23.樹海の村(3)
外に出ると、高い木々に生い茂る枝葉の隙間から光が射しこみ、目の前には膝の高さまである草が鬱蒼と茂っていた。
「ねぇ銀、ここってどの辺りになるの?」
「ノグレー樹海の中。こっちだ。こっちに道がある」
「そんなふうに見えないんだけど?!」
銀はおぼつかない足取りのリリィの手を取り、獣道をどんどん進んでいく。
「まって、銀。まってよぉ」
ぜぇはぁと息の上がるリリィに合わせて速度を落とすが、そうすると王都まで大分時間がかかってしまう。
「早く帰りたいんじゃないのかよ?」
「そうだけど。私昨日の夜から働き通しなのよ!」
「そう、だな。悪ぃ」
疲れ果てたリリィを座らせて銀は頭をひねる。
リリィへ支払う治療費は、ざっと見積もってもかなりの年数の奉公が必要だ。それに加えて今後も、もしかしたらお世話になる可能性がある。そうなると、銀は一生リリィに奉公することになりそうだという結論に達した。
嫌いな相手や面白くない相手であれば、何とか前倒しで支払って村に帰る方法を考えるところだが、相手はリリィだ。
(対価も珍しいものをくれるし、長老が助けられなかった竜人族の卵も治療しちまったしな。一緒に居ると面白いんだよな)
―― なら、別にいっか
銀は、リリィを生涯の主として仕え、対価を払って生きていこうと心に決めた。
「リリィ。主従契約を結ぼう」
「シュジューケイヤク?」
「リリィが主で俺が従者だって契約するんだ」
疲れた頭で考えても何も思い浮かばない。リリィは半ば投げやりになって、銀がしたいならすればいいと許可をしてしまった。
狼の獣人である銀の一族は、外部に主を見出すと、主人と定めた相手と契約を結ぶ。銀は早速その儀式に取り掛かった。
「俺の真名を教える。そして俺の額に手を当ててくれ」
「マナ?」
「本当の名前だよ。自分と名付け親しか知らない名前があるんだ」
そうしてリリィの耳元で、銀は真名を呟いた。
「誰にも言うなよ」
「わかった」
言われた通りに銀の額に手を置くと、リリィの手の甲に見たこともない文様がふわりと浮かび、そしてスッと吸い込まれるように消えていった。
「これで、俺は何処にいてもリリィに辿り着ける。リリィが呼べば助けに行ける」
「そうなんだ」
にっこり笑う銀をみて、気が済んだならよかったとリリィも頷いた。
「よし、ちょっと待ってろ。俺がリリィを運んでやる」
そういうと、銀は張り切って少し離れ四つん這いになった。そうして瞬く間に白く輝く狼の姿に変わっていったのだ。
「ひぃぃぃぃぃ!」
あまりに大型の狼になったのでリリィは恐怖で後ずさった。銀だと知っていても正直怖い。
「なんだよ。怖がるなよ。傷つくだろ!」
「ごめん。でも、だって、すごく大きいから」
「あーもう。この位の大きさじゃないと背中に乗せられないだろ!」
「え、乗るの! これに?!」
「コレゆーな!!!」
嫌がるリリィを背中に乗せると、白狼に変身した銀は獣道をものすごいスピードで走り出す。
「黙ってろよ。舌かむぞ!」
「ひぃぃぃぃぃ!」
リリィは銀と主従関係を結んだことを、むちゃくちゃ後悔した。
勢いよく斜面を駆け降りる銀だったが、急に跳躍して幹を蹴り上げて枝の上まであがっていく。
「銀! こわかった! 今のはこわかった!」
リリィは振り落とされそうになり、涙目で訴えた。
「すまん。いや。下に何かいたんだ。黒くて丸くて。あれは、スライムか?」
「スライムは半透明でしょ。黒は見たことないわよ」
銀の背中から顔を覗かせる。眼下には何やら黒い物体がいくつか確認できた。
「うわぁ。何あれ。気持悪い」
「昨日村に現れた奴だと思う。スライムっぽいよな」
「そうね。形はスライムっぽいわね」
グニグニと蠢いて移動しているそれは、色が黒く禍々しくて危険そうだ。それに周辺の小動物を捕食しているものもいて、思わず目を逸らす。
「こんなのが、聖アウルム王国から放たれてるなんて信じられない」
「近くまで行けば分かるだろう。行くぞ!」
「え、ちょ、まって。キャーーーー」
銀は枝から枝へと飛び繋いで進んでいく。
リリィは振り落とされないようにしっかりと首にしがみついた。時間にして三十分ほど樹海を駆け抜けると、平地の広がる場所に出ることができた。
「おい。あれ、見てみろよ。ひでぇことになってやがる」
どこか楽しそうな声を上げる銀は、感じ方や考え方が人間とは違うのだろう。
「笑い事じゃないわよ、銀。なによ、あれ」
前に母のエマと見たときは、王都の上空にはうっすらと虹を帯びたドームの形が見えていた。
けれど今はそのドームは黒く染まり太陽の光を反射し、ここから王都に続く地上には所々に先ほど見た黒いスライムが蠢いている。
そして――
「うわぁ。ドラゴンだ! 俺初めて見るんだ」
上空をドラゴンが旋回していた。興奮した銀はブンブンしっぽを振り回している。
「感動している場合じゃないわ、銀! 大変よ」
「何が大変なんだ?」
聞かれて言葉に詰まった。リリィだってよく分からない。分からないが、いつもと違うことだけは分かる。
「とにかく、近くまで行きましょう。まずはこの目で確かめないと」
「了解! しっかり掴まっていろよ。突破するぞ」
銀は大地を蹴って走り出し、どんどん王都に近づいて行った。近くなればなるほど、そこかしこに邪悪な黒いスライムがいて、どんどん数が増えているようだ。
「ひゃー。やっぱりリリィに付いてきて良かったぜ! 知らないことばっかりだ」
「もぉ! 銀、他人事だと思って楽しまないでよね。こっちからしたら自分の住む国の一大事かもしれないのよ!」
リリィがいくら怒ったところで、銀にとっては他族の話なので同じ感覚で真剣になどなれないだろう。
(私の住む国なのよ。それに西の砦のおっちゃん達の家族だって住んでいるのに。それに――)
ノアやダニエルやアーサーも居る。
いつの間にか、彼らもリリィの大切にしたい人になっていた。
「助けに、行かなきゃ」
もしリリィが好かれていなかったとしても、リリィは彼らを好いているから怪我も病気もしてほしくない。
―― みんなを元気にしたくて私の光魔法は開花したから。
私ができることを、精一杯するわ
ずっと苛んでいた心の痛みは、今はちっとも感じなかった。
「はい。到着! で、どうする?」
王都から数十メートル離れた大地に守護壁の終端がある。人が通る場所は半円に繰りぬかれ、それ以外は地面すれすれまで守護壁で覆われているのだ。
地面に一番近いところの端からは絶えず黒いものが流れ出ていて、その下には黒い水たまりが大きく広がっている。その水たまりから黒いスライムが生まれているのが確認できた。
恐る恐る生まれたばかりのソレに近づくと、意思を持っているのか、リリィに近づいてきたので、走って逃げた。
「やだ、何あれ!」
ビビりながら、それを観察する。そして、似たような存在感のものを思い出す。
「呪いに似てる。守護壁に浮かんだ霧は、でもオリビア様が対応したはず……」
オリビアは不浄の霧を消そうとしていた。
浄化ではなく消そうとしていたのだ。
「消えなかったって……ことかしら」
あの上空にうっすらと滞留していた不浄の霧が消えずに流れ出たのだとしたら――大事件である。