第六十四話
「帰ってこねぇ……」
夜まで宿で待機していたが、ベルゴが帰って来る気配が無い。二日間帰っていない事になる。
「流石におかしくないか?」
「なんでそれを僕に言うの?」
「マカが俺の部屋にいるから、かな?」
ちなみにマカは現在逃げてきている。風呂なんて高級品が宿にあるわけもなく、水を持ち込んで体を拭くのが一般的だ。流石に居座るわけにもいかず、ソルの部屋に避難である。
「食堂に行けば良かった……」
「なんで今日はここなんだ?」
「食堂だと賭けを始めてて、居心地悪くってさぁ。」
「賭け……カローズとアジスのか?」
「そうなんだよ。損したくも無いけど、カローズも仲悪い訳でも無いしさ。」
アジスが勝つのは確定なのか、とソルが苦笑。カローズも対人戦ならかなりのものだと思ったが、ソルの近接戦闘は獣人からすれば低い部類なのだろう。
「ん? て言うかどこでやるんだよ。」
「さぁ? ここの裏じゃない?」
「流石にそこまでのスペース無いだろ……」
「じゃあ、練兵場貸して貰うのかも。」
そんな事を二人が話していると、ソルの腹が空腹を訴えかけてきた。それなりに大きな音に、二人の会話はピタリと止まる。
「……どっか食いに行くか。」
「そうだな、僕もそろそろ限界。二人は待つかい?」
「そろそろ出てくるか? なら待っとくか。」
暇になったソルが魔方陣を書き始めて少し。扉を叩く音が聞こえ、ソルは紙を片付けた。
マカが開ければ、そこに立っていたのは予想を裏切る者だった。
「ボ、ボス!?」
「朝早くから、すまないな。少し時間を貰えるか?」
ソルが良いと言うと、ラダムは部屋に入る。二人の向かいに座ると、すぐにラダムは口を開いた。
「昨晩、報告が届いてな。誰もいない家屋の一つが倒壊したと。知っているか?」
「あぁ、というか多分、俺がやった奴だ。」
「そうか……それでだな、そこから明らかに致死量を超える血痕が見つかったのだ。しかし、死体が見つからない。」
「それが、どうしたんですか?」
「分からぬか、マカ。誰かが持ち出したにしろ、その者が生きていたにしろ、明らかに人間業では無い。」
その隻眼を閉じたラダムの眉間には、深い皺が寄っている。
「率直に言おう。悪魔の仕業だと断定した教会が、狂信者の一斉粛清から悪魔狩りへと切り替えた。彼等は何故か悪魔の位置を把握している。今日中にもここへ来るだろう。」
その情報はつい先日、協定を結んだ王国に対する明確な妨害だった。
「……それ、俺に教えて良いのか?」
「俺の立場を考えるなら、駄目だ。しかし、恩も返さぬ内からこれを黙っている事は……俺には出来ん。」
「ありがとう。それならここじゃ無い方が良いな……」
マモンの残滓を破壊できていない為、まだこの国を離れるわけにはいかない。
巨大な軍隊と経験を積んだ歴史ある大国より、恨まれているだろう怒り狂った原罪の悪魔一人の方が、遥かに恐ろしいからだ。
少なくとも魔法以外に秀でた所の薄いソルが、マモンとやりあうのは二度と御免である。完全復活していれば、【反射遊星】が【強欲】を跳ね返せるかも怪しいと言うのに。
「取り敢えず、見つかっても逃げ切れる場所にいることにするよ。ベルゴ見つけたら教えてくれ、毎晩遅くには裏に顔を出すからさ。」
「分かった。気を付けろ、ソル殿。悪魔狩りが始まったと言うことは、他の悪魔や魔人も隠れやすい所に来るだろう。」
「あぁ、うっかり全部の手柄を奪わないように気を付けるよ。」
「ふっ、そうだな。そうしてくれ。」
荷物をまとめて、チェックアウトするソル。マカにシラルーナへの伝言を頼み、取り敢えず一連の捜索が収まるまで身を隠す事にした。
「あぁ、鬱陶しい。なんでこんなに来るのさ?」
怪しく光る妖刀を、影の中で強く薙ぐ。その先から赤い飛沫が飛んだ。暗い廃屋の壁に、僅かな彩りがもたらされた。
黒い外套を羽織ったアルスィアは、その紅い瞳と黒い髪を影に混ぜながら歩く。気付いた時には既に後ろ。何処からか現れた黒い鎖は、体の自由を奪っている。
「君にしよう。まずは光と永遠にお別れするんだ。」
彼がその大太刀を横に振り、一人の兵士の目を通る。傷は一切無く、瞳孔も正常だ。しかし、熟練の兵士さえ腰を抜かす様な暗闇が彼を襲う。痛みの一つも無いのが逆に恐ろしい。
怯える兵士の首に、ヒタリと冷たい刃が添えられる。ヒュッと息を飲む音が聞こえ、それが自分の物だと気づくのさえも遅れる。
「最後の一人だからね。永遠に尽きない絶望に招待してあげよう。最近気付いたんだ、全部よりも少し残すぐらいが、壊れなくて良いってね。」
彼の蹴り転がした物、いや者は幼い声で叫んでいる。「よくも、よくもリツを!」、と。しかし、今の兵士にはそれの意味を解する事も難しかった。
