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19 雨降って猫固まる

 

  19 雨降って猫固まる


 水曜夕方六時。栄子はパンダ公園にやってきた。そこには、ボスにエサを与えている由紀の姿があった。懐かしい光景に胸が震える。

「久しぶり。元気だった?」

声をかけると、由紀は立ち上がり、気まずそうに下向き加減で言葉を発した。

「ごめんなさい。」

「何謝ってんの。」 

「だって、私……」

「こっちこそ、ごめんなさい。辛い思い、させちゃったね。」

「川上先生は、私のこと考えて動いてくれたのに、私、ひどいこと言っちゃって……」

「いやいや。こっちこそ、考えが足りなかったと後悔したよ。」

互いに「いやいや」と言い合ってるところへ、青山君と緑がやってきた。

「由紀!」

先に声をかけたのは緑だった。

「緑……」

由紀がつぶやく。

「緑……、緑……」

何度も名前を繰り返す由紀の目に涙が浮かんでいる。緑はそんな由紀をそっと抱きしめた。

「由紀、会えて良かった……」

緑もまた、涙ぐんでいる。そんな二人を栄子と青山君は、しばし見つめる。

「緑、ごめん。ずっと心配かけて……」

「ううん。こっちこそ、ごめん。私、何もできなかった。」

「そんなことない。手紙、書いてくれてありがとう。それも伝えたかったのに、何も言えなかった。」

「そっか。手紙、読んでくれてたんだね。」

「うん。」

まぶしそうに二人を見ていた青山君が、口を挟む。

「あの、立ち話もあれですから、座りませんか?」


 四人は、公園のベンチに座った。緑と由紀が並んで座り、その隣のベンチに、青山君と栄子が陣取る。由紀の足下には、ちゃっかり、ボスが寝そべって、念入りに毛繕いをしている。

「この子がボスなんだね。」

緑が感慨深げに言う。

「うん。」

「由紀のナイトみたい。俺が守るんだ、的な?」

緑の軽口に、由紀がうっすら微笑んだ。

「そうかもしれない。ボスがどう思ってるかは知らないけれど、私は、ボスに随分救われてる。」

「そうなんだ……」

「うん。多分、ボスと会わなかったら、私、今、ここにいないと思う。」

なかなかに重たい発言である。

「この公園にまで来れるようになったのも、ボスのおかげなんだ。」

「ボスと会うまでは、来てなかったってこと?」

「うん。家から一歩も出られなかった。」

由紀はボスをそっとなでながら、話を続けた。

「小五の時、私、学校に行けなくなっちゃったでしょ。あれから、ずっと。」

ぽつりぽつりと、言葉を探しながら、由紀はささやくように話す。

「いろんな人に聞かれた。なぜ、学校に行かないの? どうして? 何かあったのって。」

そうか。緑や周りの子供たちが、たくさんの大人に聞かれたように、当然、由紀自身も聞かれたわけだ。

「でも、私、何も答えられなかった。」

うつむく由紀。

「だって、自分でも、どうして行けないのか、わからなかったんだもん。」

由紀の言葉に、(かたわ)らの緑がハッとするのが感じられる。

「うまく言葉にできないんだけど、何ていうか、変な感覚。ふわふわした感じ。自分の足もとが崩れ落ちそうな危うい感じ。何でそう思うのか、感じるのかわからない。でも、何かが変。不安。自分って何? 自分はここにいていいの? よくわからないけど、背中がすーすーする。誰かに何を言われたわけでもない、されたわけでもない。トラブルがあったわけじゃない。勉強で困ってもいない。でも、不安。」

言葉を発する由紀の呼吸が、少し速くなる。

「学校に行こうとするけど、一歩が出ない。無理矢理歩き出そうとすると、お腹が痛くなる。めまいがする。世界がぐるぐる回る。吐き気がする。最初は『吐き気』だったけど、そのうち、本当に吐くようになった。トイレにこもって、ゲーゲー吐いた。泣き泣き吐いた。何でなんだろうと思いながら。自分でも、わけわかんなかった。」

三人は息を詰めて聞いている。

「そのうち、家から一歩も出られなくなった。最初のころは、迎えに来てくれた友達や先生とも話ができてたけど、そのうち、それもできなくなった。

 なぜ? どうして? 何度も聞かれる。責められてるみたい。本当はそうじゃないんだろうけど、あの頃の私は、なぜ行けないんだ、何もないのに、なぜ行かないんだって、責められてるって感じてた。何も理由がないんだから、行けないわけないでしょ。行けるでしょって。

