6.夏の夜の逃避行
人も獣も寄り付かぬ、樹海の奥地。
昼夜問わず、うっすらと霧がかかり先の見通せぬその場所は、足を踏み入れた者を迷わせ、死への旅路へと誘う魔法がかけられていた。
古の魔法を引き継ぐは、大陸の中でも一際小さきもの達の役目であった。
彼らは樹海に住む者たちと条約を交わし、自らの住まう土地と森を守り続けている。
その俗世と関わることのない聖なる大地、清らかな湧き水が滾々と流れる川の上流にある泉には、中央に小さな島が浮いていて、大きな千年大樹が根を張っていた。
その場所で、今、一人の妖精姫が罪を犯した咎により、牢屋へと放り込まれたところであった。
投げ入れられたときに擦りむいた傷をさすりながら、彼女は牢屋の外に立つ男を見上げる。
そこには罪を暴いて裁きを下した者と、その腕に隠れるようにぴったりとくっついた娘が、囚われた姫を見下ろしているのだった。
「ターニア。お前の罪は決して許されることではないのだ」
牢に囚われた妖精姫――ターニアは、その言葉を聞き一度瞬きをすると、努めて冷静に言い返す。
「罪など犯してはおりません。証拠はあるのでしょうか? オベロン様」
「チッ。このヘレナが、お前につらく当たられ日々泣き暮らしていると言っていたのだ」
「――具体的な話が何もありませんわね。ヘレナ、一体わたくしに何をされたのです? わたくしは夏至に向けて忙しく過ごしていました。あなたと関わる余裕などありませんでしたわ」
ヘレナと呼ばれた妖精の娘は、オベロンの背に隠れ、こわい、ひどいと嘆き続ける。
オベロンはヘレナをその背に庇い、愛おしそうな眼差しを送ると、今度は酷く冷めた目でターニアを睨む。
「お前のような女と一度でも婚約していたとはな。罪人を娶ることなど不可能だ。よってこの場で婚約を破棄させてもらう」
「っ!」
冷静であったターニアは、その言葉に酷く狼狽した。その姿をみたオベロンは鼻で笑うと、高らかと己の胸の内を晒した。
「俺は真実の愛を見つけたのだ。このヘレナこそ、俺の妃に相応しい。その彼女に狼藉を働いたのだ。しかと反省し、その命をもって償え」
「お待ちください! そのようなこと、わたくしは到底受け入れられません」
「もう決めたことだ。その命が尽きるまでの短い間、しかと反省し己の罪を悔い改めよ」
項垂れ、何も発しないターニアに満足したオベロンは、ヘレナを連れてその場を立ち去った。
「……どうして、こんなことになってしまったのよ」
その後ろ姿に、ターニアは小さく嘆いたのだった。
□□□
牢屋の小さな窓から、月の一部が顔を覗かせる。その月光に目を細めながら、ターニアはある人物を待っていた。
明日に控えた処刑の前に、オベロンの慈悲と称して毒を差し入れる兵士が来ることを。
窓から見えていた月が通り過ぎたころ、牢に近づいてくる気配を察し、待ちわびていたターニアは思わず格子に手を掛けた。
その姿を見て、顔がゆがむ
「どうして、あなたなの。ロビン」
「オベロン様の命令で。俺はターニア様のお付きの護衛です。けど、もしかしたら、オベロン様は俺たちのことを知っていて命令を下したのかもしれませんね。もちろん俺はあなたへの愛を忠誠心として捧げると誓いましたから、やましいことなどないのですけどね」
「ロビンにはガールフレンドが沢山いたでしょ。オベロン様がわたくしとロビンの仲を疑うなんて、ありえないわ」
「ターニア様が嫉妬してくれなくて、ムキになってしまいましたよ。本当につれない方だ」
「ロビン、わたくしは断ったはずよ」
「ええ、その愛を忠誠心として捧げるなら側仕えを許すとおっしゃられた。よく覚えていますよ。けど、これは一体なんの茶番ですか?」
ロビンの愛したターニアは、大樹の里の領主であるオベロンの婚約者であった。
ダメと知りつつ告白し、ターニアはロビンをきっぱりと振ってくれた。
手の届かない高嶺の花。無駄と知りつつ気にかけてほしくて、随分馬鹿なことも仕出かした。
そのたびに心配し怒ってくれたターニアが、ロビンはどうしようもなく好きだった。
