第七十四話
九本の尾が辺りを薙ぎ払い、蹂躙する。大聖堂の地下より現れたそれは、漆黒の化け狐。かつて、マモンが手掛けた強欲の魔獣そのままの姿。
しかし、その魔力は魔獣ではない。確かに肉体は魔獣の物だが、強欲の魔獣は過去に討伐されている。溢れる魔力はこの地に集まった偏屈な魔力と、おぞましい悪魔の物だ。
「くっ、失敗か。まさか原罪の介入とはな……一度引くぞ、同志よ。」
「仕方無いか……幸いこの辺りに人は残っていない。」
偽善が大司教を抱えて飛び立つ。化け狐は、今は地上へともがくのに必死で、容易に離脱出来た。
この事態の片鱗すら掴めないアルスィアが気付いた時には、既に化け狐は半身を地上に踊らせている。
「取り敢えず一回逃げないと……取り込むつもりが巻き込まれましたとか、洒落にならないよ。」
影に溶けたアルスィアは、すぐに離脱を開始する。その後ろ、大聖堂跡地で化け狐は夜空に咆哮した。
「な、なんだ!?」
「……あっちだ、鍾乳洞の奥にデカいのが居るな。」
振動と轟音で目覚めたソルに、隠す気の無い魔力が叩きつけられる。慌てるベルゴとは裏腹に、魔人の二人は落ち着いて見えた。
しかし、流れる冷や汗からは、それが慌てる余裕さえ無いことが分かる。
「行く?」
「逃げねぇよ、ここには知り合いも多い。シーナに至っちゃ、マジで死にに行きかねないし。」
「……誰?」
「妹弟子。」
短く答えたソルが、その瞳を紅く染めて立ち上がる。辺りの結晶が霧散し、ソルに魔力が集まる。その体にはもう傷は無い。
「ベルゴ、まさかとは思うけど、無くなってないよな?」
「えっ? ……さっきの宝石かい? え~と、確かこの辺り……無いね。」
「やっぱりか……でもどうやって……。」
「これは?」
「足跡? ……魔獣はそんなに賢く無い筈なんだけどな。」
「今はそれしか考えられない。」
ベルゴの寝ていた辺り、光に照らせば肉球の後が砂に残っている。崩れかけた地下道だったから分かった事だが、今はあまり有り難みも無い。
穴を覗き込み、奥を確認するソル。流石の魔人も、あまりの暗闇に一切を把握出来なかった。
「仕方ないな、誤魔化せなくなるだろうけど全力で行くか……」
「まさかそっちに行くの? 絶対なんかいるよ?」
「元々俺の目的がそれなんだよ。お前は離れてろよ、死にたくなけりゃな。」
自信満々に言うソルに、ベルゴは少し意外に感じながら笑う。
「怖いこと言うねぇ、勝算はあんのん?」
「少なくとも勝負にはなる。」
「んじゃ、逃げさせて貰いましょっと。そっちの嬢ちゃんは? 一緒に来る?」
「……盾にして良いなら。」
「せめて武器にして?」
ベルゴ達が地上に出ていくのを見送り、ソルは鍾乳洞へと足を踏み入れる。そういえば塞いでおいた瓦礫も退いていたし、この中に魔獣がいるのは間違いないだろう。
そして、狐は強欲と相性が良い。依代には十分だろう。
「さて、魔力もマナもかなり満ちてる……本当は時間が解決してくれる筈だったけど……やるか。」
ソルの周りを空気が回り、紫に淡く縁取られた魔力が、渦を巻いて彼に集まる。
真っ暗な鍾乳洞が、辺りに満ちる魔力に照らされ、鍾乳石が反射する。
「【具現結晶っ……唯我独晶】っ……!」
ソルの角が大きくなり、動かなかった右腕から小さな結晶が覗く。肉を引き裂いて生える結晶に、痛みを覚えたソルの顔が歪む。
指輪にも結晶は侵食し、そこに美しいレリーフを刻んだ。
足元から結晶が広がっていき、辺りの魔力さえも取り込み統合する。その度に美しく輝き、無色の光が広がった。
