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2 ひょうたんから猫

この章は、重めの現実から始まりますが、見放さずに読んでもらえると有難いです。

第3章からは、展開が早くなり、読みやすくなります。

よろしくお願いします。

 2 ひょうたんから猫


 2018年、日本中が酷暑にあえいでいた夏の終わり。

「やっぱり、教室にエアコンをつけるのは無理みたいです。」

 職員会議の冒頭は、校長のこの言葉で始まった。

 児玉市立児玉中学校。全校生徒157名の小さな学校である。


 今年の7月、愛知県豊田市で、校外学習から教室に戻った小1の男児が熱中症で死亡するという悲しい事件があった。この日の豊田市の最高気温は37.1度。学校側は体調不良を訴えた男児を、エアコンのない教室で休ませていた。事故を機に、保護者や識者から「教室にエアコンを」との声が上がるが、全国の小中学校普通教室のエアコン設置率には大きな差がある。

 2018年7月30日付の毎日新聞によると、設置率は、東京が99.9%、香川県は97,7%。同じ四国の愛媛県は5.9%。北海道や東北地方の設置率が低いのはまだわかるとしても、暑いはずの九州では26~36%の県が多い。長崎県にいたっては8.6%である。

 都道府県によって、格差がある。

 そして、さらに、同一県内においても、エアコンのついている学校とついていない学校がある。


 なぜ、こんなことが起こるのか。


「児玉市にはお金がないのです。」

校長の言葉がすべてを物語っている。

 文部科学省はエアコンの設置について、「学校設置者である自治体が地域の気候や事情を踏まえて、必要に応じて検討する」という姿勢をとっている。しかし、「エアコンが学習効果を上げる」との視点から、2002年度から、普通教室への設置費の3分の1を補助する制度を設けた。

 裏を返せば、残り3分の2及び維持費は、各自治体でどうにかしろ、ということである。


 児玉市には、金がない。

 児玉市に住む者、児玉市で働いている者にとっては、周知の事実である。


 児玉市は、自然に恵まれた風光明媚な街だ。南部は海に接し、ロケーションは抜群である。夕日に照らされる海岸通りの美しさは見る者の心を癒やしてくれる。海の近くには温泉もある。中部は山と田野が広がり、鉄分と有機物を多く含んだ粘り気のある良い土がとれ、かつての児玉市は、焼き物の町として栄えていた。独特の素朴な風合いを持つ児玉焼は高く評価され、多数の窯元が栄えていた。「人間国宝」に認定された作家も輩出している。


 ところが、不況のあおりを受け、焼き物は売れなくなり、幾つもの窯元が廃業した。農業で生計を立てていた地域も立ちゆかなくなり、離農者が増えた。他に産業らしいものもないこの町は、どんどんさびれていった。

 1980年の人口は12万人。現在の人口は7万5千人。

 かつて華やかだった児玉商店街は、人がいなくなり、「シャッター商店街」と化している。

 店がなくなる。若者は町を出て行く。子供の数は少なくなる。高齢化が進む。

 悪循環である。

 全国の様々な地域でよく見られる状況が、この児玉市でも起きているのだ。


 児玉市に隣接してる県には、国の重要文化財に指定されている城があって、観光客が多数訪れる。昨今のお城ブームにのっかって、外国人観光客も多い。そこに行くためには児玉市を横断する国道を通らねばならないのだが、通過点に過ぎない児玉市には、金は落ちない。予算潤沢な隣県の中学校の教室には、もれなくエアコンがついている。


「児玉市にはお金がありませんから、エアコンの設置費用は出ません。」

校長が繰り返した。

「だいたい、パソコン教室のエアコンが古くなって壊れたから修理してほしいと要望しても、それすら、無理って言われるんですよ!

