第三十九話
迷い。強い力を持った者は、きっと等しくそれを抱く。
戸惑い。夢から覚めたら、それは急に襲ってくる。
「……とはいえ、私は変わらないのだがな。」
『あん?どうした、ファティス。』
金銀に埋もれながら、ご満悦のマモンが彼に問いかけてくる。
悪魔の契約。悪魔が自身共々、此方の魂に呪いをかけて願いの代わりに代償を持っていくと言うものだ。一度願い、呪いを受け入れてしまえば、魂に刻まれた代償からは死んでも逃れられない。
我ながら恐ろしい事をしてしまったものだ、とファティスは一人溜め息を吐く。しかし後悔は無い。何故アスモデウスが彼を手放したか分からないが、マモンはまだ此方にいる。この国の実権を握る為に諦めるわけにはいかない。利用できるなら悪魔さえ使ってやる。
「……問題無い。マモン、これからも私に協力してくれるな?」
『あぁ? ……そうか、アスモデウスはもう此所に用はねぇんだな。まぁ、強欲な魔力と、依代と、金銀財宝を全部揃えられんのは、てめぇ位だからな。俺は離れてやらないぜ?』
「代償とは別にそれだけ要求するのだから、本当に強欲な事だ。」
『国を望むあんたが言うかぁ? まぁ、その後に国中の財宝をくれれば構わねぇけどな。凄い天才も忘れんなよ?』
「全て盗られても、国は私が動かすさ。」
一商人とは思えない言葉を最後に、ファティスは屋敷を離れた。既に狂信者達とは袂を別つ彼に相応しい場所は、別にある……
「だから、腕だけで振るなって言ってんだ! さっき言った足の幅を考えろ、ソル!」
「足? っと、こうか?」
「いや、伸ばしきってちゃ力が入らないだろ。」
本部の庭で、朝から木剣を振るう音がする。風を切る音は耳に心地よく届く。
「……おいソル。一回魔術を止めてみろ。」
「はっ? いや、無理だろ。」
「飛翔」によって勢いよく振られていた木剣。それを持つソルの背丈に迫る大きなそれは、相応の重量がある。ソルは体力には自信があるが、力はお世辞にもあるとは言えない。
しかし、最悪手を離したとしても振れる剣で、一体どうやって力の入れ方を学ぶのか。それが出来なければ狙いをつけるのも難しい。
「はぁ、じゃあこっちの短ぇのに持ち変えろ。魔術無しで、そうだな……あの人形折れるまでは、力の加えかたの練習だな。」
「あの人形? ……出来んの?」
「材質はそれより弱い、使い捨ての人形だ。出来る。」
示された人形の材質は確かにそうだろう。だが、その太さは木剣の倍はある。まぁ、出来ると言われればやるしか無い。ソルは魔術無しで剣を素振りした。
「……誰に教わったんだよ、その剣を。」
「誰にも。随分前に見た、見よう見まねだな。」
魔獣の怪我を見るに、タイミングや狙いはいいソルの剣。何故本人の動きだけあんなにアンバランスなのか疑問に感じたミフォロスの問に、ソルは簡単に答えた。
ソルが剣を振るとき、脳裏に浮かぶのは炎と悲鳴と広い背中。片刃の剣を使うのは、きっとその背を追いかけたからだ。
「そりゃ、剣士じゃ無いだろ? でなきゃお前がよっぽど下手かだな。」
「猟師だったよ。最後の獲物は鹿……だったかな?」
「……そうか。まぁ良い。人形折れたら言いに来い。得物も、俺とはそこまでサイズが違うんじゃ、さっき教えた以上の助言は出来ねえからな。」
「さっきって、どれ?」
「最初から全部だ。」
「多い……」
まずは体力からだな、と呟きながらミフォロスは本部の中に入っていく。裏手から通じるこの庭は、もっぱら演習場の様な物らしく色々な人が打ち合っていた。
もっとも、彼等の多くは対人戦に特化している。魔獣狩りの傭兵は、多くがここから東の街、今は焼け跡になった場所に出向いていたからだ。魔獣が山羊の大量発生だったため、アスモデウスが絡んでいると言われている。
「でも、確かに魔術に頼ってたら確実にマモンには勝てないよな。アラストールも魔法じゃ相性悪いし……」
【具現結晶】の結晶は、ソルがそうしない限り壊れることはない。ただし、形を保持する強度や、魔力自体に干渉されない限り。
前者は嫉妬の悪魔であるレヴィアタン以外警戒しなくてもいいが、魔力に干渉されないのは悪魔を相手にする上で厳しい。悪魔の天敵は唯一、悪魔なのだ。魔術のせいでそれも変わりかけているが。
「よしっ! はぁっ!」
ソルの気合いを入れた太刀筋は、人形を打ち据えて大きく跳ね返った。
そんな日々を過ごして数日。ミフォロスが組む訓練で、驚異的な速度で体力を付けたソルは、跳ね返されることは無くなっていた。魔人の回復力が筋肉の成長にも影響したか、ミフォロスが途中からその特異性に気付き過酷さを増したからか。
しかし、そんな事はどうでも良いと言えるような事がソルに降りかかってきた。
「ふえはほんへる?」
「飲み込んで喋れ。」
「っん。上が呼んでる?」
「あぁ、そうだ。あの蠍型の報告書が領主の目に止まってな。パーティの中でも勝手にリーダーにされた俺と、異色なお前が呼ばれたらしい。」
「その報告書って……」
「書いたのはトクスだ。くそっ! 貧乏クジ引かせやがった!」
「やっぱり……」
魔獣の素材は市場を大きく動かし、魔獣の出現は人の流れを変える。
