0.プロローグ
「王太子様、婚約破棄なさったんだってねぇ。慰謝料もちょっぴりだ。ほんと馬鹿にした話だよねぇ」
王都から馬を飛ばせば二日といった場所に位置するメタウの町では、今、自国の王太子の婚約破棄の噂話で持ちきりだった。
旅人が食料を求め、木組みに布をかけただけの簡素な露店に立ち寄れば、店先で売り子が得意げに話を振りまいている。
そのせいで、この話は西へ東へと旅するものの口を伝い、国内次いで国外へと拡散されつつあった。
「へぇ。あの有名な王太子様が、婚約破棄をねぇ」
そう返せば、売り子が知っている限りの話に花を咲かせた。
ここ聖アウルム王国といえば、東西に大きく広がる大陸の丁度真ん中に位置する国。
大陸は中心部が細く、次いで西、そして東に大きく広がる形になっており、さらに周囲の海原に小さな島がいくつか浮いている。
その小さな島国にも人は住んでいるらしく、彼らは、遠路はるばる聖アウルム王国までやってくる。
いや。島国だけでなく、それこそ大陸全土の人間が一生に一度は必ず訪れるというくらい、聖アウルム王国は有名だ。
その理由は、聖アウルム王国の立地にあった。
大陸の中央に位置し、北にはプラータ山脈が連なり、南にはノグレー樹海が広がっている。
つまり、大陸で少し狭く細長い大地の上には、プラータ山脈、聖アウルム王国、次いでノグレー樹海が順に並ぶのだ。
北のプラータ山脈といえば、剣山のごとく険しく切り立った山頂に雲が掛かり、年中雪化粧をまとっていた。さらには古の種族である竜人族と龍の住む山としても有名である。
南のノグレー樹海といえば、一度足を踏み入れれば何日も彷徨う羽目になると有名な樹海だ。
どちらも旅の理由がまっとうなら避けて通るのが常識で、プラータ山脈やノグレー樹海を経由する旅人がいたならば、それはかなりの訳アリだといえた。
立ち入るのも危険。たまに会う人間も危ないとくれば、誰も好きこのんで山にも樹海にも足を踏み入れたりしない。
人は西から東へ、東から西へ大陸を横断するなら、当然のごとく聖アウルム王国経由を選んだ。それゆえ、聖アウルム王国は誰もが一度は訪れる国として有名なのだ。
さらに、人が集まるならばチャンスとばかりに、大陸中の商人がこぞって聖アウルム王国を目指した。彼らは自国の特産物を運び込み一定期間商売をしたら、仕入れをして自国へ戻っていく。
自国で二束三文の品も、ここでは高価な値がついた。
求める人々も遠く離れた生産地まで足を運ばずとも、聖アウルム王国まで出向けば手に入るので足しげく通う。
商人にとっては千載一遇のチャンスが犇めく夢の国であり、聖アウルム王国は彼らのおかげで何でも手に入る桃源郷とまで言われていた。
おかげで国境を越え聖アウルム王国の王都に辿り着くまでに立ち寄る町ですら、人が行き交い旅人目当ての店が立ち並ぶ。どこもかしこも活気に溢れ返り、国の豊かさを物語っていた。
「それにしても、この国の王太子様はとても優秀だと評判だろ? なんでまた婚約破棄したんだい。いやなに、俺は西の果てのラルジャン王国の出だが、この前、第七王子が流行の婚約破棄をして除籍になって国を追い出されたよ」
「へぇ。あんたの国も大変だねぇ。けどねぇ。うちの国の王太子様は、そんじょそこらの王子様とは訳がちがうよ!」
辟易した顔をして自国の不祥事を語る旅人にたいし、売り子は頬を紅潮させながら自国の王太子を持ち上げた。
「聖アウルム王国の第一王子であるアーサー・アウルム殿下はねぇ。黄金の髪にサファイヤのような瞳の美しい王子様なんだ。まるで物語から抜け出したような素晴らしい容姿だと評判で、自慢の王太子様だよ。しかも初代聖王様に並ぶ優秀な魔法士ときたもんだ。齢十七歳にして国政もこなしているんだよ!」