 新たに教科教室にした部屋に、扇風機を2台つけてほしいとお願いしても、無理。普通教室にエアコンなんて、夢のまた夢です。」

と、さらにダメ押し。

 ため息をつく校長は、さらに追い打ちをかける。

「市教委からは、働き方改革に向けて、具体的にどう動くかを書類で報告しろという指示が出ています。」


 昨今、ちまたで叫ばれているもう一つのキーワードが「働き方改革」だ。超過勤務による過労死という現実に突き動かされ、ここ最近、世の中では「働き方改革」が声高に叫ばれている。


 正直、中学校の現場は超ブラックである。 

「建前」の勤務時間は、8時20分から夕方5時。

 しかし、現実とは大きくかけ離れている。

 実際には、朝7時半から部活の朝練が始まり、授業をし、放課後は6時まで再び部活。そこからやっと、仕事に取りかかる。


 中学校は、小学校と違い、授業のない空き時間があるだろうと思われているかもしれないが、「空き時間」ではない。教材研究、授業の準備、プリントを見る、提出物の確認、テストの採点、成績処理、会計処理、通信の発行、行事に向けての準備、PTA関係の仕事、(せつ)(しよう)、各種会議、生徒が毎日出す生活ノートを見てコメントを書く、校務分掌をこなす、上から降ってくる様々な調査やアンケートに対応する……。休み時間は、はっきり言って、皆無である。

 給食は、教室で生徒の様子を見ながら、5分で食べる。今は、幸いなことに児玉中は落ち着いているのだが、荒れているときは、給食をゆっくり味わって食べる暇もない。いつ何が起こるかわからないのだ。すっかり早食いの癖がついてしまって、給食だけでなく、プライベートでも、あっという間に食事を済ませてしまうというのは、「教員あるある」だ。

 昼休みも、教室近辺にいて、生徒とコミュニケーションを図ったり、様子を見たりしている。ひとたび「事件」が起こればその対応に走り回る。ゆっくりお茶を飲む暇もない。

 荒れているときは、「同時多発」で様々なことが起こる。

 放課後の生徒指導。夜の家庭訪問。不登校の生徒への対応。学力向上のための補習。保護者のクレームへの対応。地域からの要望への対処。学校内の破損箇所の補修・整備。朝夕の交通指導。夜に行われるPTA関係の会議。休日にある地域のボランティア活動への参加。最近とみに増えてきた、特別支援を必要とする生徒のケース会議。

 中学校教員は、文字通り、「何でも」しなくてはならない。教科指導だけすれば良かった昔とは、時代が違う。むしろ、他の「仕事」に追われて、ついつい教材研究が不十分になってしまう、という良くない現状がある。

 なんとか頑張って仕事をやっつけて、夜9時には学校を出ることが、栄子の目標である。


 土日もゆっくり休めない。

 まずは、部活。

 はっきり言って、「部活」は教師の本務ではない。教員の服務の中に明記されておらず、いわば「ボランティア」である。しかるに、校務分掌の中に位置づけられているというまことに妙なシステムなのだ。ならば、休日練習しなければ良いではないかと思われるかもしれないが、子供たちが頑張っている姿を見ると、何とかして、成果を出させてやりたい、と思うのは、教師の(さが)である。成果を出すためには、どうしても「時間」が必要となってくるのだ。

 また、しなかったらしなかったで、生徒や保護者に「あの先生は熱心ではない」など、悪く言われることもあるかもしれない。ちゃんとついておかないと、生徒指導事案、事故など問題が起こる。生徒との人間関係も悪化する。


 休日の部活後に、平日は間に合わずにたまっている山のような仕事を片付け、授業の準備をし、ふらふらしながら家路につく。バタバタと家事をこなし、月曜日の朝を迎える。

 気づけば、超過勤務時間が毎月130時間を越えている。限りなくヤバい状況だ。超ブラックである。

 いつ体調を崩してもおかしくない。

 実際、教員には体や心を病み、学校に来られなくなる者も少なくない。やめてしまう者も多い。

 誰かが倒れると、その仕事を他の誰かがしないといけない。「代員」の教師が来れば良いのだが、すぐには見つからない。ずっと来ない場合もある。そうすると、学校内で、なんとか回すしかなくなる。さらに仕事が増える。ドミノ倒しのようにバタバタと教員が倒れていくこともある。まさに悪循環である。

 栄子自身、自分がいつ倒れるのか、かなり不安だ。無我夢中で日々の仕事に追われているが、ふと我に返ると、怖くなる。

 今のままでは日本の教育は立ちゆかなくなる、と栄子は憂えている。前途のある若い教師が心折れてやめていくのを見ると、切なくなる。教師のなり手も減っていく。優秀な人材が集まらなくなる。


