3 人も歩けば猫にあたる
3 人も歩けば猫にあたる
翌日の夕方6時。
栄子は5回目のドアチャイムを最後に、あきらめて、手紙を郵便受けに押し込んだ。
やっぱり今日も無理か。
ここは三村由紀という生徒の家だ。小学5年生から不登校になり、中学校には一度も来たことがない。原因不明。人間関係のトラブル等もなく、学力不振というわけでもない。家庭内で特に問題があるようにもない。何度家庭訪問しても部屋から出てこず、栄子は一度も顔を見たことがない。
いつもなら、母親が出てきて、申し訳なさそうに応対してくれるのだが、今日は買い物にでも出かけているのか、誰も出ない。
小学校の先生に見せてもらった卒業アルバムの片隅に写っている由紀は、丸顔のショートカットで、うっすらと笑みを浮かべていた。
今日は水曜日なので、放課後の部活動がない貴重な日だ。このようなときでないと、長期不登校児の家庭訪問はなかなか難しい。
車を駐めておいた近くの小さな公園に向かった。通称パンダ公園。古ぼけたパンダの形をした滑り台が語源である。一度だけ近所の親子連れが砂場で遊んでいるのを見たことがあるが、基本的に人はいない。「公園」というのもいささかためらわれるような場所である。細い道を急ぎ足で歩いていると、上の方から優しげな声が聞こえた。
「にゃあ」
見上げると、公園のフェンスの向こうにある木の枝に、猫がいる。顔中まだら模様の三毛猫だ。鼻の下にある黒い毛がちょび髭のチャップリンを連想させた。でっぷりとした体つきは貫禄がある。いかにも「おっさん」っぽい見た目にそぐわぬ、可愛い声。うれしくなって、栄子は足を止めた。
しばらく見つめ合った後、
「にゃあ」
と、あいさつを返してみる。
三毛猫は偉そうに大きなあくびをし、そしらぬ顔をして木の上で毛繕いを始めた。
ああ、やっぱり、いいなあ、猫は。
にやにやしながらしばらく見つめていると、フェンスの向こう側で、一瞬、小さな笑い声がした。
やばい。見られた。聞かれた。
いつもそうだが、猫にあいさつしているところを目撃されると、猛烈に恥ずかしくなる。別に悪いことをしてるわけではないのだが、六十前のおばさんが、「にゃあ」はないだろう、と、自分で自分に突っ込みたくなる。しかも、ここは学区内。生徒や保護者に見られると、なおさら恥ずかしい。
夕闇にまぎれて退散しよう、と思った瞬間、フェンスの向こうの木陰に女の子の顔が見えた。
笑い声を聞かれて目が合ってしまい、戸惑っているらしい顔。
この顔。
三村由紀?
卒業アルバムの写真に比べると、少し顔元がほっそりして大人びているが、そんなに変わっていない。
お互い、顔を見合わせたまま、固まっていると、三毛猫が場を取り持つかのように
「にゃあ」
と鳴いた。
その声に励まされ、聞いてみた。
「聞いてた?」
由紀(おそらく)はこくんとうなずいた。
「聞かれてたかあ……」
栄子がため息をつくと、由紀(おそらく)は、小さく笑った。
「そっかあ……」
ちょっとした沈黙の後、思い切って切り出した。
「ひょっとして……」
由紀(おそらく)の顔が少し硬くなる。
「ひょっとして、君もこの猫を見てたの?」由紀(だとしておこう)の顔が和らぐ。
「うん」
小さな声が返ってきた。
「君んちの猫?」
「ううん、野良猫。」
「そっかあ。野良猫にしてはいい毛並みだね。」
「時々、おかずの残りをやってる。」
「なるほど。それで、慣れてるんだね。君の家、この近く?」
「うん」
由紀(確定)は、先ほど栄子がピンポンを連打していた家を指さした。
「この猫、なでさせてくれるの?」
「ご機嫌次第」
「そっち側、行っていい?」
一瞬、間があったが、
「うん」
と、小さな声が返ってきた。
公園の入り口を回って、由紀のそばに行った。身長は百五十五センチくらい。横に並ぶと小柄な栄子と同じくらいだ。
「今日のご機嫌はどうかな。」
「さっきはなでさせてくれた。ご飯も食べて、落ち着いてる。」
「おお、じゃあ、いけるかな。でも、おばさん、初めてだから警戒されるかもね。」
「どうだろう……」
と、色白の首をかしげる由紀。
「嫌がって逃げちゃったらごめんね。」
「別にいいよ。私は、毎日会ってるから。」
そうか。由紀はここで毎日、この猫と時間をともに過ごしているんだ。家から全然外に出ていないのかと思っていたので、少しほっとした。何だか、三毛猫が由紀の守り神みたいに思えて、心の中で、ひそかに「ありがとう」とつぶやいた。