 ドアチャイムが鳴るのが怖い。電話が鳴るのも怖い。夕方になると、そろそろ、誰か来るんじゃないかと思って、怖くて怖くて、耳栓して、布団にくるまってた。」

由紀は大きくため息をつく。

「でも、一番私のことを責めてたのは、私自身かもしれない。行けないわけないのに、行けない。どうにもならない。どうにもできない自分が変なんだ。ダメなんだ。心配してくれている周りを悲しませている。

 あの頃は、本当にしんどかった。世界の色が変わったって感じ。それまでは、普通の世界だったのに、どんどん色がなくなっていった。身体が重くて、だるくて、何を見ても『灰色』に感じる。」

夕方の公園の空気が重くなる。

「いろんな病院にも連れて行かれた。カウンセリングも受けた。薬も飲んだ。でも、どうにもならなかった。三年間、ずっとそんな感じ。」

三年間。そう、三年間なのだ。何という長い時間、由紀は苦しんでいたことか……。

「しんどかったんだね。」

緑がつぶやく。

「うん。このまま、一生こうして過ごすんだと思ってた。でも……」

由紀が足下のボスをそっと抱き上げ、膝の上にのせた。ボスはされるがままである。

「この子と出会った。」

ボスは由紀の膝の上で体勢を整え、落ち着いた。

「去年の秋、自分の部屋から、窓の外を見てた。窓の外は、私にとって、自分とは違う世界。怖い世界。でも、怖いのに、見たくないのに、なぜだか、目がいってしまう。いつもは、ちょっと見ては、すぐしんどくなって、目をそらしてた。

 でも、あの日は違った。塀の上をこの子が歩いてた。ゆったりと。歩いてるかと思ったら、急に立ち止まって、寝そべって、あくびしてる。しばらくまったりしてた。毛繕いしたり、自分の腕に顔を乗せて寝たり。そのうちに起き上がって、ぐ~んとのびをして、また、歩き出して、どこかに行っちゃった。気づいたら、十五分以上、私、窓の外を見てた。」

ボスは由紀に額をなでてもらって、軽く顔を持ち上げ、ゴロゴロいってる。

「それから、またこないかなって、窓の外を気にするようになった。どうやら、うちの塀がお散歩コースだったみたいで、結構、毎日、同じ時間帯にやってくるの。

 気づいたら、その時間が来て猫を見るのが楽しみになってた。そんな気持ち、久しぶりだった。何かを楽しみに待つなんて。ボスを見てると、気持ちが楽になった。マイペースで、堂々としてて、のんびりしてるんだけど、何だか、とっても力強くて。歩き方が、またいいんだよなあ。しなやかで。でも、確実で。」

確かに、猫の歩き方は、美しい。動く芸術品だと栄子は思う。

「窓から見えなくなるまで、ボスを毎日見送ってた。でも、そのうち、そこから先、ボスはどこに行くのか、どこで何をしてるのか、気になりだした。その先を見たくなった私は、ボスを追っかけて、二年ぶりに家の外に出た。」

それで、家の外に出られたのか。

「最初は、すぐ見失っちゃったけど、何度かついて行くうちに、このパンダ公園にたどり着いた。ボスはここがお気に入りみたい。それから、時間をかけて、少しずつ少しずつ、ボスと仲良くなった。初めは近寄ると、警戒してすぐに逃げ出してたけどね。手を出すと、尻尾を膨らませて()(かく)してきたり。でも、だんだん慣れてきた。私が敵じゃないって思ってくれたみたい。離れたところにエサを置いたら、食べてくれるようになって、少しずつ近寄っても大丈夫になって、触っても平気になって、撫でてもOKになって……。今は、こんな感じ。」

膝の上のボスを優しく慈しむ由紀の目が、実に柔らかい。

「毎日、この公園でボスに会うのが私の日課。ボスも、私が来るのを待ってくれてるみたい。会えない日もたまにはあるけどね。」

「猫って気まぐれですからね。」

つぶやく青山君に、栄子がうなずく。

「でも、そこがまたいいんだよなあ。」

「そう。縛られてないところがいいよね。多分、私、そんなボスを見てると、気持ちが楽になるんだと思う。あ、これで、いいんだなって。私も私でいいのかなって。私、本当にボスに救ってもらった。」

「それで、さっきあんなふうに言ったんだ。ボスに会わなかったら、今、ここにいないって。」

「うん。本当に、その通りなの。ボスのおかげなんだ。」

「そっかあ。ボス様々だね。お前、本当に偉いやっちゃなあ。」

栄子の褒め言葉は、ボスに届いているのかどうか。

「川上先生に会って、話ができるようになったのもボスのおかげだったし。ねこたま市計画聞いて、わくわくした。その気持ちも久しぶりだった。私はボスに、猫に救われた。じゃあ、私が猫のために何かできることはないかって思えた。自分が何かのために、何て思えるのも久しぶりだった。」

