5 人間万事塞翁が猫
5 人間万事塞翁が猫
その日は、全くついていなかった。
忙しすぎて美容院に行く暇もなく、もう2ヶ月以上髪を切っていない。前髪のうっとうしさにイライラして、自分で切ってみたりもするのだが、横の方はなかなか自分では上手く切れない。
今日こそと、意を決して、行きつけの美容院の9時開店少し前に着けるように、家を出た。
車を運転しながらすぐに、やらかしたことに気づいた。待ち時間に読む本を持ってきていない。予約制ではなく順番制なので、本は必須アイテムである。店に置いてある雑誌などを見ても良いわけだが、なかなかとれない読書タイムは貴重である。
仕方がない。あきらめて店の前まで行くと、少ししかない店の駐車場は早くも満杯。しまった。もう少し早く家を出れば良かった。これは、かなり時間がかかりそうだ。
家まで5分。一瞬迷ったが、本を取りに帰ることにした。
急いで家まで往復し、少し離れたスーパーの駐車場に車を止め、歩いて美容院に向かう。
待合に座っている客が4人もいる。急いで受付名簿に名前を書く。
「どのくらいかかりそうですか?」
忙しそうに動いていた店員が答える。
「申し訳ありません。名前を書いて後で来るお客さんもいらっしゃって、早くて後2時間半はかかりそうです。」
「2時間半ですか……」
しまった。最初に来たときに、名前だけでも書いておけば良かった。またまた失敗。
「わかりました。ちょっと出て、2時間半後に来ます。」
先にスーパーで買い物をしておこう。駐車場に戻り、スーパーの入り口に立って、はたと気づく。まだ開店していない。10時きてないし!
何て中途半端な時間!
仕方がない。ちょっと離れたところにある9時開店の業務用スーパーに行こう。
生鮮食料品以外のものなら、先に買って車に積んでおけばいい。
気軽に考えて行ってみると、どうやらこの日は特売日だったらしく、店の前にすごい行列ができている。店の中も大混雑で、移動もままならない状態。
「卵M玉1パック六十八円、キャベツ1玉五十八円、先着二百名様」に、人々は群がっていた。ちょっとでも安く買いたい、という執念が凄まじい。それだけ、児玉市各家庭の台所事情も、逼迫しているのだろう。カートがぶつかり合い、ギスギスしたやりとりが交わされる。朝からすっかり疲れてしまった。しかも、欲しかったお気に入りのメーカーのラー油は売り切れ。本当についていない。
まだまだ時間はあるので、駅の近くの複合商業施設に行くことにした。一階のスーパーは、値段はちょっと高いのだが、品揃えが豊富なので、たまに利用している。
お目当てのラー油を買って、時計を見ると、まだ1時間半もある。時間つぶしに2階に上がってみた。
2階で百均の文房具を買い、その横にある市立図書館に入った。数年前に老朽化した古い建物が取り壊され、この複合施設に入っている図書館だ。民間委託するか否かで、もめにもめていたが、結局、民間の財力に頼らねば運営が難しかったらしい。
ここは栄子のお気に入りである。買い物ついでにふらりとのぞき、本に囲まれていると、それだけで幸せな気分になるのだ。
特設コーナーには、なんと、猫の本が並べられていた。昨今の猫ブームに併せて企画された展示らしい。
栄子が知っている本もあれば、初めての本もある。
まず、「猫の撮り方」という本を手に取ってみた。パラパラと見ると、いかにかわいく猫を撮るかというコツやテクニックが載っており、なるほど、と感心。
となりには「世界で一番美しい猫の本」という写真集がある。
その下にある本の題名に心が躍った。
「夢の猫本屋ができるまで」
猫の本が並べられた店内を、猫がゆったりと歩いている表紙の写真が目を引く。
手に取ってみて、引き込まれた。近くのテーブル席に座り直して、読みひたった。
集英社が出しているこの本は、安村正也さんという人が「猫本屋」を開くまでを追ったノンフィクションである。保護猫が「店員」として常駐、店内の本はすべて「猫本」、資金の一部はクラウドファンディング。そんな前代未聞の猫本屋がいかにして出来たのかが描かれている。しかも、「『何かを始めたい』人に、そして、本と本屋と猫を愛するすべての人に。」という理念のもと、開業資金や月別収支も公開し、本屋を始めたい人のための具体的なヒントが満載である。この猫本屋は、新刊ゾーンと猫店員がいる古本ゾーンがあり、猫好きが集まっている幸せな空間だ。
すごい。
実際にこんな人がいるんだ。
安村さんは会社員の仕事と両立させながらこの「猫本屋」の店主をしている。6~7年前からなんとなく考え始め、具体的なプランを立てたのは、開店する1年半前。ビブリオバトルでの経験や人脈、救えなかった野良猫への思い、保護猫団体とのつながり、保護猫カフェでの出会い、本屋のトークイベント「本屋入門」「これからの本屋講座」への参加、「クラウドファンディング活用講座」受講。様々なつながりの中で、夢の「猫本屋」を現実のものとした。
すごい、と思うと同時に、やられた、というちょっぴり悔しいような思いがよぎった。「猫本屋」のアイディア、先を越されてるなと思ったのだ。
本屋を開くのがいかに大変かという現実も知らされた。今は「本屋」にとって、厳しい時代である。ネットで気軽に本が買える今、街の本屋はどんどん消えて行っている。安村さん曰く、「本」だけを売っても採算がとれないので、「本×○○」のかけ算にすることが必要なのだそうだ。確かにその通りだと思う。
「本×猫」のかけ算は、先を越されたが、「本×猫×ねこたま市計画」なら、また違った相乗効果が生まれるのではないか。
ふと気づくと、もう美容院の時間が迫っている。
ついてない、と思ったが、あのドタバタがなければ、今日ここへは来なかった。この本と出会うこともなかったかもしれない。
ついている。
これはやっぱり運命の出会いだ。神様が私に「ねこたま市計画、がんばれ」と言ってくださっているのかもしれない。
栄子は足取りも軽く、駐車場に向かった。