「名前、つけてる?」
「ボスって呼んでる。」
「お、ぴったり! 風格あるもんねえ。」
由紀がうれしそうに微笑んだ。この子、こんな顔をするんだな。
「ボス、はじめまして。」
ボスが怖がらないように、目を見ながら、ゆっくりと手を伸ばす。
ボスは逃げなかった。そっと耳の後ろをなでると気持ちよさげに目をつむった。
「ありがとう、ボス。」
数回なでで、手を引っ込める。猫と付き合うのに、無理は禁物。特に、ファーストコンタクトは慎重に。
「ありがとう。」
今度は由紀に向かって言った。
「やっぱ、猫はいいわぁ。」
「猫、好きなの?」
由紀から質問してきた。これはいい傾向だ。
「うん、三才の時からずっと飼ってた。今も飼ってるよ。」
「いいなあ。」
「家では飼ってないの?」
「うん。弟がアレルギー。」
頭の中で個人調査票を思い出す。小学三年生の弟がいたはずだ。
「それで、野良猫で我慢してるんだ。」
由紀はボスをなでながら、ささやくような声を発する。
「我慢してるわけじゃないかな。一年前、この子と会って、仲良くなった。」
「野良猫には野良猫の良さがあるよね。飼い猫にはないプライドっていうか、パワーっていうか……」
しばらく猫談義をして、栄子は名乗らずに引き上げた。無理は禁物。
それから、一週間おきの同じ時間帯に、栄子はパンダ公園を訪れるようになった。会えるときもあった。会えないときもあった。ボスがいなくて、由紀だけのこともあった。そんなときにも、
「今日はボスいないね。」
と、由紀と会話を交わして帰るというのがルーティンになった。
ある日、児玉公園が話題にあがった。
「児玉公園に野良猫がたくさんいるの知ってる?」
「行ったことない。」
そうか。由紀は家からあまり出ていないはずだ。
「あそこの猫もいいよ。気ままで、のんびりしてて。」
「ふうん、行ってみたいなあ。」
「あ、でも、児玉市は野良猫を何とかしたいらしいけどね。」
「野良猫、いちゃあだめなの?」
まゆをひそめた由紀の顔を見ていると、ふと、栄子の精神安定剤である例の妄想、「ねこたま市計画」を話したくなった。
栄子は自分の頭の中にしか存在しないねこたま市のビジョンを、熱く語った。
公園のささくれだったベンチに腰を下ろし、栄子の「夢物語」を、由紀は時々笑いながら、楽しそうに聞いてくれた。足下にはボス。二人と一匹。いつもより長い時間を共に過ごす。気づけば、すっかりあたりは暗くなっていた。
「まあ、かないっこない妄想なんだけどね。」
最後に栄子が言うと、由紀は口をキリリと結んで黙り込んだ。栄子はちょっとあせって付け加えた。
「ごめんね。しょうもない話しちゃって。無理な話だってことは、私もよくわかってるんだよ。」
由紀はしばらくうつむいていたが、やがて立ち上がり、栄子に背を向けた。
どうしたんだろう。何か気に障ることを言っただろうか。
「やってみてよ。」
絞り出すように言った由紀の声が、背中越しに聞こえた。
「えっ?」
「やってみてよ。できっこないなんて言わないで。」
「やるって……、ねこたま市計画を?」
「うん。」
由紀は振り返り、うつむきながら言葉をつないだ。
「だって、児玉公園の猫たちも幸せでいてほしい。みんなに幸せでいてほしい。」
栄子はしばし絶句した。由紀がこんなふうに言うなんて、予想していなかった。
「できっこないって言わないで。」
顔を上げて栄子を見る由紀の目は、あきらかに怒っていた。
「有言実行。自分で考えて動くことが大切って、いつも書いてるでしょ?」
「書いてる?」
「学級通信に。おばさん、川上先生でしょ。」
驚いた。この子、私が中学校の教員だってこと、自分の担任だってこと、知ってる! 学級通信は家庭訪問の時、手紙やプリントと一緒に封筒に入れ、母親に渡していた。由紀はそれを読んでいたのだ。
「知ってたの?」
由紀が硬い表情でうなずく。
「でも、なんで? 会ったことなかったのに。」
「何回も家に来たでしょ。どんな人なのかなって、二階の窓から見てた。」
「知ってたんだ……」
「やってよね。無理って言っちゃいけないんだよね。」
強い口調が続く。先ほどニコニコしながらねこたま市計画を聞いていたときとは、別人のような由紀がいた。
何も言えずに立ち尽くす栄子を残し、由紀はくるりと背中を向けて去っていった。
家に帰った栄子は、混乱した頭を整頓しようと必死だった。ふじこをなでながら考える。
どういうこと?