民のだれもが、アーサー王太子の御代は安泰だと豪語した。
「なら、なんだって婚約破棄なんかしたんだい?」
「あんたの国のへっぽこ王子様と同じにしないでおくれ! アーサー殿下はオーロ皇国との和平協定を結んだときに相手の国の第二皇女様と婚約したんだ。けど、オーロ皇国が北の武装国家ゾラータ国に一晩で侵略されちまったって話だろ。半月前にオーロ皇国の使者が来て、一方的な婚約破棄と慰謝料を押し付けて逃げるように立ち去ったんだ!」
売り子がまくし立てた内容に、旅人は息をのむ。
「なんだって! 俺はオーロ皇国に向かう予定で西から聖アウルム王国にきたってぇのに、どうしたらいいんだ!」
目指していた国が戦争中と知り、旅人は目に見えて慌てふためいた。こうなると王太子の婚約破棄という不祥事などどうでもいいとばかりに、頭を悩ませる。
「まぁ、実際にオーロ皇国がどうなっているかは噂が流れてこないからねぇ。しばらく聖アウルム王国でのんびりしたらいいさ。うちは宿屋もあるから、なんなら紹介しようか?」
「ありがてぇ。ぜひ頼むよ」
別にオーロ皇国が戦火に包まれていようが、ここは遠く離れた聖アウルム王国である。
しかも王都からも離れているメタウの町なので、ここから王都まで移動したとて何も問題ないはずである。
けれど旅人の心は目的を失い不安に占領されたせいで、目の前の親切な売り子の提案は、まるで暗闇に光る一筋の光のごとく、慈愛と友愛に満ちた助け舟の船頭のように見えたのだ。
「まいどあり!」
商売上手な売り子に乗せられ、旅人は早々に宿を決め滞在することになったのだった。
そんな流れるようなサービストークを聞きながら、昼食用のトマトを選んでいた少女は、けれどしっかりと売り子の話を一言一句拾うことに集中していた。
「ねぇ。おばちゃん。王太子様は婚約破棄のあと、聖女を募集したって本当?」
品物を渡して会計を待つあいだ、少女は売り子に話の続きを聞こうと話題をふった。
「お嬢ちゃん、良く知っているね。そうそう、何でも光魔法が使える者を聖女として雇うって募集がかかったんだよ。平民貴族関係なくってところが粋だよね。しかも聖女に選ばれれば、もれなく王太子妃となれるんだって!」
自分もあと十年若ければチャレンジしたのに、と売り子は夢見がちな顔で野菜を入れた紙袋を差し出した。
「おばちゃん、光魔法を使えるの?」
「いんや。魔法はとんと使えないねぇ」
なら条件に一致しないから無理ですね、と少女は心の中でツッコミを入れた。
「はいお釣り。お嬢ちゃん見ない顔だね。旅人なら今日はメタウの町に泊まるのかい? 宿屋はもう決まっているかい?」
宿を勧める売り子に、少女はにっこりと笑った。
「今日は昼食後に次の町に移るから結構よ。昼いちに出発すれば二つほど町を移動できるもの」
ならば用は済んだとばかりに、売り子は次の客の相手をすべく少女から視線を外した。
店を後にした少女は――名をリリィといった。
年齢は十三歳を迎えたばかりで、その体は少女から少しだけ大人へと変化しだしたところだ。
つまり出るとこは出ておらず、くびれてもいない。
健康そうな肌に艶のある茶髪は、ありふれた容姿だが、ヘーゼル色の瞳には知的な光を宿していた。お気に入りの花柄の三角巾を頭に被り、いかにもお遣い風の町娘を装いながら露店を回っては売り子や旅人の会話に耳を傾ける。
店先で他の客が話終えると、手に持っていたレタスを差し出し売り子へ話しかける。
行く先々で一つずつ商品を購入し売り子に話しかければ、メタウの町で聴ける噂のすべてを収集しつくした。
