第二十話
「うぅ、マ、カ。」
宙を舞った赤は、林の中で不釣り合いな色彩を目立たせながら地面を染める。
いつまでも襲ってこない痛みに、ライが顔を上げた。
「だから大人しくしていろと言った筈だ。」
大質量を受け止めた腕が痛々しく垂れ下がり、アジスの声が落ちてくる。大猿は、深く腕に刺さった爪痕に悶絶しているようで今はなにもしてこない。
「アジス様!? 腕……私のせいで。」
「そうだな、あの猿を殺しずらくなった。」
淡々と事実を述べるアジスには、怒りや後悔の色はない。その代わり、ライに向けられたのは期待だった。
「このままでは時間がかかると懸念していた頃だ。ちょうどいい、あれの注意を引き付けられるか?」
「えっ?」
今まで見たことのない魔獣に、ライは視線を向ける。蛇程の恐怖はない。しかし、先程吹き飛ばされたのもあってか、強い威圧を感じた。
「むしろ、引き付けてもらわねば困るのだがな。」
「うっ、やらせていただきます。」
見事に折れ曲がった右腕を持ち上げられて、ライが頷く。そもそもは自分が勝手に行動した結果だと負い目はあったのに、ボスの側で皆を纏めるアジスに怪我を負わせた事でそれは余計に強くなっていた。
「この魔獣だらけの林を一人で走ってくるその度胸に期待している。俺はあの木の上に身を隠す。あそこの下で一瞬でいい、隙を作ってくれ。」
「はっ!」
アジスが後ろの林に飛び込むと同時に、ライが大猿の側に走り出す。さっき打ち払われた痛みは今はあまり感じない。ただ、足が痛むのが少し気にかかる。
「お猿さん、今度は私だよ!」
言葉が通じるか知らないが、煽られているのは伝わった用で大猿が向き直る。既に痛みを感じていないのか、穴の空いた腕も大きく動かして迫ってくる。
「きたきたきたぁ!でも蛇よりは遅いかな。」
マカと二人だったとはいえ、蛇の周りを走り回った経験が生きているようだ。近寄る隙は見いだせない物の、避けるだけならなんとかなりそうだ。
(後はあの木にどうにかして……ボスの、出来るかな。)
四日前に見たボスの蛇との戦い。あの時、蛇もボスも大きく動いてはいなかった。
一撃。一撃だけなら自分でも出来るのではないか。今はそれしか思い付かない。あまり時間をかけてはこちらの体力も精神力も尽きてしまうだろう。
(やるしか、ない!)
アジスの隠れているはずの木の下で反転して身構えるライ。ついに諦めたかと嬉々として突進する大猿はその腕を大きく振るう。
(今!)
大猿の腕だけに集中する。全身のバネを生かして受け流しながら爪を立てる。しかし、重い一撃に逆らう力が働いたのか、両腕を大きく弾かれる。
「ま、だぁ!」
牙を剥いたライが胴に迫る腕に噛みついた。爪をたてられて勢いの弱った腕は、噛みつかれたことでライ一人吹き飛ばせずに停止する。
「ご苦労だった。」
ただ、一言。
上から落ちてきたアジスの牙が大猿の首に食い込む。脊椎を噛み千切る音が響き、大猿が倒れ伏す。
「あんな無茶な足止めをしてよく生き残った。期待以上だ、ライ。」
アジスの声が届くか届かないかのうちに、疲れはてたライは意識を失った。
「新手、か。」
挟まれたラダムに、反撃の力は残っているか。傷が開き、肩まで刺された右腕は動かない。右目を失い小さな傷が無数についた角蛇。けが一つ無いような新手の蛇。
(左腕も……使えるとは言いがたいな。)
何度も硬い鱗に這わせた爪が剥がれかけ、血まみれの指先には感覚がない。目玉を噛み千切った顎も、力を込めすぎたのか頭骨が固すぎたのか、ガクガクだ。足もそろそろ動かすのも辛くなってきた。
(全く、この頃ついてない。)
蛇と争うと新手の蛇に襲われる。しばらく蛇は食べるのも御免だ、とラダムは呟いた。
「さて、最後に遊んでくれるのはどちらだ? それとも、こんな小物に二人がかりか?」
自嘲気味な笑みを浮かべたラダムが、左腕だけで構える。
やりあった角蛇は怒りを抑えて僅かに警戒したが、新手の蛇は躊躇無く飛び込んでいく。既に目の前さえ朦朧としているが、気配で十分だとラダムが牙を剥く。
