6 負うた猫に教えられる
6 負うた猫に教えられる
今日1時間だけの貴重な空き時間、栄子が職員室で小テストの採点をしようとしていると、インターフォンが鳴った。3Aからだ。栄子が担任しているクラスである。3時間目の授業開始のチャイムが鳴った直後だ。
「はい、職員室、川上です。」
「霧島です。今、数学なんですが、青山君が教室にもどっていません。2時間目の美術にはいたそうです。」
「ひさしぶりだね。」
「そうですね。」
「美術室からの動線をたどってみるわ。」
「お願いします。」
栄子は美術室に向かう階段を降りていった。
青山良人。今日の彼は、いったいどこでひっかかっているのだろう。
美術室の廊下から、3A教室に向かって歩いて行くと、青山君は3階の渡り廊下で仰向けになって寝転んでいた。
ゆっくり近づきながらそっと声をかける。
「青山君、どうしたのかな。」
だが彼はこちらに反応せず、大きく目を見開いている。澄んだ瞳が美しい。口元が若干あがって、うっすら微笑んでいるように見える。「紅顔の美少年」といった面持ちだ。
「青山く~ん」
声をかけながらそっと肩をたたく。
「あ、川上先生。」
はたと気づいた青山君は、慌てて身体を起こした。
「またやってしまいました。」
「久しぶりだね。」
「そうですね。最近はなんとかがんばってたのになあ……」
ちょっとしょげている顔がかわいい。
「で、今日は何を見つけたの?」
「あれです。」
青山君が指さしたのは渡り廊下の天井だ。栄子にしてみるとごく普通の天井なのだが、そこには「何か」があるらしい。
「ほら、あそこに大きなクモがいるでしょ。あのクモが天井を歩いてるんですけど、その歩き方がすごいんです。」
言われてみると、確かに足の長い大きなクモがへばりついている。
「足を上げるタイミングとスピードとが絶妙です。突然早くなったり、急に止まったり。何ででしょうね。どこに行こうとしてるんでしょうね。どこから来たのでしょうね。」
青山君の声はわくわくしている。それを聞いていると栄子にまで「わくわく」が移ってきそうだ。
青山良人。誰もが認める「不思議君」である。穏やかな性格で、おとなしい。ただ、「何か」を見つけると、それに心を奪われて、止まってしまう。他のことが頭から消えてしまうのだ。いわゆる軽度発達障害。知的レベルは高く、理数系ではトップクラスだ。特に数字、統計、グラフに強く、アスペルガー傾向である。「こだわり」が強く、興味・関心があるものに対して、深く追求していく。
小学生の時はそのこだわりがかなり激しくて、授業も落ち着いて受けられないこともあったそうだ。突拍子もない言動をすることから、周りから受け入れられなかったり、トラブルになったりしたことも多々あったらしい。
しかし、当時の小学校の担任が粘り強く本人・両親と関わり、病院の受診を勧めて、軽度発達障害の診断がおりた。その後は、本人の特性を、青山良人自身も両親も理解し、対処法を考え、何とか折り合いをつけながら生活している。
周りの友達にも自分は軽度発達障害なのだということをカミングアウトし、特性を理解してもらって、こんなふうに接して欲しいとお願いをした。最初は戸惑っていたクラスメートも徐々に慣れていき、今では「青山君の傾向と対策」を理解し、温かく見守ってくれている。
みんなは青山良人のことを、親しみを込めて「青山君」と呼ぶ。「良人」というより、「青山君」というのがぴったりくる感じなのだ。
「教室にもどろうか。」
「はい。すみません。」
中1のころはしょっちゅう「青山君がいません」というインターがかかってきていたが、今、中3の1学期では3ヶ月に一度くらいのペースになっていた。
青山君は超高速のすり足で、足音を立てずに廊下を歩いていった。栄子も負けじと忍び足で後を追う。
3Aの教室の後ろのドアをそっと開けて青山君を入れる。
「お、青山、帰ってきたな。今、教科書の15ページだ。」
霧島先生が声をかけてくれた。
「すみません。」
青山君は背中を丸めるようにして足早に自分の席に着いた。左隣の席の宮内渡がニヤニヤしながら声をかける。
「お帰り、青山。今日は何がいた?」
「今日は……」
応えようとする青山君を、霧島先生が遮った。
「こら、宮内。余計なことを聞かんでよろしい!」
「へ~い。つまんねえなあ。青山の話、おもしれえのになあ。」
「渡は数学やりたくないだけでしょ。」
右隣の正木緑がつっこむ。
「あ、ばれてる? さすが正木! オレのことよ~くわかってるねえ。」
「そりゃそうよ。小学校からの腐れ縁だもの。」
周りの生徒はクスクス笑っている。
渡はちょっぴりやんちゃな子。勉強は苦手。50分授業がなかなか持たない。自分の気持ちを言葉にするのが苦手で、コミュニケーションが上手くとれず、カーッとなると手が出ることもある。小学校時代は青山君とトラブルになり、よくいじめていたという話も聞いたが、今は良い関係になっている。
