20.聖女の評判(4)
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王都の上空にずっと前から存在していた不浄の霧。
長年ゆっくりと蓄積されていたせいで、王都の民はこの不自然な存在を認識することはなかった。
時折、誰かが不思議に思い話題に出しても、気のせいだろうと同意を得られず、そのせいで長らく不浄の霧は認知されず、少しずつ少しずつ薄く広く王都の空を覆っていったのだ。
その存在が王宮より公式に発表されると、人々は空を見上げ、指をさしては不安を口にした。
昨日まで気にしていなかった存在に恐怖し、体の不調も怪我をした理由もすべて不浄の霧を理由にして、早く不幸が無くなることを祈り始める。
そして本日、聖女候補生のオリビアが不浄の霧の存在を消すことに成功した。
空からは薄暗い霧が消え、本来の美しい空の青さを目の当たりにした人々からは歓声があがり、ついで彼女を称賛する声が方々から叫ばれる。
オリビアは作業を終えると、その場にとどまり市民に笑顔で手を振った。
そうしてたっぷりと彼らの期待に応えると、馬車に乗り込み盛大に見送られて城へと戻っていったのだ。
城に戻るとオリビアの帰りを待っていた侍女から伝言を受け取った。書面を確認しているとオリビアの兄であるディランが彼女を労うために顔を出す。
「よく頑張ったな。オリビア」
「はい。ありがとうございます。お兄様。ですが、アーサー様からは変わらず書面で報告を、と言われてしまいました」
あんなにも大役を果たしたなら、きっと直接ねぎらいの言葉を貰えると思っていただけにオリビアは酷く落胆した。
この件だけではない。花祭の茶会も招待状には不参加の返事が返ってきたことも、またオリビアの心を焦らせていた。
仕事で成果を上げても会えないなら、次は何をすれば振り向いてもらえるのだろうか。
「そうだな。まぁ、アーサーも忙しいのだろう」
そうは言ったが、ディランが少々無理を言ってゴルド家の仕事にしたのだ。アーサーからすれば、ゴルド家で完遂して報告だけ貰うという姿勢なのだろう。
(やれやれ。我が妹の恋路は中々前途多難だな)
それでも、力強く前進するオリビアなら自力で達成するだろうと思えた。それにディランがあからさまに手伝いをすれば、オリビアの矜持を傷つけることにもなる。
(本人のやる気も高いことだし、様子を見るとしよう)
それにしても、とディランは周囲の変化を思い内心おかしくてたまらなかった。
噂など、人は直ぐに飽きて次に飛びつくものだ。
あれからアーサーとリリィの噂は打ち消され、市民の興味の矛先は不浄の霧への不安一色に染まってしまった。
それが取り払われた今、次に注目を浴びるのは、オリビアとポピィのどちらが聖女に相応しいかの議論だろう。
ディランにとって、それは予想通りの展開だ。
姑息な手を使わなくても、適任者がそうと分かるように成果を上げれば、簡単に結果を手にできる。それは聖アウルム王国の国政が良く機能しているということに他ならない。そしてそんな国のあり方をディランは敬愛していた。
「さて、私は仕事に戻る。オリビアもゴルド家の名に恥じぬよう精進しなさい」
「はい。次の仕事でも成果を上げて、勝利を手にしてみせますわ」
そう、オリビアは朗らかに笑った。
□□□
見上げれば、橙色に染まった夕焼けに一番星がうっすらと光る。
空を見上げるたびに、ダニエルとリリィが二人で考えていた陣による浄化は採用されなかったのだと思い知る。
(見たかったなぁ。空いっぱいの魔法陣……)
青空でしか想像していなかったが、夕焼けや夜空に浮かんだらきっと綺麗だっただろう。
それでも問題が解決したなら良いことなのだからと、リリィは仕事に励むことにした。
(祝福の飴ちゃんが、まさか中毒性を疑われるなんてショックだったな)
ダニエルと話したときは、びっくりして弁解をするのに頭がいっぱいだったが、時間がたつとジワジワと悲しみが襲ってきた。あれからダニエルの仕事は暇を出され、リリィは一日中倉庫で仕事をしていた。
すでに倉庫の中は空っぽで、解呪すべき装備も武器も装飾品も一つも残っていなかった。
手にした箒を構えると奥からゆっくりと掃き掃除を始める。
(私がアーサー殿下に悪いことをしたと、そう言われたってことなのよね)
そんなに悪いことをしただろうか。
倉庫いっぱいの品を解呪して、手に入らない薬草を荷車いっぱい運び込んだ。魔法陣だって一生懸命練習したから、きっとリリィが不浄の霧の浄化をしても上手くできたと思うのだ。
(いっぱい、頑張ったのに――)
いつの間にか箒を掃く手が止まり、目には涙の幕が張る。
(お父さんとお母さんだったら、いっぱい褒めてくるのに――)
ぽたぽたと、涙が零れ落ちる。倉庫には誰もいないし、こんなところには誰も来ない。
だからリリィは静かに泣いた。
―― がんばって努力したのに悪く言われるって、なに?
