11 覆水猫に返らず
11 覆水猫に返らず
由紀にどう伝えよう。いや、まず、そもそも伝えるべきなのか?
緑の思い。
由紀はきっと知らない。知らないままで3年以上たっている。
だが、その思いに直面することは、由紀にとってはとてつもなく辛いことだろう。そして、それは過去のことではなく、今もなお続いているのだ。この現実は厳しい。
しかし、総合でのねこたま市計画がどう進んでいるのかを、由紀は気にしているはずだ。自分のアイデアがどう思われたか、ドキドキしながら待っているはずだ。
この話題を避けて由紀に会うことはできない。
かといって、この話題になるのが怖いからといって、ずっと会わずにいるというわけにもいかない。
あのとき、正直、由紀は自分のアイデアを伝えることに乗り気ではなかった。それを、栄子が強引に押し切るような形でうんと言わせたのだ。「きっと大丈夫」だと言って。
やっちまった……。あの時の根拠のない私の自信は何だったんだろう。由紀を取り巻く当時の状況をよく知りもしないで、軽々しく判断した私の罪だ。
栄子は悶々としながら日々を過ごした。
もだえながら考えに考えた末、仕方なく、重たい足を引きずって、水曜6時、パンダ公園に向かった。
まずは由紀に会う。「ほわほわ」っと伝える。この「ほわほわ」とが微妙なところ。緑の気持ちをすべてぶつけるわけにはいかない。かといって、「手応え」を伝えないわけにはいかない。だから、「ほわほわ」っと伝える。上手く言えるかどうかはわからないけど、とりあえず、やってみるしかない。
公園のパンダ滑り台の足下に、由紀とボスがいた。ペンキがはげて、もはや「パンダ」と判定しがたい物体が、もの悲しい。
ゆっくり近づく栄子に気づいて、由紀が胸のところで小さく手を振った。
「もうご飯は済んだんだね。」
からっぽのお皿を見て栄子が言う。
「うん。」
ボスが栄子の足に頬をすり寄せてきた。
「ご機嫌良さそうだ。」
背中をなでながらつぶやく。
「いい顔してるなあ。これって、マーキングだって言われてるけど、そうなのかな。」
「先生にマーキングしてるってこと? この人間は俺のものって?」
由紀が笑った。
「うん。でも、単に、ほっぺたのところをすりすりすると、気持ちいいだけなのかな。」
「そうかも。でも、気に入らない人にはしないでしょ。まあ、どっちにしても、ボスに、認められてるってことなんじゃない?」
「そうならうれしいんだけど。」
えい! 思い切って、切り出す。
「それはそうと、ねこたま市計画の話。総合の時間に、正木グループに提案してみたよ。」
由紀がハッと息をのむのが伝わってきた。栄子の次の言葉を待っている。
「食器じゃない猫の焼き物、いいかもって言ってた。」
「そう。」
由紀がほっとした顔をした。
「まあ、最終的に、どんな案を企画に盛り込むかは、まだこれからで、どうなるかはわからないけどね。」
と、「ほわほわ」と言ってみる。
「そりゃそうだね。」
由紀がそう言ってくれたので、ほっとした。 その後、滑り台に座り込み、とりとめもない雑談をして、
「じゃあ、また。」
と、栄子は腰を上げた。
その瞬間、由紀が小さな声で言った。
「私のこと、みんな、何か言ってた? もうずっと会ってないから……」
顔を上げず、うつむいてボスの額をさすりながら聞く。
聞かれてしまった。由紀はこの質問をしようかどうしようか、きっと、ずっと迷っていたのだ。別れ際に、思い切って、勇気を振り絞って、やっと言葉にしたのだ。
栄子はちょっとだけためらって、言葉を探した。
「そうだってね。ずっと会ってないって言ってたよ。」
これは事実だ。
「緑、どう言ってた?」
由紀が顔を上げた。その目が必死だった。どう話せば良いのかわからない。嘘は言えない。でも、そのままも言えない。
「会えないのが辛かったって。」
これも事実だ。
「……」
由紀は何も言わず、ボスをなでる。
沈黙が流れる。いかん。何か言わなきゃ。
「私のこと、怒ってた?」
由紀に先を越されてしまった。
「怒ってるっていうか……」
あの時の緑のいらだった声が思い出される。
「まあ、何というか、いろいろと複雑な気持ちではあったみたい。」
この言い方は「ほわほわ」になってるのか?
「……」
しばらくボスをさすってから、由紀は立ち上がった。
「怒ってるんだね、緑。」
口を一文字に引き絞って、栄子を見据える。
「本当のことを言って。」
この目をごまかしきることはできないかもしれない。
「何で会ってくれないんだろうっていうのは、思ってたみたい。緑は君の力になりたかったんだと思うよ。それが何もできなかったから、しんどかったんじゃないかな。」
「そうかあ。そうだよねえ。緑って、優しいんだよなあ。」
その後に続いた由紀の言葉は、重たかった。
「そんな緑に、私は会いもしなかった。手紙もいっぱいくれたのに、返事も出さなかった。緑が怒って当然だよね。」
まっすぐな由紀の目を見ていると、栄子は「違う」とは言えなかった。
「無理しなくてもいいよ。いいんだ。わかってたんだ。みんなが私のこと、どう思ってるか。きっとそうじゃないかと思ってた。」
由紀の目に涙があふれてきた。
「私が悪いんだ。緑があんなに心配してくれてたのに。何もできない。あの時だって。今だって。ずっとずっと、そう。」
口調が徐々に激しくなっていく。
「わかってたのに。やっぱり無理だってわかってたのに。有言実行なんて、私には無理なんだよ。なのに、何で、『大丈夫』って言ったの?」
由紀の目が栄子を責めている。
「大丈夫じゃないよ! 無理なんだよ! 簡単に大丈夫って言わないで。大丈夫じゃないことだってあるんだよ! もう私にかまわないで!」
由紀はくるりと背を向けて、走り去って行った。
栄子とボスが残された。
何も言えなかった。どんな言葉も思いつかなかった。
私は一体何をしてしまったんだろう。
下手に期待させて、その期待を打ち砕いて、もっと辛い思いをさせてしまった。
栄子は、由紀が走り去った薄暗闇を呆然と見つめていた。