 「働き方改革」、大いに結構。

 ただし、そのやり方に問題がある。

 多様化した教師の仕事。

 仕事は増える一方である。当然のことながら、「本業」である「学力の向上」も要求される。文部科学省の目指す「主体的・対話的で深い学び」を達成するためには、従来の教授型一斉授業とは異なる授業研究が求められる。それには、「今まで」プラスアルファの教材研究・教材準備の時間が必要だ。

 新しいことはどんどん入ってくる。勤務時間は変わらないのに。

 結果、どんどん忙しくなる。

 子供でもわかる算数である。

 仕事内容の見直しをして、今までしてきた何かを減らさなければ、時間は生み出せない。 

 あるいは、教員を増やして、一人あたりにかかる仕事を減らすか。

 だいたい、昔の一斉授業ならいざ知らず、本当に学力を上げようと思うのなら、40人学級では厳しい。一クラスの生徒人数を減らせば、必然的に、一人の教師にかかる負担も減る。より細やかな指導もできる。


 だが、お金がない。


 結局はそこに行き着くのだ。

 政府・文科省は、そこにお金をかける気はないらしい。当然、自治体も(しか)り。貧しい児玉市は言わずもがなである。

 では、どうするか。

 各校で、各人で、どうにかしろということらしい。

「何を減らすか、自分たちで考えて、どうにかしなさい。」

 それが、教育界の「働き方改革」らしい。

 

 「働き方改革の具体案って、結局は自助努力でなんとかしろってことでしょ。」

「金は出さない。人は増やせない。自分たちで頑張れ。これじゃ、小手先の子供だましですよ。」

職員会議の校長の発言に対して、ブツブツと不満の声が上がった。

「わかってます。」

校長が言った。

「私も、皆さんにこういうことをお願いするのは心苦しいのです。市教委もきっと同じ思いでしょう。でも、どうにもならない。限られた条件の中で、どうにかするしかないのです。」

 ため息をつくしかない状況がそこにある 結局、各自、具体案を考えて一週間後に提出、ということで会議は終わった。


 会議後、2学期の授業の準備をして、家に帰ったのは、夜の9時。

 深夜10時まで営業しているスーパーの100円引き弁当を食べながら、栄子はため息をついた。

 川上栄子、58才、独身、一人暮らし。 過去、結婚のチャンスがなかったわけではないが、仕事に追われているうちに、気がつけば婚期を逸していた。 

 気が重い。

 そんな栄子のひざにひらりと「ふじこ」がのってきた。

 ふじこは栄子の家にいつの間にか居着いたキジトラの猫である。


 栄子は根っからの猫好きだ。3才の時、道ばたの段ボール箱の中でか細く鳴いていた子猫に、心を奪われた。兄と二人で、渋い顔をする家族を拝み倒し、やっとこさ飼ってもよいという許可をもらった。「ミーコ」と名付けたその猫と、栄子は一緒に生きてきた。  

「キジトラなのに、なんでミーコなの?」とよく聞かれる。理由は単純。拾ってきたとき「みーみー」鳴いていたからだ。ミーコは寝るときも栄子と一緒だ。栄子の布団の中に潜り込んできて、栄子の腕枕でスースー寝息を立てて寝る。

 ミーコは栄子が大学2年生の時、天寿をまっとうした。猫としては実に長生きだ。ミーコが死んだとき、栄子は泣いて泣いて泣いて、目が腫れ上がった。ミーコに(みさお)を立てて、もう二度と猫は飼わないと心に決めた。 


 しかし、「猫好き」は止まらない。猫グッズを買ったり、猫カフェに行ってみたり、通りすがりの野良猫に人目をはばかりつつ「にゃあ」とこっそりあいさつしてみたり。野良猫には餌はやらない。餌をやると、居着いてしまい、情が移る。ミーコに申し訳ない。だから、遠くから見つめるだけで我慢していた。


 2年前の冬、玄関先においてある鉢植えの陰に、チラリと猫の尻尾が動くのが見えた。そっと近づいて見ると、手のひらにのるような小さな子猫がガタガタとふるえていた。右足をけがしているようで、動けないらしい。やっとのことで、ここまで歩いてきたのだろう。尻尾のまっすぐなキジトラだった。栄子を見上げる目は子猫独特のブルー。不安と恐怖がいり混ざっており、弱々しい声で「フー」と()(かく)してくる。栄子は自分に課した(おきて)を破り、そっと抱き上げ、家の中につれて入ってしまった。