一体何なんだ、由紀のあの反応は。
落ちついて考えてみよう。
そういえば、由紀も言ってたっけ。「考えて自分で行動するのが大切って書いてたでしょ。」って。
ねこたま市計画のことを話しているときは、いつもの由紀だった。
「できっこない妄想」といったらご機嫌が悪くなった。
いや、待てよ。いつもの由紀?
私が由紀の何を知ってるっていうんだ。たかだか、数回、パンダ公園で会って話をしただけだというのに。
由紀はどんな気持ちで私と話していたんだろう。どんな気持ちで、部屋にこもっているのだろう。長い一日、どんなふうに、何を考えて過ごしているんだろう。
学級通信。
それに由紀は引っかかっていた。私はあのとき、ああ、読んでくれてたんだとうれしい気持ちもあった。
でも、部屋の中で、由紀は一人っきりで、どんな思いであの通信を読んでいたんだろう。
通信には、中学校の様子が書いてある。さまざまな学校行事とそれに向けての取り組み、さまざまな問題を乗り越えて共通の目的を達成しようとする姿、学活や道徳で級友が書いた感想が載っている。
級友。
由紀が会っていない級友。
名前も顔も知らない級友。
小学校の5年生までともに過ごし、今は中学校3年生になっているだろう級友。
前向きな思いが綴られ、「あきらめないことの大切さ」が語られ、「できっこないと決めるな」と言われ、「有言実行」「自分で考えて行動することが大切」とつきつけられる。
「中学校に行く」という行動をしていない由紀は、どんな思いで通信の言葉を読んでいたのだろう。
中学校の様子を知らせることで、少しでも興味を持ってくれたら、という願いから、栄子は通信を届けていた。しかし、由紀にとってそれを読むことは、苦痛だったのかもしれない。
しばらく落ち込んだ。
ふじこが顔をなめてくれた。
待てよ、と思った。
でも、由紀は「いつも書いてたでしょ」と言った。ということは、由紀は「いつも」通信を読んでいたのだ。読みたくなければ読まなくていいのに。
そして、パンダ公園で出会った猫好きのおばさんが、その通信を届けに来る担任だとわかってて、逃げなかった。
また会うかも、とわかっていて、水曜夕方六時に公園にやってきていた。
拒否されていたわけではないのだ。
むしろ、ちゃんと会いに出てきてくれていたのだ。複雑な思いを抱えつつ。
おそらく、由紀の心は揺れているのだろう。
学校と縁を切ってしまいたいわけではない。
でも、行けない。行かない?
話したくないわけではない。
でも、話せない。話さない?
考えて行動しろと言われると、困ってしまう。
腹が立つ。
考えてないわけじゃない。
何をどう行動すれば良いのか、わからない。
そんな悶々とした心を抱えながら、パンダ公園で猫をなでている。猫は「行動しろ」とは言わない。猫は人に命令しない。猫は自由に自分で動いているだけだ。
そんなとき、猫好きの担任が、夢物語を楽しそうに語って「できっこないんだけどね」と言った。
じゃあ、あんたがいつも通信に書いてることは何なの。自分はどうなの。「できっこない」って、あきらめるの。
そりゃあ、むかつくわな。
むかつかれても、しかたない。
天を仰いでため息をつく栄子に、ふじこがすり寄ってくる。柔らかな背中をそっとなでる。ふじこの「ぐるぐる」に励まされながら、栄子は考えた。
由紀に言われたように、自分で考えた。
自分が通信で書いたように、自分で考えた。
考えた結果、自分なりの結論を出した。
とりあえず、できることから始めてみよう。
正直、夢物語だってことは、自分でもよくよくわかっている。でも、何もしないで「できっこない」では、由紀は納得しないだろう。そして、栄子自身も納得できない。ダメもとでもいいから、まず、やってみる。
やるっきゃない。
さて、何から始めよう?