――大陸の東にある、武装国家ゾラータ国によるオーロ皇国侵略
――オーロ皇国第二皇女から、聖アウルム王国の王太子への一方的な婚約破棄
――聖女兼王太子妃の、身分を問わない募集
どこの店でも大概がその三つに色をつけ、面白おかしく噂しているようだ。
「東の国は聖アウルム王国よりも大きな国しかないのに。戦争が始まる緊張感がてんでないわね。嫌になっちゃう」
大陸一大きい東の大地には四つの大国が存在する。そこで争いが起きたのだ。
すでに和平協定の証である王太子と第二皇女の婚約破棄で火の粉が飛んだというのに、噂の大半は聖女兼王太子妃募集のお祭り騒ぎが占めている。
民衆にとって隣国の戦争は未だ対岸の火事でしかないのだろう。
「無関係な人たちは、いいわよね」
買い物を終えたリリィは、市場を後にして町の外へと歩いていく。
この戦争のせいで、西の砦に勤めていたリリィの父と母は東の砦へと転勤となった。
大陸の西は小さな国がひしめき合っており、その国境は刻一刻と変化し国が生まれては消え地図を書き換えていた。
そのせいで国を追われた民が難民や流民となって、仕方なく犯罪に手を染める者が後を絶たない。大きな戦いが無いかわりに、日々強盗や盗賊といった小悪党との小競り合いが頻繁に起きていた。
西か東かでいえば、今までは西の砦の方が危険も多いとされている。
しかし、東の大国で争いがはじまり和平協定が破棄された今、戦力となる人材は東の砦に集められていた。
「うぅ。どうしても、皆と一緒に東の砦に行きたいよう」
両親は王都を経由し東の砦へと向かうことになっている。
そして一人娘のリリィは、とある事情により王都に残されることになったのだ。すでに道中、両親に何度も一緒に連れて行ってもらえるように願い出たが、絶対に許可してもらえなかった。そしてその理由もわかってはいた。
けれど、家族と一人だけ離れるのは十三歳になったばかりのリリィには耐えがたい不安を与えるのだ。
「しかも王都で手伝うはずの仕事が、なんだか怪しいもの。嫌だわ」
王都に近づくにつれ、耳にする噂話――聖女募集がリリィの第六感を刺激した。
遡ること半年前、母親の実家であるティナム伯爵家からリリィ宛に手紙が届いた。
差出人は現ティナム伯爵の次男で従兄のノアだった。
『城で急ぎではないけど臨時の仕事があり光魔法の使い手を募集している。よければ観光がてら手伝いに来てくれない?』
付き合いのある親戚からの仕事の誘いではあるが、西の砦で手伝いをするリリィは特に悩まず断りの返事を送った。
『西の砦は人手が足りなくて忙しいから無理です。ほかの人を探してください』
そして、この話はそれで終わりだと思っていた。
けれど次いで来た手紙の内容はこうだ。
『なら、人を増員するようにしたから、暇出来るよね?』
その手紙と共に、実に三年ぶりに西の砦に新人が配属された。
さんざん要求しても希望者がいないという理由で増員を断られていたところに急遽配属があったので、西の砦は俄かに衝撃が走った。
その時、まだ手紙の内容を誰にも話していなかったリリィは周囲に相談しづらくなってしまった。
その後、リリィは新人のフォローを任されたので従兄にはこんな返信を送った。
『新人のフォローの仕事を任されたのでさらに忙しくなりました。なので、そちらへは行きません』
その手紙の返信は、最速で返ってきた。
『なら、ベテランを増員しました。よろしく頼むよ』
その手紙を近衛の出世頭だという青年が届けてくれた。
そして彼はそのまま西の砦の配属になったといって居残った。
西の砦に走った衝撃は前回の比ではなかった。