「……終わっ、たか?」
はみ出している角を触り、意味の無くなったバンダナを右腕に結ぶ。右腕も動く、魔力も今まで以上に良く動く。
「完全な魔人に成れた……かな。魔界に行かないと駄目だと思ってたけど、ここに環境があって良かったな。」
辺りに散ってしまった魔力が、結晶になっているため周囲が良く分かる。この辺りに満ちていた魔力とマナが、全てソルという個体に統一されたのだ。
先に進む度に結晶を広げ、感覚的に周囲を把握する。そうして数分は歩いただろうか? 唐突に結晶が黒にぶつかる。
「はっ、洒落になってないな……」
それは地表に向けて体当りを繰り返す。九の尾を持ち、漆黒の体毛に覆われた化け狐。鋭い爪、細い体に反して、その尾が占める面積は馬鹿げている。
偽善の悪魔が貯めた魔力、それとマモンの残滓が反応し、意識を取り戻したマモンが自分を運んだきた魔獣一匹に、自分ごと全て放り込んだのだ。
「マモンとしての意識は薄そうだな……今のうちに依代、魔獣を破壊する。」
度重なる体当りに、地面の一部が崩れている。
一足先に「飛翔」で飛び出たソル。少し離れて光と影のぶつかり合いが見えた。しかし、そちらに注意を向ける前に、化け狐の頭と尾が地表に現れた。
「今度こそ完全に滅ぼしてやるよ、
「「「マモンっ……!」」」
どうやら偽善とアルスィアも気付いた様で此方に意識を向けているようだ。少し離れているため、ソルには良く確認できなかった。
どうやら偽善は人間を抱えて離脱するようだ。契約者だろうが、確認する暇は無い。全身全霊を込めて辺りのマナを引き摺り、捕まえていく。少しでも魔法を強力にするために。
「まだ、もう少しっ……!」
アルスィアも離脱した頃、ついに地表に登り詰めた化け狐が、夜空に咆哮する。
ソルの右目から魔力が溢れ、揺らめきながら立ち上る。その声に気圧されながらも、ソルはその意思を形にする。
「【具現結晶・戦陣】!」
硬質な音が辺りに響き、一瞬の内に景色が変わる。地面を覆う結晶、そこから乱立する柱や壁。中空に固定された結晶の塊や武器。地面に突き刺さっている武器もある。
その全てが淡く輝き、魔力を、マナを、熱を、吸収していく。その中心で紅い両目を細めて、結晶の柱に囚われた魔獣を睨む。
「すぐに出てきそうだな……この間に少しでも弱らせてやるか。」
ソルが腕を上げれば大量の結晶が創られる。その全てが化け狐の厚い毛皮を貫いた。
悲鳴を上げた化け狐は、次の瞬間には複雑に絡んだ結晶を破壊して自由になる。ソルの結晶も、【具現結晶・防壁】や【具現結晶・固定】でなければ物理的に破壊は可能だ……化け物の呼称さえぬるい力は必要だが。
「もう一度行くぞ、多連【具現結晶・狙撃】。」
再び大量の結晶が打ち出され、魔獣に向かう。しかし、化け狐の前に構えられた尾が、黒いオーラに覆われたと思えば、それに触れた結晶が全てが消失した。【強欲】である。
「ちっ、やっぱり盗られるか……だったら物理的にやってやるよ。」
ソルの「飛翔」が、周囲の瓦礫を浮遊させる。彼の張った戦陣なので、その下にある瓦礫を上に出すのは雑作もない。
軽く整列された岩石が、魔獣に向けて放たれる。やっと意識が覚醒してきたのか、魔獣は目を見開きソルの方を向く。
「よう、寝坊助。俺が分かるか?」
ソルの言葉に呼応するように化け狐が咆哮する。マモンの意思もあるにはあるようだ。それならば【具現結晶】や様々な特性の魔法に警戒しなければならない。
