第七十三話
月明かりさえ失われた新月の夜闇は、ただ一つの光球に遮られている。慌てて距離を取った偽善の代わりに、狙われたのはそれだった。
「少しは慣れてきたからね。物は試しだ。」
アルスィアの後ろに、二つの魔法陣が輝く。妖刀を一振りすれば、風の刃がその軌跡に創られ進む。そして、上空に届き光球を真っ二つにした。
形を崩された魔法は、もはや魔法ではない。保てなくなった形は崩れ、辺りを闇が支配する。
「よもや彼処まで届くとは……」
「元々、時間制限だよ。日没になれば影はいくらでも見つかる。本当に、なんで影は創れないんだろうね? その分強力だけどさ。」
「ふむ、これでも争えるかどうか……試しても?」
「やるの? 良いよ、絶望を教えてあげる。」
言うが速いか、偽善はその槍をアルスィアに振るう。横凪ぎの一撃は、光に相応しい速さでアルスィアに迫る。
「影は光の裏。光が速くなれば、同じだけ加速する。」
「防ぐか……うぬも目が特殊な物か?」
「いや、影の無い所を知ることが出来るだけだよ。」
偽善はこの暗闇でも良く見える。契約者の視力は、彼に見る事に関しては万能な力を与えていた。
そしてアルスィアは影を知覚していた。影のある場所、影に潜む物。それを裂いて動く光の槍は、彼にその動きを捕まれていた。
「ふむ、打ち合いは互角、か。体力の消耗を差し引いても、我に押しきる術がない。」
「此方にはあるよ、【切望絶断】。」
「マナの動きも見える故。当たることも無い。」
元々近接に置いては、偽善の悪魔に分がある。彼の固有魔法【犠牲栄光】は自らを高める物。武器を造る魔法の多い偽善は、近接戦闘の経験も豊富だった。
しかし、影に抱かれたこの時こそ、アルスィアの真骨頂だ。影に溶け、影で刻み、影が防ぐ。もう一度ここを照らし出す隙を与えない。
「流石にしぶといね、君の固有魔法?」
「教える利があるまい?」
突き出した槍が影を裂き、アルスィアの妖刀は【盾となる光】が防ぐ。時折混ぜられる【切望絶断】は、全力を持って回避する。
永遠に続くと思えた攻防に、ふと変化が訪れたのはそんな時だった。一瞬、強い光が辺りを覆ったのだ。大聖堂の者達である。
「いたぞ!」
「悪魔だ!」
すぐにアルスィアが斬り捨てた彼らだったが、その間に偽善の悪魔は翼を広げる事に成功していた。
「あっ、しまったな。」
半分程、兵士を始末して振り返ったアルスィアには、天に昇る偽善が見える。そのまま弓をつがえ、雨の如く矢を降らせた。
「ここまで明るいと、影に溶けて彼処まで昇るのは無理か……それなら。」
影に溶けたアルスィアが、次に姿を表したのは偽善の真下。
「最短距離で撃ち抜く。【矢となる風】。」
螺旋状に回転しながら、風で創られた矢が上へと昇る。偽善の下から高速で登ったそれは、偽善の胸を貫き通す程の威力が込められており、空中でよろけた偽善は弓を取り落とした。
辺りを再び影が覆い、アルスィアが偽善の上に現れる。驚愕する偽善に、アルスィアは妖刀を構えた。【切望絶断】を一撃食らえば終わる。その恐怖から、つい偽善はもっとも早く距離を取れる方に、真っ直ぐ後ろに下がっていた。
「当たる、【苦痛刻む乱気流】!」
妖刀から放たれた鎌鼬が、偽善を撃ち抜く。その瞬間大きく膨れ上がり、刃となった風が球状に吹き荒ぶ。中心に向けての風に変わる前に、強い斥力で脱出した偽善。マトモに食らった割には最小限のダメージですんだと言えるだろう。
「ぐっ、これほどとは……」
「只の名持ちでも無いんでね、【切望絶断】!」
「くっ、【犠牲栄光】!」
アルスィアが突風に乗り、宙を飛ぶ。偽善が魔法を発動したが、何事もなく妖刀は偽善を斬る……いや、すり抜ける。それは絶対的な隙だった。
「終わ」
「らせない!」
光の槍が唸りを上げてアルスィアに迫る。咄嗟に強く蹴り飛ばしたアルスィア。偽善は大聖堂に向けて飛ばされ、アルスィアは重力に引かれていった。
影に溶けて下に降り立ったアルスィアが、悲鳴を聞いて後ろを振り返る。倒れた兵士は、真っ二つに斬られ微動だにしない。魂が斬られ、即死したのだろう。
「【統制消失】、抵抗を許されず斬られる魂……何度も使える手でも無いんだけど、無駄打ちさせられた。」
大聖堂を振り返り、アルスィアは進む。
「さて、思った以上に飛んだな……体を構成する魔力が、相手の意思を受け付けてしまう位は弱ったのかな?」