「次は味覚だ。それと聴覚。君には……あぁ、処分品の部屋にでもいてもらおう。壊れた後は呻かれても煩いし、処理してるんだ。人間の体も知れば知るほど治しやすいしね。」
何の事かも分からない。しかし、彼はそれを最後に男の言葉さえ聞こえなくなった。
アルスィアは兵士を担ぎ上げ、奥の部屋に放り込む。少しばかり風を吹かせて換気もした。
しかし、漂う死臭と、温かい物も混じる肉の感触を、兵士は残された感覚一杯に味わう事に変わりはない。
「ん? 恐怖が先に来てるのかなぁ。はぁ、とっとと絶望してくれないかな。」
足りない。まだ足りない。アルスィアの頭はそればかり廻る。
いや、地下室があれば臭わなくて良い、位は考えていた。つまるところ、彼にとって目の前の自作の地獄は、その程度の物でしか無いと言うことである。
「やっぱりマモンの残滓。本当にあるなら、あれが欲しいな。しょうがない、探しに行くとしますか……」
悪魔の頃の彼なら絶対に考えないだろう、現状を打破する前向きな考えだったが、彼がそれに気づくことは無かった。
地下室を繋ぐ通路から、別の隠れ家へ。魔人である彼女に、狂信者の隠れ家以外に居場所は無い。そして先日の一斉粛清によってそれらの居場所は全て割れている。
(朝から走り通し……そろそろ辛い。)
息が上がっているのも自覚がある。しかし、地下室の存在はバレていない物も多く、利用しない手はない。必然に階段も多くなる。
(なんで人間達が急に……今までの比じゃ無いくらい、私を狙ってる。何で居場所が分かるんだろう。)
目の前に階段が見え始めて、拒絶の魔人は辺りを照らしていた光球を消す。自分の魔法以外の光は目が痛むので、黒い外套のフードを目深に被り上っていく。
(いつまで逃げ続ければ……全て無くなってしまえば良いのに。)
その名に恥じぬ拒絶感を抱きながら、拒絶の魔人は扉を開けて裏路地へ飛び出した。人は居ない。それを確認して、へたり込むように座る。
息を整えるのに、少しかかる。その間にマモンの残滓が、このやりきれない自分を変える希望がどうなるかを考えると、心は一切休まらない。
「居たぞ!」
「大司教様の言うとおりだ。」
「大司教様は?」
「大物捕りだとよ。お前ら、相手は悪魔の新兵器らしい。気を引き締めろ!」
付近に隠れ家も無く、裏路地の複雑な地形も彼等は把握しているだろう。
一方の此方はと言えば、体力が尽きかけている。最悪のタイミングだった。
「【輝く光】!」
「ぐっ!? 目が!」
「くそっ、せめて此方に通すな! 広がれ!」
見えない筈の彼等の動きは、少しバラバラではあるものの道を塞ぐ目的を十二分に果たす物だった。
無論、そこに飛び込む訳にもいかず、反対に拒絶の魔人は駆け出す。
(何で、私が、こんな目に!)
走っても追い付かれるのが関の山。捕まれば……アスモデウスの部屋にいた頃の記憶が、彼女の脳裏を掠めて消える。
(あんなのは二度と嫌だ。それなら……)
地下室の存在がバレるかも知れないが、やむを得ない。家屋にとって返した彼女は、すぐに地下室に戻る。一縷の望みをかけて、簡単にだが、隠し扉を隠すのも忘れない。
「【照らす光】。」
光球を浮かべ道を確かめる。あの長い道を再び折り返すことに、軽く絶望さえ覚えた。
(それでも……私は力を手に入れる。)
この王都の何処かにあるマモンの残滓を手に入れてみせる。強く決意した拒絶の魔人は、一先ずは逃げることに専念する。こんな時こそ力があれば……と望みながら。
酷い臭いが鼻をつき、咳き込む。その音さえ無駄に反響する。
「あ~もう。風が吹くからこっちが外なのは分かるのに……大人しくあの二人に着いていけば……いや、片方は偽善の悪夢だったか。」
鍾乳洞を進むベルゴが、ぶつぶつとぼやきながら進む。面倒くさいといくら呟いても、鍾乳洞を抜けられる訳でも無いが。
「だぁっ! 俺はだらけて甘いもの食べたいだけなのに、何でこうなるよ! ……よく考えたら俺が鍾乳洞入ったからだわ。」
まっすぐ帰っておけば良かった、いや道分からないわ。
そんな風に延々と自問自答の様な事をしながら歩くベルゴ。その足取りは少し鈍く、相当な疲労が溜まっていることが分かる。
「なんか、お前を拾ってからだぞ。不幸の結晶かなにか?」
手の中で弄ぶのは、黒い魔力が漂う宝石。マモンの残滓である。
「……ん? 行き止まり? マジで? 今から引き返せって?」
叩く壁は鍾乳石の塊だ。その向こうから風は感じるが、光は見えない。つまり外ではない。
「……ふっふっふっ。俺をあまり嘗めるなよ。面倒だからな、このまま進みきってやる!」
そう彼が宣言した瞬間、鍾乳洞内が黒に包まれた。




