笑って、
「失礼いたしました。どうぞごゆっくりお楽しみください」
潔く謝罪して去って行った。
レイは不満そうに青年を見送っていたが、クレアに視線をもどすと、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「クレアってば、真っ赤になって可愛いですね」
「つ、妻って言うから」
「事実ですからね!」
クレアは赤い顔のまま、少し怒ったようにレイを見上げた。
体を覆う魔鉱石化から解放されたレイは著しく成長して、ついにはクレアの身長を追い越していた。
「どうぞ、クレア」
「ありがとう」
クレアは桃色のアイスクリームが盛りつけられたワッフルコーンを受け取った。
「わぁ……美味しそう」
「機嫌、直してもらえました?」
「えぇ、すっかり」
「よかった!」
機嫌なんてもとから悪くない。ただ照れくさかっただけなのだ。
レイは青色のアイスクリームを舐めて、幸せそうに目を細めた。
「僕、こうやってアイスクリームを食べることに憧れていたのですよ」
「私もよ。買ってくれて、ありがとう」
グロリアでアイスクリームを食べる女の子たちを、クレアが羨ましそうに見ていたことを覚えていたのだろう。
その気づかいが嬉しくて、頬が緩んだ。
「新婚旅行は始まったばかりですから、もっと楽しみましょう。次はどこへ行きますか?」
妻や新婚旅行など、レイはクレアが意識するとわかっていて言っている節がある。
ひとりだけ余裕なのが気に入らなくて、クレアはレイの腕を引いて、わざと音を立てて頬にキスをした。
すると、レイの白い頬に血がめぐって、あっという間に真っ赤に染まった。
まだまだお互いに初心なのだ。
「ふふ、やっとおそろいね!」
「う……クレアのそういうところ、本当にずるいなぁ」
してやったり、と得意げに胸を張るクレアに、レイは困ったように微笑んだ。
クレアはなんだか調子が良くなって、レイの腕に自分の腕を絡めた。
「行き先なんてどこでもいいの。紅茶とクッキーと、私の夫がいればそれでいい」
(終)
ここまで読んで下さって、本当にありがとうございました!