阻む軍勢は、影に呑まれて倒れていく。アルスィアの【躊躇いの影】である。今頃、兵士達は過去の恐怖に怯え、過去から来る理想にすがっているだろう。
それでも立ち上がるような者は、アルスィアに刻まれた。影の中から躍り出る斬撃は、防ごうにも全てを絶つのだ。彼等は決して弱くはない。悪魔の力が強大すぎるのである。
「け、警告致します! 空から来た悪魔も見つからないのに、今大聖堂の入り口に悪魔がき」
「遅いよねぇ、いつの話?」
影は忍び寄る。素早く、抜け目無く。伝令する者も、逃げる者も斬り殺す。アルスィアは、王国の人間の心の拠り所を知っていた。故に大聖堂が落ちた絶望を思い、今から力が溢れる様だった。
「……来たか、魔人。」
「ん~、おじさんは?」
「ここで大司教をしている。教祖様は御無事だろうな。」
「誰か分からない……って言いたいけど、あの何の旨味も無い人でしょ?」
「悪魔に見放されるとは……あの方は本当に。」
「生きているよ。逃げられたから。」
どうせなら観衆の前でと思い、逃がしただけだが。それでも大司教は憂いは無くなったとでも言うように立ち上がる。
そして……部屋をいくつもの光で照らし、影を全て取り払った。
「はっ?」
「新たな契約は、「魔法使いとなること」。代償は過去の記憶。今の私にはここ数年の知恵しか無いが……それでもこの国を護る理由はある!」
「へぇ……盲目に何が出来る訳!」
「我が前に立つのよ、うぬを止める為に。」
アルスィアが妖刀を翳せば、彼等の間に偽善の悪魔が姿を現す。影の排除された部屋にて、アルスィアと偽善は槍と妖刀をうち据える。
「うぬはこの国を消すつもりだろう?」
「だったら何かな?」
「させぬと言う訳よ。我の同志の国は奪わせん!」
「正義、遠慮はいらん、派手にやれ!」
偽善の悪魔が輝きだし、大聖堂が崩れ始める。巨大な光の槍が、大聖堂を貫いた。上空に飛ぶ偽善が、【犠牲栄光】により力を増し、更に数百の槍を降らせる。
その全てが、暴風に刻まれ消失する。
「いい加減に、してくれないかなぁ!」
「我としては、それはうぬの事よ。」
「正義、放してくれ。貴様の邪魔になりたくない。」
「ならば下に隠れておれ、影を作らぬよう頼むぞ。」
逃す筈も無いアルスィアだが、大司教は偽善の後ろ。風と光では、その速度は光に分がある。
「行かさんよ、我の契約者の元にはな。」
「随分と入れ込んでるね、悪魔らしく無い。だから光の特性の奴等は嫌いなんだ!」
アルスィアが妖刀を立て続けに振るい、偽善はそれを盾で受ける。アルスィアが僅かに体制を崩せば、偽善の槍が襲いかかる。
「……魔法の調節が難しい。ここ、マナが多すぎないかな?」
「魔界程では無かろう?」
アルスィアの【切望絶断】は、武器に乗せて使用する。
物体を斬る、対象を選んで斬る、物体と対象の両方を斬る。この三つがある。
しかし、マナが濃厚かつ偏ったここは、慣れないアルスィアには細かい魔法の制御を許さない。今の【切望絶断】は、ただ良く斬れるだけの刀だ。
防ぐという意思を形に変えている魔法は、物質ではそうそう斬れない。魔法に対象を合わせないといけないのだ。
「その盾、鬱陶しいね。」
「我は片手ぞ? 押し返せば良かろう。」
「生憎と僕は筋力が無いんだよ。【風の武装】。」
風を纏い、動きを補助する圧力を発生させる。それでも盾を弾くには至らず、アルスィアは一度距離を取る。
「でも、これも僕が慣れるまでだ。なんだか段々と楽になってきたし、それまでに倒せるかい?」
「倒して見せようぞ。」
二人の武器が打ち合い、魔法を撃ち合う。辺りに被害を及ぼしながら、二人の闘いは続く。
……筈だった。
唐突に膨れ上がる地面。空を覆う闇よりも暗い黒。いつの間にか無くなっていた魔獣の声が、不気味な静寂を作り出す。
次に現れたのは、地下より這い出る腕。そしてその高い鼻筋。
「……あれも君達の作戦かい?」
「馬鹿な……我が何もせぬうちに、意識を持つ筈が……」
黒い、黒い体躯。九本の尾が大地を割り、巨大な爪が空を裂く。
目の前の悪夢が囁きかける。俺は誰のモノでも無いと、お前達こそが俺のモノだと。いや、それさえも幻聴かも知れない。
全てが、影に覆われていく……
「あれ……は……」
「は、ハハッ。手遅れだったなぁ。そこにいたんだ……」
「「「マモンっ……!!!」」」