 以来、「ふじこ」と呼ばれる猫は、栄子の第2の飼い猫となったのだ。


 栄子が身も心もグタグタになって帰ってくると、ふじこが「にゃあ」とすり寄ってくる。への字だった口元がゆるみ、自然と(こう)(かく)が上がる。ふわふわとしたふじこの毛並みを両手で包み込むようになでていると、栄子の心もふわふわになる。

 自分が落ち込んでいるとき、それがふじこにわかるのではないかと栄子は思う。なぜなら、いつも以上にすり寄ってくるからだ。ちょいと首をかしげて、「どうしたの。何かあったの」と言わんばかりに、こちらの顔をのぞき込んでくる。


 いつもはそれで元気になるのだが、今日はダメージが大きすぎた。

 勤労意欲がわかない。

 働けど働けど、認められない。

 むしろ、「働き過ぎていること」が悪であるかのように言われる。

 「サラリーマン教師」になって、必要最低限のことだけをすれば、もっと早く帰れるのかもしれない。でも、それは、「教育」ではないと栄子は思う。「教え育てる」には、手間暇かけないといけない。一人一人の生徒に寄り添い、思いを受け止め、学力や心を育てる手伝いをするのが教師である。

 働き方改革のため、授業で使用するワークシートや、生徒・保護者に配布する学級通信の作成をひかえろという、とんでもないことを言われた。

 ありえない。栄子は(ふん)(がい)する。

 教科書とノートだけの授業。それじゃあ、昔に逆戻りだ。限られた時間の中で、学力をつけるためには、ワークシートが有効なときがある。考える力、学ぶ力、他者と協働して学び合う力を育てるため、さまざまな授業研究がなされてきた。他者と協働する際、互いの考えが視覚化される思考ツールの有用性もいわれている。その中の一つである、ワークシート。それを作るな? 馬鹿じゃないの?

 「働き方改革」と、「主体的・対話的で深い学び」の共存は難しい。

 道徳の教科化が平成31年度から、中学校でも実施される。しかし、画一化した道徳の教科書を使って年間35時間授業をしただけで、本当の意味で「心が育つ」とは思えない。

 学級通信は、生徒や保護者と担任との大切なコミュニケーションツールである。ドラマ「三年B組金八先生」のモデルになったと言われる、八ツ塚実先生という偉大な方がいらっしゃるが、八ツ塚先生の学級通信を読むと、その中で、生徒一人一人が悩み、考え、クラスが集団として成長し、それぞれが生きる力を身につけていく様子が伝わってくる。 

 教育現場で先人が築いてきた本当に大切なことを、「合理化」「効率化」という(にしき)()(はた)の元、切り捨てていってしまうと、教育界は大変なことになるのではないかと、栄子は()()する。「荒れる中学校」再び、ということになりかねない。


 この国の教育は、一体どこに向かっていくのだろう。

 児玉市の教育は、一体どうなるのだろう。

 考えれば考えるほど、未来の展望が見えず、重たいものが心にのしかかってくる。


 これではいけない。

 よし、切り替え! 何か、楽しいことをしよう。

 栄子は、映画を見ることにした。昔は「映画」といったら、「映画館」だったが、今は家にいながらにして、簡単にスマホやタブレットで映画を楽しむことができる。全く、便利な世の中になったもんだ。

 栄子が選んだのは「殿、利息でござる!」というコメディタッチの日本映画だ。

 阿部サダオ主演。なんと、あの金メダリスト・羽生弓弦が殿様役で出演しているという作品。これなら、きっと、嫌なことを忘れて楽しめる。

 そう思って見始めた映画だった。


 見終わって、栄子は泣いていた。

 完全に予想を裏切られた。良い方の意味で。

 2016年に公開されたこの映画。今から250年前の江戸時代、藩の重い年貢により夜逃げが相次ぐ宿場町・吉岡宿に住む(じゆう)(ざぶ)(ろう)は、知恵ものの(とく)(へい)()から町を救う計画を聞く。それは藩に大金を貸し付け、利息を巻き上げる「庶民がお上から年貢を取り戻す」逆転の発想だった。今のお金にして3億円もの大金を水面下で集める前代未聞の計画だ。十三郎と仲間たちは、必死の節約を重ね、ただ町のため、人のため、私財を投げ打って悲願に挑む。「この行いを末代まで決して人様に自慢してはならない」という「つつしみの掟」を自らに課しながら。