どうして、関わっていない人に嫌われてしまったの?
私、知らない間に誰かを傷つけたのかな?
他者から不当に悪意を向けられることもあるという事実を、リリィは理解できなかった。
自覚の無いまま人に嫌われたなら、リリィは知らない間に人に嫌われることをしてしまうのだろう。
心当たりを探れば、マナーも中途半端だし、言葉遣いも完璧では無かったと、至らない点はいくらでもあった。
アーサーやダニエルやノアに嫌われれば、リリィはここでは生きていけない。
いつか彼らにも見捨てられてしまうような気がしてきて、箒を持つ手が震えた。
「~~か、かえりたい。おうちに、かえりたい」
アダムとエマのいる西の砦に帰りたかった。どうして、こうなってしまったのだろうか。西の砦に二人はいない。東の砦への行き方をリリィは知らない。
「うぅぅ。~~っ」
暗い倉庫の中で小さな嗚咽が絶えず漏れていた。けれど夕暮れ時の倉庫には誰も訪れないため、リリィは一人で気のすむまで泣き続けた。
しばらくして泣き止むと、陽は沈み外灯の明かりが入口の扉から差し込んでいた。
(いけない。ノア従兄様が探しに来るかもしれない)
間違いなくリリィの泣きはらした顔をみれば理由をしつこく聞いてくるだろう。どうやって誤魔化そうかと慌てながら、癖でポケットに手を入れた。すると何かが熱くなっていることに気が付いた。取り出すと花祭で銀から渡されたルースがぼんやりと光り熱を帯びていたのだ。
「あ、約束。二週間!」
すっかり忘れていたが卵の治療の追加があったようだ。リリィは慌てて倉庫を飛び出すと出来るだけ人目を避け、目立たない茂みの影に隠れてしゃがみ込んだ。
そっと地面にルースを置いてみる。ぼんやりと光り続けるそれは何かを呼び寄せているかのようだ。
どこか遠くで小さな笛や鼓の音が聞こえ始める。それは花祭の闇市でいつも流れる音と酷似していた。
その時、背後からリリィを呼ぶノアの声がした。
「リリィ。いないのか? もしかして行き違いになったかな。リリィー!!」
(どうしよう。どうしよう。どうしよう)
悩んだが、銀やエリオットに約束を破ったと思われるほうが危険だと判断したリリィは、茂みに隠れて銀が来るのを待った。
「リリィ。いるのか?」
今度は茂みの奥の暗闇から銀の声が聞こえた。
「銀? よかった、あのね、ちょっと立て込んでて、少しだけまってて――」
前回の失敗を踏まえてノアに事情を説明してこようと、少しだけ時間を貰うため交渉したが、その姿を見て絶句する。
銀は顔が痣だらけで、体もところどころ怪我をし、血と泥で汚れていたのだ。
「ど、どうしたの? 何があったの」
「ごめん。俺、どうしていいか、分からなくて」
つらそうに顔をゆがめて泣き出した銀の声に、たまらず近寄ったその時だった。
突然、銀の後ろに人影が現れたのだ。
背が銀の倍以上に大きく顔は見えなかったが輪郭で銀と同じ耳があるのがわかった。
慌てて身をよじって逃げだしたが、大きな手に捕まれて引きずり込まれた。
「いや! ノアにっ――」
茂みの大きく揺れる音と悲鳴が聞こえて、ノアは慌てて駆け付ける。
「リリィ!」
けれどそこには、リリィがいつも付けていた三角巾と、飴が散らばっているだけだった。