ソルは、少し距離を取って飛行し、魔法陣をいつでも確認できる様にする。一瞬の魔法陣から大まかな内容を読みとくのも、ソルの日頃の勉学の賜物である……シラルーナと違い、できない分野がはっきりしてはいるが。
「少なくとも魔法を予測するのは出来る……って爪かよ!?」
巨大な爪は、まるで鎌の様だ。空を引き裂いてソルに迫り、空ぶって地面を砕く。ソルの機動性は下手な魔獣よりも高い、そうそう捉えられる物でも無い。
焦れったそうに前足を何度も振り下ろす化け狐。その度に大地を覆う結晶が砕け、弾ける。原罪の悪魔さえも混ざった巨体は、その力も比べ物にならないのだろう。
「少しでも守りは固い方が良かったな……ベルゴにコート返して貰えば良かった。」
【具現結晶・武装】によって結晶の軽鎧と小型結晶を纏い、【具現結晶・加護】で更に念を入れる。少しサイズは合わないが、大聖堂の跡地には武器が大量に落ちている。
大きめの大剣を「飛翔」も用いて握り、化け狐と相対する。
「魔法が効かないんじゃ、肉体を壊すのも地道にいくしか無いよな。」
攻撃に使わない【強欲】は、反射も出来ない。飛ばす結晶だって脆ければダメージにならない。
それなら素直に依代を壊すのが手っ取り早い。とはいえ悪魔の憑いた魔獣が、おいそれと倒せる訳もない。大きな剣は一撃も深いが、その後の反動も大きい。
振り切った姿勢で止まったソルに、尾が数本襲いかかり奪おうとする。記憶も、経験も、その人生を生きる権利を。
「くそっ、安易に攻められない。かといってこのままじゃじり貧だし……」
空中にまで広がる戦陣が、辺りの魔力を吸い上げてはいるが、それも目の前の魔獣には微々たる物だろう。魂とそれに準ずる物は全てが奪われ、それ以外の攻撃も巨大な体躯には効果が薄い。
「一人でやるには少しキツイな……どうにか足止めだけなら出来るか?」
魔力も体力も、広すぎる戦陣から回収すればなんとかなる。後は気力だけの問題だ。一呼吸おき、ソルは大剣を握り直す。
どうせこの騒ぎだ、軍が出てくるのも時間の問題。王都に配備されるような兵士ならば、例え慣れない魔獣狩りもこなせる筈だ。そのエキスパートの獣人の協力さえあれば。
「一人くらい遺恨も何も踏みつけられる人がいればいいけど……」
結晶を乱立させ、大剣を振り、巨大な結晶の武器を落とす。
囚われては破壊し、爪で牽制し、尾に纏う魔法で結晶を奪う。
二つの怪物がぶつかり合う音が王都を蹂躙する。真夜中に轟く結晶の砕ける音と化け狐の咆哮は、人々の心に刻み込まれて行った。
同時刻、避難民が溢れる場所の一つ。貴族一人が所有する屋敷に悪魔が降り立った。
「あ、悪魔襲来! 兵を集めろ!」
「くそ、怪物が現れたと思えば、今度は悪魔かよ。」
「待たれい、人間。ほれ、主からも説明してくれんか?」
「どう言えと言うのだ。貴様は天使だとでも?」
「それは面白い冗談よな……待て、本気か?」
暗がりから光球を放ちながら、大司教は屋敷に近づく。その正体に気付いた一人が、慌てて敬礼を返した。立ち位置からいえば隊長格だろう。
説明どころか、大司教は彼に叱責を飛ばしながら歩みよった。
「警戒をとくな、愚か者。私がお前の知る者と、何故言える。」
「悪魔から歩いて離れる様な胆力の持ち主は、貴方様だけかと。」
「悪魔の幻影もあるが?」
「それなら普通泣いて逃げ出す像でしょうから。貴方様をそこまで知っている悪魔ならば、我等に幻影をかけずに殺すでしょう。」
「随分な評価よな、愉快愉快。」
楽しげに笑う偽善を一睨みし、大司教は屋敷に入る。
「あれも連れだ。通せ。」
「はっ、かしこまりました。お帰りなさいませ、ディケイオス卿。」