 すごい。

 こんな人たちがいるんだ。

 何よりすごいのは、この映画が実話を元にしているということだ。

 原作は磯田道史の評伝「無私の日本人」の中に収められている「(こく)()()十三郎」。この本は、仙台藩の吉岡宿の窮状を救った町人たちの記録「国恩記」を元に書かれたものなのだ。

 映画を見終わって、涙が止まらなかった。もっと知りたくなって、ネットで調べた。この映画が様々な人の思いがリレーのようにつながってできた奇跡のような作品だと知り、最近味わったことのない高揚感を覚えた。

 すごい。

 彼らはすごい。

 悲惨な状況の中で打ちひしがれ、世を呪い、ただただ日を送るのではなく、自分にできることは何かと考え、それを行動に起こしている。あきらめない。ただ、ひたすらに目的達成のため、行動し続ける。自分の思いを他者に伝え、仲間を増やし、夢物語を現実にしたのだ。(しん)(がん)(じよう)(じゆ)まで、なんと7年の歳月がついやされた。

 すごい。

 こんな生き方があるのだ。一人の思いが伝わり、広がり、受け継がれている。彼らの思いを伝えようとしている人たちが、今、私が生きているこの現代にいる。それによって、長い歳月を経て、ここにいる自分が元気をもらっている。


 それにひきかえ、私は……。

 私は、状況の中でネガティブになり、道を探すでもなく、ただグチグチと不満をためているだけだ。栄子は鼻水をすすりながら天を仰いだ。


 私も前を向かなければ。下を向いてばかりはいられない。


 しかし、私にできることは何だろう。

 児玉市には金がない。人も減っていく。このままではどんどん衰退するのは目に見えている。この現状を打破するためには、一体どうしたらよいのだろう。

 今、児玉市と同じような問題を抱えている地方自治体は五万とある。その中の一部は、それぞれ知恵を絞って「街おこし」を企画し、その中のごく一部が成功している。

 児玉市でできることは何だろう。児玉市の資源は? リソースは? 人材は?


 考えあぐねていると、かまってもらえないストレスからか、ふじこがガリガリと爪とぎを始めた。一応、猫用爪とぎは用意してあるのだが、段ボール箱や新聞紙などもお気に入りのようで、一心に爪をとぐ姿もまたほほえましい。今日は、児玉市の広報誌がふじこのターゲットとなっている。

「だめだよ。それ、今月号だ。」

栄子は広報誌を救い出し、パラパラと中を見た。

 「野良猫にえさをやらないで」という大きな見出しが目に飛び込んできた。

 児玉市では去年、「不適切なえさやり禁止」という条例が作られた。「かわいそうだから」とえさを与えた結果、野良猫が集まり、「鳴き声がうるさい」「敷地内にフンをされる」など、迷惑だという苦情が相次いだためだ。特に、児玉市の中心部にある児玉公園には、定期的に猫にえさを与えている人がいるらしく、たくさんの野良猫が集まってきていた。児玉公園に隣接している道の駅では、児玉市の物産なども販売されている。市内で人が集まる数少ないスポットの一つである。そこに小汚い野良猫がうじゃうじゃいては迷惑だ、というわけである。世の中、猫好きばかりではない。猫嫌いの人にとっては、許せないことなのだろう。

 もったいない。栄子は首を振った。ふじこが家に来る前、栄子は休みの日、ときおり児玉公園に出かけた。ベンチに座って、本を読んでいると、たまに野良猫が近くまでやってくる。えさはやらないが、見ているだけで癒やされた。

 ふじこは室内猫だ。子供のころ実家で飼っていたミーコは、自由に家を出入りしていたが、一人暮らしの閉鎖的な今時の家では、そうもいかない。交通事故や病気も心配である。ご近所に猫が嫌いな人もいるので、迷惑をかけてトラブルになってはいけないと思い、家から出していない。本来、猫は自由を愛する生き物である。それが猫の魅力でもある。狭い家の中で閉じ込めているのはかわいそうだが、しかたない。