その高嶺の花は、いま牢屋に入れられて明日には公開処刑されようとしている。
「俺と一緒に逃げてください。オベロン様はあなたを選ばなかった。なら、もういいではありませんか」
「……」
「大体あなたを牢に入れた罪だってヘレナの虚偽だ。そんなことみんな知っている。里中がだ。オベロン様がヘレナに篭絡されて、邪魔になったターニア様を排除するためにヘレナの嘘に乗っかっただけなんだ」
「……」
「しかも紛失した短剣の罪まで擦りつけて、あなたを処刑し妖精王への弁明に利用しようとしているんですよ。あんな男の為にこれ以上、尽くす必要はありません!」
大陸に点在する妖精達を統べる妖精王。その妖精王より預けられた『妖精殺しの短剣』が数日前に紛失していた。
樹海の奥地でこれらを永劫守り続けるために、オベロン率いる妖精達は時間と空間を操る魔法を授かり、守り人としての役目を務めている。
その役目を仕損じたことがバレたなら、彼はその罪を理由に追放されるだろう。
今も必死に探してはいるが、同時に情状酌量に持ち込める理由も用意しようとしたのだった。
『妖精殺しの短剣』は里の中でも限られた者しか入れない場所に封印されている。
ターニアは妖精王の遠縁に当たる高貴な姫であり、彼女が盗んだとなれば信憑性が高く、また妖精王とて一方的に断罪しづらくなるのは目に見えていた。
とどのつまり、全てをターニア一人に押し付けることで丸く収まるようにオベロンには見えてしまったのだった。
そして、里中が保身のためにターニアの冤罪に目を瞑る。
「今度は、俺を選んでください」
「ロビン、薬を出してちょうだい」
「ターニア様!」
「命令よ。忠実な護衛のロビンしか、わたくしは認めない」
ターニアの言葉に打ちひしがれると、ロビンはポケットから小さな小瓶を取り出して牢の中に差し入れた。
「俺を、選んではくれないのですね」
「……」
ターニアは受け取った瓶の蓋を開け、一気に中身を飲み干して静かに床に倒れて息を引き取った。
項垂れて動けないまま、ロビンは横たわったターニアを見つめていた。
命令遂行を確認するためオベロンの従者が現れても、ロビンは身動き一つしなかった。
オベロンの従者は檻の鍵を開け中に入ると、ターニアの腕を持ち上げ脈をとる。
死んだことを確認し終えると、彼はロビンに声をかけた。
「お役目ご苦労。オベロン様より、次はヘレナの護衛に着くようにとの命令だ。よかったな」
最愛の人を殺したあと、そう仕向けた者に仕えよとの命令にロビンは心底うんざりとした。
そして、手元の剣を抜くと背を向けた従者の頭を思いっきり柄で殴り倒した。
「俺が、ターニア様を、殺すわけがないだろう」
気絶した従者に、その声は届かない。
ロビンがターニアに差し出したのは、オベロンに渡された毒薬ではなく仮死の薬だ。どうしても内密に連れ出すためには、ターニアの死亡を確認する役目の者に、魔法を封じるこの牢を空けさせる必要があったのだ。
昏倒した従者の口に睡眠薬を流し込めば、朝までぐっすり寝入るだろう。こんな深夜では彼が戻らなくとも心配する者はいない。
朝になってオベロンが騒ぎ出すまで全てが露呈しないのだ。
「真実の愛を理由に愚行を強いたオベロン様が赦されるというなら、俺の愛でターニア様が助かることも、赦されたっていいはずだ」
――虐げた側だけが、無罪放免でのうのうと生きながらえるなどありえない
ロビンはオベロンに復讐することよりも、ターニアと二人で逃げることを望んだ。
逃げる先も当てもないけれど、ターニアが目の前で処刑されるのを、何もしないまま見過ごすことだけは出来なかったのだ。
例えターニアが、最後までそれを許してくれなかったとしても――
牢に入ったロビンは、ターニアの冷たくなった体を抱き上げる。
――カシャン!
彼女の体から落ちたものを見て、ロビンの顔はくしゃくしゃに歪む。
「――あなたは悪くない。あなたを追い詰めたオベロン様とヘレナと、里の連中が悪いんです」
床に落ちた『妖精殺しの短剣』を拾って腰に差すと、ロビンはターニアを抱えて闇夜に姿をくらましたのだった。