天国の塔1
エンピレオの塔へと向かう天使の後姿が見えて、クレアは届かないとわかっていても右手を伸ばしていた。
「レイ!」
ルベンと騎士たちに囲まれていたレイが、弾かれたように振り返った。
顔の左半分はすでに青い魔鉱石に侵食されていた。
そして背中には、青く輝く六枚の羽が常に生えている状態になっている。
自分の命の時間を突きつけられて、どれほど不安だっただろう。
それでもレイは嬉しそうに目を細めていた。
「クレア!」
やっと会えた。名前を呼ばれただけて、レイの感情が流れこんでくる。
クレアも嬉しくなって、自然と笑みがこぼれた。
ルベンが視界をさえぎるようにレイを後ろへ押し退けるが、声が届けば問題ない。
「レイ。私はあきらめないわよ」
騎士たちが剣を抜いて行く手を阻んでいるが、クレアは歩みを止めない。
「私はいつだって怖がってた。何もかも怖がってあきらめていた。そんな私に手を差し伸べて、孤独にさせてくれなかったのはあなたでしょう! だから今度は私が助ける。もしあなたが生き残る可能性をあきらめていたとしても、私があきらめてあげないんだから!」
深い青の瞳が揺れた。
「だからもう一度私を信じて! レイ!」
聖女の力が覚醒したあの時と同じように、微笑みながら右手を伸ばせば、感情が芽生えたことを祝福するような、あのまぶしい笑顔が返ってきた。
「クレア! 僕はあなたと一緒に生きていたい!」
レイはクレアに応えた。そのまま駆け出そうとするレイを、ルベンは塔のほうへ突き飛ばし、クレアの前に立ちはだかった。騎士たちには手を出すな、と指示を出して剣を引き抜く。
その表情には影が落ちて、皮肉っぽい笑みが浮かんでいる。
「きみとまた剣を交えることになるとはな」
「レイは返してもらうわよ」
「やってみろ!」
とは言え、まともに打ち合って勝てる可能性は低い。
圧倒的な力量の差は、強力な鉱石術で埋めるしかない。
最初から全力で発動した炎の渦を、ルベンの雷が打ち消す。
さすがに騎士団長を名乗るだけあって、一筋縄ではいかない。
その時、一騎打ちに水を差すように、巨大な黒い腕がふたりの間を割って入った。
「何だ!」
「この気配……」
クレアたちを飲みこむように、巨大な影が落ちる。
天を見上げると、そこには塔の五階の高さに相当するほどの巨大な魔獣が出現していた。
大型魔獣は見覚えのある女性の姿をしている。
「助け、て……聖女……天使……解放、して」
魔獣はエンピレオの塔にすがりつくようにしてつぶやいた。そこに元凶があると言っているようなものだった。
「魔獣がことばを!?」
「こ、こいつ、どこから現れたんだ!」
騎士たちは予想外の事態に浮き足立っていた。
「怯むな! 鉱石術で応戦しろ!」
ルベンの鋭い指示でなんとか持ち直した騎士たちだが、苦しみもがくような魔獣の腕に吹き飛ばされていく。
クレアはその隙にレイのもとへ走って、その体を抱きしめた。
「レイ!」
「クレア、ずっと会いたかった!」
手を拘束されているレイは、侵食を受けていない右頬をすり寄せて再会を喜んだ。
クレアは、レイの後頭部と背中に腕を回して強く抱き寄せる。
とても長い間離れていたような気がして、こうして腕の中におさまった温もりに涙があふれる。
「魔鉱石化のこと、気づいてあげられなくてごめんね」
「クレアは何も悪くない。僕が言いだせなかっただけなのです。本当はこのまま死ぬんじゃないかって、なんとなくわかってた。でも認めたくなくて……」
「うん、わかってる。もう大丈夫」
苦しみを吐露するたびにこぼれるレイの涙を、クレアは優しく拭った。
レイの手首を拘束していた魔具を外すと、今度はレイから抱きしめられて、クレアももう一度その体にすがりつく。
「あなたが命をかける必要はないのよ。私の考えが正しければ、あなたも世界も救える。モリブデンって元凶を叩けばね」
「本当なのか」
ルベンがふたりを背にかばうようにしながら、話に入ってきた。
クレアはその背中を見上げながら、レイを守るようにぐっと腕に力をこめる。
「えぇ、あなたは信じないかもしれないけれど。止めても無駄よ」
「止めはしないさ」
その時、魔獣が悲鳴のような雄叫びを上げて、クレアたちに手を振り下ろした。
クレアは両手を組んで祈りの力を発動させる。
しかし、魔獣の手が消えただけで、完全なる消滅とはならなかった。
「どうして! 私の力が衰えたの?」
「いいえ、違います。もうクレアの祈りの力だけでは、魔獣を救済することができないのですよ」
レイが険しい顔をして、苦しみもだえる魔獣を見上げた。
「だったらなおさらモリブデンのところへ行くしかないわ。あいつのもとに膨大な祈りの力が存在するのよ。それを解放するしかない」
「だったら魔獣は俺たちが食い止めよう。きみたちはエンピレオに向かえ」
クレアは意外そうにルベンの背中を見つめた。
「何を考えているか知らないけれど……礼は言わないわよ」
「かまわない。かつて愛した女性を守るくらいはさせてくれ」
そう言ってクレアを見たルベンの顔はずいぶんと切なそうだが、それでも穏やかに見えた。
花束を持ってクレアに求婚した時のように、純粋だったルベンの姿がそこにある気がした。
「行きましょうクレア。あれは騎士の誓いなのですよ」
レイに手をとられて、クレアは立ち上がった。
その潔さとレイの口ぶりから、何か約束事でもしていたのかもしれない。
それよりもいまは、祈りの力を解放することが先決である。
クレアはレイと手をつないで、一年ぶりに塔への帰還を果たした。