 人それぞれ、価値観が違うから仕方がないことではあるのだけれど、児玉公園の自由な猫たちが見られなくなるのは、ちょっと悲しい。

 野良猫が市民権を得ている場所もあるのになあ……と栄子はつぶやく。


 瀬戸内に浮かぶ()(なぎ)島は、猫の島として有名だ。地域の人が猫にえさをやり、地域猫として認められ、今では観光客も多いという。

 福井県の後誕生寺、別名「ネコ寺」。ここでは、数十匹の捨て猫や傷病猫を保護・飼育している。寺の建立直後に4匹の捨て猫を助けたことをきっかけに、最多時は約80匹もいたそうだ。評判が広がり、全国からネコ目当てでこの寺を訪れる人々がいるという。  東京都の()()(せん)エリアは、「猫の街」として知られている。街中には多くの地域猫が暮らしている。谷根千の()(なか)商店街には猫グッズが並び、招き猫専門店、猫をモチーフとしたスイーツ、看板猫のいるお店もある。まさに、猫の聖地!

 いずれも、退職したら一度は訪れてみたいと、栄子がささやかな野望を抱いている場所だ。


 待てよ。

 これかもしれない。

 児玉市の資源。それは、猫!

 栄子の頭の中で、どんどん妄想が広がる。児玉公園を「ねこの公園」にすれば良いのではないか。

 佐柳島、後誕生寺、谷根千では、自然発生的に「ねこ」が市民権を得て、はからずも観光客誘致につながった。谷根千は完全に、そこから「商売」「町おこし」につなげている。児玉市でそれを、意図的に企画することはできないか。


 まず、児玉公園を「ねこたま公園」とする。野良猫、大いに結構。しっかりえさをやり、もっと数を増やす。SNSで情報拡散し、観光客を呼び込む。

 道の駅に猫グッズを置き、販売する。児玉公園の近くのシャッター商店街でも、東京の谷中商店街のような猫関連商品を展開し、客を呼び込む。

 今、世の中は空前の猫ブームである。ペットの飼育数も、犬よりも猫が上回っている。散歩などの世話が必要な犬よりも、猫の方が飼いやすいのかもしれない。住宅事情もあるだろう。

 猫を扱ったTV番組も多い。また、テレビに流れるCMでも、猫がやたらと出てくる。この数年間で、猫カフェも飛躍的に増えた。猫にまつわる本も数多く出版され、売り上げを伸ばしている。猫写真集も人気だ。

 ストレス社会の中で、人は猫に癒やしを求めているのだ。

 今がチャンス!

 全国の猫好き、猫を飼いたくても変えない人、自由な猫の姿を見て癒やされたい人に、「猫の街・児玉市」を売り込むのだ!

 いや、もういっそ、「児玉市」改め「ねこたま市」にしてしまう。「鳥取県」改め「蟹取県」、「香川県」改め「うどん県」的な感じで。


 妄想は、加速度的に広がっていった。

 あ、じゃあ、私は、シャッター商店街の中で、本屋を営もう。猫をテーマとした本、猫が出てくる本、猫の写真集を扱う本屋。私のおすすめの猫本を並べる。キャッチーなポップをつけて。看板猫はふじこ。退職後、私はそこで余生を満喫する。年金暮らしだから、もうけが出なくたっていい。好きな本に囲まれて、猫と共に過ごし、猫好きのお客さんにお勧め本を紹介する。認知症予防にバッチリ。気が向いたら児玉公園に行き、野良猫と戯れる。なんと素晴らしいバラ色の人生!

 どんな本がいいかしら。

 まずは、最近はまっている大山淳子の「猫弁」シリーズ、「猫は抱くもの」「あずかりやさん」。永森裕二の「猫タクシー」もいいなあ。古いところでポール・ギャリコの「ジェニー」。絵本もいい。佐野洋子の「一〇〇万回生きたねこ」は、必須でしょう。当然、岩合光昭さんの猫写真集は、よく目立つところに置かねば。

 そうそう、もちろん、漫画も置かねば。大島弓子の名作「綿の国星」。緑川ゆきの「夏目友人帳」。永尾まるの「猫絵十兵衛御伽草紙」。岩本ナオの「金の国水の国」。


 夢は広がる。栄子は完全にうつ状態から脱出した。

「ふじこ! おいで。」

 少し離れたところでこっちをうかがっていたふじこを、そっと抱き上げる。

「みゃぁ」

 ふじこが尻尾を振る。

 素敵な夢だ。

 あくまで夢は夢だが、考えるだけで心が弾んできた。今日はぐっすり眠れそうだ。


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