擦れ違い2
「いきなり出て行くなんて納得できません。まるで僕から逃げるかのようだ。僕に何か思うことがあるならば全部ぶつけてください。怒りでも悲しみでも恨み言でもいい。僕に向かうあなたの感情を余すことなく知りたいのです」
いつだってまっすぐなレイのことばが、クレアの心を揺らす。
それでもクレアは顔を上げることができずに、足元を見つめることしかできない。
「知りたいって、怖くないの。私、本当に最低なことを言ってしまうわ」
手首をつかんでいた手はするすると手の甲を撫でて、いつものように指を絡ませて手をにぎられた。それだけで、強張った体がほぐれていくようだった。
「あなたに嫌われるのはとても怖い。だからこそ僕の至らないところは改善していきたい。あなたのことを知りたいし、たくさん学びたい。あなたのそばにずっといるために」
はっとして、クレアはようやく顔を上げた。
そこにはいつもと変わらない、レイの微笑みがある。
私はレイのように自分の気持ちや願いを伝えただろうか?
伝える前に勝手に決めつけて、話を聞く前からあきらめていなかっただろうか。
信じるための努力をすると決めたのに。
「レイ」
「はい」
あんなひどい態度をとった直後だというのに、レイは優しく応えてくれた。
つながれた手を見て気づいたことがある。ペンダントに触れる代わりに、レイに触れることのほうが多くなっていたことを。
勇気を出せ、とクレアは震える唇を開いた。
「さっき女の子と一緒にいるのを見たの」
言ってしまった。
嘘をつかれて裏切られるのが怖い。
けれど、こんなことを聞いて嫌われないだろうか。
頭の中でルベンが「気持ち悪い、変なやつ」とクレアを笑っている。気持ち悪いだろうか? 嫌われてしまうだろうか?
クレアの心配をよそに、レイは特に隠すこともなくうなずいた。
「見ていたのですね。道具屋に入ったところも見ましたか?」
「見たわ。見られると、まずいの?」
レイの感情が読めなくて、クレアは不安そうに尋ねる。
そこでようやくレイは動揺を見せた。
「違いますよ! クレア、本当はね、少し豪華な夕食を作ったあとに見せようと思っていたのです」
レイはそこでクレアの手を離すと、横掛けにした鞄の中から紙袋をとり出した。
「開けてみてください」
紙袋を手渡されて、クレアは目を丸くする。
レイはクレアの反応に期待しているのか、にこにこと笑っている。
思っていた展開と異なることに戸惑いながら、クレアは紙袋を開いた。そこには赤と青の二対の手袋が入っていた。
「これって……」
「きょうは僕の初めての給料日でしたから、その記念にクレアに贈り物をしたかったのです」
おそろいにしてみました、とレイが照れくさそうに言った。
「手袋に穴が開いたから新調しないといけないって言っていましたよね。あの子は道具屋さんの娘さんで、金額の相談に乗ってもらっていたのです。だったら、クレアと恋人になった記念におそろいの手袋にすれば、クレアはもっと喜ぶよって教えてもらって……クレア!?」
レイの驚く声に、クレアは紙袋が雨に降られたように水に濡れているのに気がついた。
無意識に泣いていたらしい。
安心したせいで、余計に止まりそうにない。
「不安にさせてごめんなさい! あなたに相談すればよかったのに、僕はあなたの驚く顔が見たいと思ってしまって」
ごめんなさい、とレイは謝りながら、クレアの目元を拭ってくれた。
「違うのレイ、とても嬉しくて」
レイはいつだって私のことを考えてくれていたのに、私はどれだけ意気地なしなのだろう。
私を救ってくれた天使を何度疑えば気が済むのだろう。
「ごめんなさい、レイ。あなたを疑ったりなんかして、勝手に嫉妬して……レイのことだと私、泣き虫になるみたい」
「それは僕だけの特権と考えてよろしいでしょうか」
レイは嬉しそうに目を細めて、慰めるように頬にキスをしてくれた。
「私、自分が思っている以上にレイのことが大好きで、うまく感情が抑えられない……」
「それは……ふふ、可愛いなぁ。クレアに愛してもらえる僕は世界一の幸せ者です」
勘違いで不義を疑ったというのに、レイは「可愛い」の一言で済ませてしまった。
「もっと怒っていいのよ。もとはと言えば私が勝手に勘違いしたせいなんだから」
「どうして? 僕が勘違いさせるような行動をしたせいで、あなたを傷つけたのに?」
「レイ……あなたが優しすぎるから、私は甘えてばかりいるわ」
「もっと甘えていいのですよ」
おいで、と両手を広げるレイに、クレアは吸いこまれるようにして抱きついた。
隙間をなくすようにぴったりくっついて、ほっと胸を撫で下ろす。
よしよしと背中を撫でられて、クレアは甘えるようにレイの肩に額をこすりつけた。
身長はまだクレアのほうが高いが、徐々にその差が縮まっている。
あんなに薄いと思った背中や胸にも厚みが増した気がして、その成長の早さにどきりとしてしまう。
「レイ、手袋ありがとう。すごく嬉しい。大切に使うわ」
「どういたしまして!」
もっと伝える努力をしたい。もっと歩み寄りたい。
まずは目の前のことからはじめよう。クレアはそっと体を離した。
なんだか晴れやかな気持ちになって、自然と笑顔が浮かんだ。
「レイの言うとおり、きょうの夕食は豪華にしましょうか。あなたの大好物のトマトたっぷりサラダにトマトスープも作りましょう」
「本当ですか! 僕はクレアの好きなパスタも作ろうと思って、色々材料も買ってきましたよ。荷物を置いたらすぐに手伝いますね!」
「うん、ありがとう。大好き」
「はい! えぇ!?」
不意打ちに弱いらしく、レイは素っ頓狂な声を上げて顔を真っ赤にした。その反応が可愛くて笑っていると、レイは悪戯っぽく目を細めた。
「じゃあ僕は、愛している、でしょうか」
「うぅっ」
形勢逆転とばかりに満足そうに微笑むレイに、クレアは降参を示すように赤くなった顔を両手で覆った。
「もう、ずるい……」
「ふふ、きょうの夕食が楽しみだなぁ」
上機嫌に部屋へ向かうレイの背中を見送って、クレアは気合いを入れようと赤いエプロンを手にとった。
するとレイの部屋のほうから「うわ」と大きな声がしたので、クレアは反射的に駆け出した。
「レイ! 何かあった?」
「あ、クレア」
レイは左腕を袖の上からさすっていた。
「腕が痛いの?」
「あ、その、ちょっとぶつけちゃって」
「大丈夫? 見せてみて」
「またそうやって子供扱いするんだから……大丈夫ですよ。ちょっと浮かれすぎて、どじを踏んだだけです」
そうやって恥ずかしそうにむくれるので、クレアは安堵した。少し過保護になりすぎているのかもしれない。
「それだけ言い返せるなら大丈夫そうね。じゃあ、先に作り始めてるからね」
「えぇ、すぐ行きます」
この時、強引に問いただしておけばよかった、とクレアは後に激しく後悔した。