そうか。そんなふうに思ってくれてたんだ。

「だから、川上先生が私のアイディアをみんなに話していいかって言ってくれたとき、本当は嬉しかったんだ。

 でも、それと同時に怖くもあった。私が言うこと、みんな、どう思うだろうって。そもそも、私のこと、今、みんな、どう思ってるんだろうって。学校に行けない私。学校に行かない私。それは、もう三年半以上、ずっと変わってない。みんなは中学三年生になって、どんどん大きくなってるのに、私は何もできないまま、何も変わらない。緑もたくさん手紙書いてくれたのに、何も返せずにそのままにしてる。会いに来てくれた友達に会うこともできてない。

 そんなふうに思いだすと、また怖くてたまらなくなる。ボスのおかげで色がつき始めた世界なのに、また灰色の感じが戻ってくる。」

由紀の表情がまた硬くなる。

「でも、ちょっとだけ、期待もしてたのかもしれない。自分に何かできたら、このふわふわした背中が寒くなる感じが、少しでも楽になるんじゃないかって。自分もこの世界で生きててもいいんじゃないかって。」

あの時、無理矢理うなずかせた栄子は、複雑な気持ちで由紀の言葉を聞いていた。

「だから、後で先生からみんなの反応を聞いたとき、ショックが大きかったんだと思う。やっぱり、私はダメなんだって思えて。」

「ごめんね。私のせいだね。」

謝る栄子に、緑が首を振る。

「違うよ。先生のせいじゃない。私のせいだ。ごめん。由紀。由紀がそんなふうにずっと苦しんでたこと、わかってなかった。私が勝手にすねてた。正直、私も辛かったけど、由紀の方が、何百倍、何千倍も辛かったんだ。今、話聞いてて、本当にそう思う。」

「緑は悪くないよ。わけわかんないのは私なんだから。それにね、ほら、今、こうやって、会いに来てくれたじゃない。これは本当に青山君のおかげ。」

「だよねえ。青山君、すごい!」

「最初、この公園で青山君に会ったときはびっくりしたけど、わざわざ私のために会いに来てくれたってことがわかって、本当に嬉しかった。私のことも、緑のことも、川上先生のことも一生懸命考えてくれてた。青山君の話聞いてたら、涙が出てきちゃった。青山君、変わったなあって思った。本当にすごいなあって思った。」

「確かに。青山君の成長ぶりは半端ない!」

「だよねえ。」

三人に絶賛されて、青山君は顔を真っ赤にして、所在なげに目を泳がせている。

「青山君の話を聞いて、何だか、光が差してきたんだ。」

「お、(おお)()()な……」

「全然大袈裟じゃない。本当にそうなの。人って変われるんだなあって思えた。今は私、こんなだけど、ボスのおかげで、ここまで来られるようになったし、人と会えるようになったし、今もこうやってみんなとここで話してる。今まで誰にもいわなかった気持ちを話せてる。これって、すごいことだと思う。私にとっては『光』そのものだよ。」

由紀の声に力がこもっている。

「あせらず、ぼちぼち、自分にできることをしていけたらいいかなって、今は思ってる。」

「そうだね。ボスみたいに、自分のペースでゆっくり歩いて行けたらいいね。」

栄子がうなずく。

「ありがとう、由紀。たくさん話してくれて。由紀の気持ちが聞けて、嬉しい。由紀と話せたことが嬉しい。」

緑は涙声だ。


 突然、青山君が走り出した。全力疾走でパンダの滑り台を一周回って、ハアハア息をつきながら戻ってきた。

「何? 一体どうした、青山君?」

(きよう)(がく)する女三人に、青山君は照れくさそうに笑った。

「いやぁ、良かったです。本当に良かったです。嬉しすぎて、じっとしておれなくなって、ちょっと走ってきました。」

「でたな、不思議君。」

青山君のこんな姿は久しぶりに見た。入学当時はよくあったが、急成長中の今では見られない姿だ。それだけ、青山君の心も揺れ動いていたのだろう。

「だって、皆さんにここに来てもらったものの、本当にそれで上手くいくのか、ずっと不安だったんです。僕がまた一人で空回りして、余計なことをしてしまってるんじゃないのかって。不安で不安で、昨日はあまり寝られませんでした。」

「そうだったの……」

「でも、こんなふうに話ができて、みんなが笑顔になれて、本当に嬉しいです!」

「ありがとね。青山君のおかげだよ。」

「ボスのおかげでもあるよね。」

「確かに。やっぱり、猫はすごい。」

「ねこたま市計画、やっぱり、必要だよ。」

「にゃぁ」

実にナイスなタイミングで鳴くボスであった。



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