遠くへ行きたい
リビングでパソコンを難しい顔で眺めていた彼女が、突然ぱあっと笑顔になり、わたしを手招きした。
近寄って画面を覗くと、そこに映っていたのは、車椅子。
歩けない程ではないものの、彼方は常に松葉杖かわたしの肩を支えに移動している。家の中では一階のみで生活出来るからさほど問題にはならないが、昨日、買い物に付いていきたいと駄々をこねた。
行きつけのスーパーまでは、長い坂がある。車通りの多い道を渡る必要もある。
何とか介護して連れて行ったが、普段の三倍の時間がかかって、晩ご飯が遅くなってしまったので「次は無い」と言い渡したところだった。
「この自走介助兼用っていうのだとね、押してもらう時のハンドルにブレーキが付いてるんだって。で、このチェック柄のシート、可愛くない? いや~、今の車椅子って結構カラーバリエーションあっておしゃれになってるんだねぇ~」
白黒チェックの車椅子の紹介ページをスクロールし、こんな機能もこんな機能も、とテレビショッピングの販売員が如く説明する彼方。わたしはほとんどを流し見ながら、一点、しっかりと確認する。
十万円近くするのかぁ……。
「何でそんなに出かけたい訳? 別に、その……わたしと一緒に居られれば、十分じゃないの?」
「デートしたいじゃん、デート! 行きたいところあるし、このままじゃ難しいでしょ?」
「……家デート」
「毎日やってるじゃん! もっと違う雰囲気でドキドキしようよぉ」
彼方が欲しいと言うのならば、元よりわたしに否定する気はない。出来る限りの事は叶えてあげたいし、どうせ……支払いは自分でする気だろう。
彼方が幾ら蓄えているのか、わたしは知らない。『天仕』の活動には僅かだが報奨金が出る。また、助けた地域の会社の社長から、個人的にお礼金を貰った、なんてニュースを見た事がある。『最強の天仕』だった彼女の貯金がどれくらいのものなのか、想像がつかないし、探ろうとも思わない。……がめつい女だと思われたくないから。
それに、彼女の資産の中には、両親の遺産も含まれている訳で。そこに触れるのは、個人的なタブーだ。
両親を亡くした時の彼女の悲痛な横顔は、二度と見たくないから。
「ねぇ、買っていい? いいかなぁ?」
親にお菓子をねだる子供の様な無邪気な笑顔。自分で買うのだろうにわたしの同意を求めるのは、恋人として隠し事は無しという心積もりだろうと思う。まぁ、相談されたからにはこちらも真面目に検討するべきか。幾つかシミュレーションしてみよう。
外出時に使うだけならば、玄関から室内へのスロープがない事は問題にはならない。幸い、自宅敷地外まではコンクリート舗装の緩やかな坂。何の工事も必要なさそうだ。明日から使える、となっても大丈夫。
「うん、買ったら? デート、どこ行くか楽しみにしてる」
「やったぁ! それじゃぁポチっと。三日くらいで着くって~」
カチャカチャと人差し指だけでキーを押し、購入に必要な情報入力を始める彼方。わたしならもっと早く打てるのになぁと思うが、個人情報の盗み見はしたくないのでそっとその場を離れる。
「コトー! ここの住所って何だっけ~!」
直ぐに呼び戻されたので、お茶と住所の分かる郵送物を持ってリビングへ戻った。
「うっかり前の住所に送っちゃうとこだったよ~。危ない危ない」
「同棲中だって意識もっと持ってください」
「はーい、うちは今コトのお家に一緒に住んでまーす」
「そうです、一緒に住んでます」
「えへへ~」
目尻が垂れに垂れ下がって、溶けたみたいな笑顔。多分、わたしも同じ様な顔をしている。
夢だった。こんな日々が。二人の、夢だった。
ずっと続けば、どんなに良いだろう。
夢の中で、夢だけを見続けていられたら。
車椅子が届いたら。彼女がデートに連れて行ってくれて。新しい夢を見せてくれて。
その度に、現実は否応なく進んでいく。
わたしは、いつか受け入れる事が、出来るだろうか。