経営にも関わるため、中型以上の出現から討伐は衛兵に報告する義務がある。変異種の大型ともなれば領主まで届くと言うわけだ。
因みに、大御所と繋がりの出来る事で、不安定な傭兵にとって喜ばしいことだ。上手く行けば衛兵として雇って貰えるか、領地専属の魔獣狩人として給料が発生する。出世コースだ。
しかし……
「確か、エーリシの領主って。」
「あぁ、こいつだ。」
ミフォロスの出したのはこの街の資料。今は新しく作られたものが流通しているが、そちらでは無く観光の様なノリで書かれた移住募集表である。
つまり、ずれているのだ。移動が大変なこの世の中で、遠い街に行くのに観光気分。そんなの、一部の上流層の人間であり、そんな人物はわざわざ足掛かりの無い他所の地に行かない。
「……行かなきゃ行けないか?」
「傭兵は噂一つで仕事失うぞ。」
「あぁ、なんで傭兵になったよ、俺!」
「傭兵として仕事したの一回だろ、お前。俺の方がダメージデカイわ。」
アナトレー連合国のトップは数人いる。それぞれが各地の主要な街におり、そこを中心に領地を治めている。エーリシの領主は変わり種で有名だ。正確に言うと、エーリシは商業都市であり、主要な街とは既に焼けた跡なのだが。
「お二人さん、朝から辛気臭ぇ面晒してんな。」
「いらっしゃいま……衛兵呼ぶわよ?」
扉を開けて入ってきた人影に、リティスが包丁を向ける。人影、クレフがすぐに手を上げて敵意が無いことを示した。足を蹴られたことが随分応えたらしい。
「待て待て、盗賊は卒業だって言ったろ。そっちの旦那が恵んでくれたんだからな。」
「一応報酬のつもりなんだがな。同じ輩のお得意様だろ?」
「ありゃ、バレてたか。」
「お前らの犯罪を揉み消すのも頼んだろ。それに掛かりっきりで居なくなったもんだから、こちとら商売上がったりだ。」
「金積んだら出来るってのがすげぇや。恨みはねぇように気を付けちゃいたが、金だけなら結構盗ったからな。」
どっかりと座るクレフが、料理を注文すると、渋々リティスが聞きに来る。
ミフォロスもソルも構わないといった様子で話しているから、客として認めたのだろう。
「一番高ぇの頼むぜ、姉ちゃん。」
「っ! 畏まりぃ~。」
「「あっ……」」
途端に上機嫌になったリティスに、どうだと言わんばかりの顔を見せるクレフ。顔を見合わせた二人が、首を振った。
怪訝な顔をするクレフに、ソルが尋ねる。
「それで、何のようだったんだ?」
「あぁ、近頃面白い噂を聞いたから耳に入れておこうと思ってな。」
「面白い噂?」
身を乗り出したミフォロスに、クレフがニヤリと笑い続ける。
「あぁ、そいつが驚きでな。なんと、ケントロン王国に獣人の団体様が来るってよ。」
「はぁ!? あんなのが今頃何のようだ!」
「落ち着けって。」
声を荒げるミフォロスに、ソルが首をかしげる。ソルを獣人と疑っていた割には、ミフォロスの当たりが柔らかい物だったから、てっきり彼は獣人に対する恨みは無いと思っていたのだ。
「ミフォロスは獣人に恨みがあったのか?」
「あん? 大人共にはな。いや、今は五十や六十の爺連中だな。」
「三十年前の悪魔の呪い事件か? 俺が赤子の頃だから、良く知らねえが。」
「俺だってそうだが、そっちじゃねえよ。その結果、獣人になった奴等が数年間で襲った国に、俺の故郷が有ったんだ。そういう奴等も多い。」
悪魔の呪い事件。
今は無き南の国が、魔界への進軍に成功。そこで強いマナ濃度によって、理性無き魔獣、獣人に堕ちた彼等が周辺の国々を滅ぼした。更に悪魔の進軍さえも始まった時期が重なり、獣人を良く思わない人間が圧倒的に多いのだ。
いつ理性を失うのかも分からない、あまりにも変わり果てた人間は、既に魔獣と同一視する事も多い。人間として恨んでいるミフォロスも少数派だ。
「んで、なんで獣人が王国に?」
「何でも魔界の拡大に共に備えようって事らしいぜ。ケントロン王国は、厳重な警戒の下だが獣人と僅かに貿易がある。良い魔獣素材と、食い物や布なんかを交換してんだな。」
「それで、王国なら話が通るからか。でも、王国って一番魔界から遠い様な……あんまり感心ないんじゃ?」
「そうでも無いぞ。獣人がいるから魔獣被害は少ないが、アナトレー連合国より南に近い。」
ケントロン王国は大陸の中心であり、北に樹海が広がる。アナトレー連合国の南が草原や荒野が広がるため、魔獣被害が多い分アナトレー連合国の方が危機感が高いのは事実だが。
もっとも、悪魔の被害はあるので危機感が無いわけでは無い。
「まぁ、精々狂信者が慌てて動き回る位だろ。俺には遠い所の出来事だな。」
「魔獣じゃ無いしな。それに目の前が大変だし。」
「どれ? ……おぅ、がんばれよ。」
「お前もな。」
手紙を覗き込み同情するクレフだが、ちらりと厨房を見たソルとミフォロスは、平らげた朝食を一ヵ所に置き席をたつ。首をかしげたクレフの前に、とても一般料亭とは思えない豪勢な料理が置かれた。
「はい、お待たせ!」
「……姉ちゃん、これ、いくら? 今小銭しか無いぞ、俺。」
「ざっと八万!」
「何でこんなメニューがあるんだぁ!」
その日の白い翼には、細身の男が働き始めたと噂になった。因みに、扱き使われてももう一度食べたいと思うほどには旨かったと言う。