学級委員の正木緑とは幼なじみだ。勉強もでき、バレー部キャプテン、友達思いで気配り上手の正木は、まさに、誰もが認めるリーダーである。青山君、宮内渡の良き理解者でもあり、みんなが彼女に一目置いている。
栄子は教室のドアをそっと閉めた。急がなければ3Aの生徒が提出している生活ノートにコメントが書けない。小テストの採点は放課後だな。階段を小走りに駆け下り、職員室に向かう。
その時、ふと思った。
青山君だったら、「ねこたま市計画」のこと、どう思うだろう。
実は、青山君のこだわりの対象の一つが「猫」なのである。生き物に心奪われることが多いのだが、その中でも、猫はダントツの存在であるらしい。
幼稚園のころ、野良猫の後をついていき、2時間以上帰ってこず、母親が半狂乱になって探したら、工場跡地の巨大な土管の中で猫と一緒に寝ていたとか、崖から飛び降りた猫を追ってジャンプし、足を骨折したとか、キャットフードの味を二十種類食べ比べして、お腹をこわしたとか、数々の武勇伝がある。
家でも猫を飼っているそうだが、野良猫の生態に興味を持っているらしい。栄子とも、お互い猫好きであるということをよく知っていて、猫談義で盛り上がることがある。
その日の昼休み、栄子は図書室に行ってみた。案の定、青山君が隅っこの椅子に腰掛けて、食い入るように昆虫図鑑を見ていた。
「クモのこと、調べてるの?」
はっと我に返った青山は輝く笑顔で写真を示した。
「はい。これ、見てください。さっきのクモ、これですよ! やっぱり、足に特徴がある。アシダカグモっていうんですね」
「ほんとだ。ちゃんと図鑑に載ってるねえ。」
「夜行性みたいだけど、昼間、活動してましたね。何でだろう?」
青山君の疑問がふくらむ前に、栄子は慌てて本題に入った。
「青山君って、猫好きだよね。」
「はい!」
勢いよく顔を上げる青山君。スイッチがクモから猫に切り替わった。
「児玉公園とか、野良猫がたくさんいるけど、行ったことある?」
「もちろん! 素敵な猫がたくさんいます。」
やっぱり。青山君にとっても、児玉公園はお気に入りの猫スポットだったようだ。
「実は……」
栄子は「ねこたま市計画」について語った。
青山君は目をきらきらさせながら聞いてくれた。
「先生、それ、絶対いいですよ!」
声が力強い。
「僕も児玉公園の猫のことは心配だったんです。何とか猫と人間が共生できるようになってほしい。」
「そっかあ。青山君も賛同してくれるんだね。うれしいよ。」
「僕、自分は猫に似てると思うんです。」
青山君は遠くを見ながらつぶやいた。
「どんなところが?」
「猫ってマイペースでしょ。我が道を行くっていうか。犬みたいに人間に忠義を尽くすわけじゃなく、主従関係じゃなく、対等に生きてる。自分の命を全うしてるって感じ。僕もマイペースだから。」
「そうかあ。そんなふうに思ってたんだね。」
「猫好きの人もいれば猫嫌いの人もいる。僕のことを認めてくれる人もいれば、嫌だなとか変なやつだなって思う人もいる。それは当たり前だと思うんです。みんな考え方や生き方は違うんだから。でも、その違う者同士が、どこかある部分だけでもいいから、認め合ったり支え合ったりして生きていけたらいいなあって思うんです。」
「深いなあ……」
「数学で二つの円が一部分だけ重なり合ってる図形があるでしょ。あんな感じ。全部は一緒にはならないし、なれないんだけど、一部分だけ重なり合うことは、きっと可能だと思うんです。」
青山君ってすごい。自分のこと、周りの人のこと、彼の中で本当に真剣に考えて生きてきたんだなあ。傷ついたり、後悔したり、喜んだり……、いろんな経験を積んできてここまで来た青山君の言葉には、重みがある。
「ありがとう。青山君と話ができて良かった。これからどうしたらいいかわからなくて、正直、困ってたんだけど、元気が出たよ。私に何ができるか、考えてみるね。貴重な休み時間をつぶしちゃってごめんね。」
青山君は不思議そうな顔で聞いてきた。
「何で謝るんですか? だって、これって、僕たちが本気で考えなきゃいけない問題ですよ。」
「僕たち?」
「そう。僕たち中学生。児玉市の未来に一番大きく関わるのは僕たちなんです。大人だけの問題じゃない。むしろ、主役は僕たちですよ。」
栄子は衝撃を受けた。主役は子供たち!
「そっかあ。なるほど。言われてみたらその通りだね。」
「未来の児玉市がどうなるのかは、僕たちにとって切実なことです。大人に任せてはおけません。中学生に何ができるか、僕も考えてみます。」
ちょうどそこで予鈴が鳴り、二人は慌てて図書室を出た。
「じゃ、また。」
手を振って爽やかに去っていく青山君。君は何てすごいやつなんだ!
栄子は、惚れ惚れとその後ろ姿を見送った。