その衝撃たるや、砦を任されているコープル辺境伯は、何事かと事実を確認するために慌てて王都へ旅立ったほど大事になった。
(どうしよう。どうしよう。どうしよう)
記憶の中で数度会ったきりの従兄との仲は悪くない。
彼は非常に優しく決して要求を通すために実力行使するような人ではなかったはずだった。
それなのにこの仕打ちは何事か。見事な手腕に恐怖を覚え不安に押しつぶされたリリィは、一周回ってある結論に到達した。
――よし! 無かったことにしよう
割とよく都合が悪くなると思考放棄して目の前の物事だけに集中するのは、リリィの昔からの悪い癖である。
そのまま返事をせずに二週間が過ぎたころだった。
王都へ旅立ったコープル辺境伯が戻り、両親に手紙が渡され、リリィが連絡を無視し続けていた事実が露呈した。
けれどそれ以上の悪い知らせがあり、西の砦は大騒ぎとなったのだ。
――東の諸国にて争いの兆しあり。早急に優秀な兵を集い東の砦へ送り出すこと
そう国中に通達が出されたのだ。
そして、西の砦で優秀な隊長である父のアダムと、優秀な医療班長である母のエマは東の砦に異動が決まった。
次いで最近配属された新人と元近衛の出世頭も東の砦行が決まる。
他にもリリィを可愛がりアダムの部隊で功績を上げていた仲良しの兵士達は、次々に東の砦へと異動が決まっていった。
「わ、わたしがノア従兄様の仕事を断ったせいですか?」
あまりのタイミングの良さに、すべて自分の悪事が招いたことのように感じたリリィは、震えながらアダムに全てを打ち明けた。
「違うだろ。俺たちの異動は東側が大国同士で争いを始めたせいだ。それにリリィにきた王都の仕事の誘いの件はたまたま都合があっただけだろう」
「そう、ですか。なら、私もみんなと一緒に東の砦に行ってお手伝いがしたいです」
リリィの言葉に、出立準備をしていた屈強な兵士たちは思わず動きを止めた。
「私は、いつもみんなの怪我を治療しています。私の治癒魔法は役に立ちます。連れて行ってください」
十三歳の少女が一緒に戦うと宣言する健気さは、西の砦から東の砦に向かうことになった兵士達の不満を吹き飛ばし、心を温めるのに十分な威力を発揮した。
見えないところで愚痴を零し、たらたらと引っ越しの準備をしていたものは、この一件で一人も居なくなったほどだ。
問題ない。大した話ではないから、大丈夫だ。
そんな明るく前向きな雰囲気を出さなければ、この少女は皆のためにと東の砦に絶対についてくるだろう。
そういう少女なのだと、誰もが知っていた。
そしてそれは西の砦の全員が望まないことだった。
「向こうの状況が分からないから、わかるまでは王都に身を寄せるんだ」
「いや! 絶対一緒に行く!」
不安でいっぱいなところに自分だけが連れて行って貰えないことで、リリィは完全にパニックを起こした。泣いても喚いても取り合ってくれない両親を説得するため、見知った兵士ひとりひとりに一緒に説得してほしいと頼んで回った。
けれど、誰もがリリィに王都に残るほうが良い。両親の言うことを聞きなさいと言った。
それはリリィのことが大切で危ない目に合わせたくないという、心からの思いやりから発せられた言葉だった。
長年西の砦で一緒に戦った仲間に断られたリリィは、一人だけ見捨てられたような絶望を感じ、やがてどうしようもないのだと悟ると、王都に残ることを渋々ではあるが了承したのだった。
そして王都を目指している道中、光魔法と聖女に関する新たな噂話を耳にしたリリィは、それが王都での仕事に関係ないことを祈っていた。
――自分が誘われている仕事が、なにかの拍子に聖女兼王太子妃の募集に切り替わったのではないか
そんな不安がリリィの心に広がっていた。