「いいだろう、最後に喉笛を噛みきってやろう!」
「……無茶が過ぎるだろ。拡散。」
飛び込んだ蛇は、突如鱗の一つが爆ぜて体勢を崩す。ラダムのすぐ横を通りすぎ、角蛇の隣に並んだ蛇が鎌首をもたげる。
「しつこいと思ったら寄り道かよ。妬けちまうぜ? 多段【具現結晶・狙撃】。」
ラダムの横から何十、何百といった結晶が蛇達に刺さっていく。その大多数は弾かれて彼等の周囲に落ちる。
「吸収、っと。マカ、彼がラダム士族長?」
「ボス!」
「……見たいですね。救助してきます。」
「すれ違った一団まで下がっといて。夕方までには戻るから。」
いつの間にか真上を遥かに通りすぎた太陽を示しながらバンダナの少年、ソルが言う。半獣人の少女、シラルーナはしぶしぶといった様子で頷いた。
「ソルさんも怪我人ではあるんですから、無理しちゃダメですよ。」
「分かってる。」
ソルが視線を戻すと、混乱から取り直したか蛇達の視線はソルに注がれている。その瞳は先程までより赤い気がするのは怒りのせいだろうか。
「ソル、後は任せて大丈夫なのか?」
「とっととその人つれて退避! シーナがいても死んじまうぞ!」
「マジか! ボス、しっかり!」
「マカ、か? 何故ここに? 俺は、どうなった?」
「……シーナ、眠らせといた方が良いかもしれないぞ。」
「とりあえず、レギンスに乗って貰うまでは。」
「そっか。まぁ、頼んだ。こっちは上手くやっからさ、【具現結晶・防壁】、そんで回収!」
マカの後を追った蛇の前に、巨大な結晶の壁が出来る。魔力を操りながら後ろに歩いていく三人を見送ってソルが向き直ると、角蛇が壁を壊すのがほぼ同時。
「よう、角蛇。魔力だけはたんまりあるんだ、少し俺とたのしもうぜ?【具現結晶・戦陣】、及び吸収!」
床が、柱が。
剣が、槍が。
僅かな時間だったが、大量の結晶で奪った魔力を使い大規模な聖域が象られた。早速吸収が開始された事に危機感を感じたのか、蛇がソルに突進してくる。
「俺は角蛇に言ったんだけどな。まぁいいさ、【具現結晶・狙撃】。」
直接自身に「飛翔」をかけるのは、怪我をした体では不安なので結晶に乗り宙に浮く。
安全圏から次々と結晶を発射して、牽制しては戦陣から魔力を回収する。
時折こちらに舌を伸ばしてくるが、結晶を空間に固定することで盾にする。角蛇も一瞬で結晶を破壊できるわけでは無いようだ。今のところ順調である。
(これをあと数時間続けて離脱か。日が暮れてきたし、戦陣の吸収もあってあいつらの体温は下がって行くから離脱はいいとして……その後はどうしよう。まず、数時間持つかな?)
ソルの膨大な魔力でも、ここまで惜しげもなく使われてはみるみる目減りしていく。吸収も回収も変換効率が悪くて頼りきる程では無い。
(かといって速く切り上げたり、牽制せずに刺されたら意味ないし。なんかないかな。)
これ以上の高空に行くと蛇達がこちらに興味を示さない恐れもある。かといってこのままではソルの魔力が無くなる。思考力である魔力が切れれば、いくら魔人と言えども人形と変わらない。特にソルの場合は、魔力と回復力以外に目立つ変化など無いのだからエサでしか無いだろう。
(せめてどっちか、どこかに行けばいいんだが……)
その辺りに散らばる結晶や戦陣から回収出来る魔力は減るが、牽制や防御に使う必要が無くなる。少しずつ移動しながらソルが周囲を観察していると、不意に林が騒がしくなる。
「アジス様!なんか微妙に寒いです!」
「出血だ、それよりも跳ぶから捕まれ!」
里の外郭だった場所から、二人の獣人が飛び出してくる。左肩にライを担いだアジスが、蛇達に気づいた瞬間に立ち止まる。
「……最悪だ。」
「それよりもアジス様、あれ……」
「っ! 悪魔か!」
ソルを指差したライに、アジスが歯軋りをして睨む。ソルとしては面倒なとも思ったが、それよりも良い贈り物が後ろから追いかけて来ている。
「そのまま走れ!ボスに会わせてやるよ!」
「誰が悪魔の言うことなど!」
「んじゃ、蛇かそれに食われるか!?」
小さく舌打ちをしたアジスがライを担いだまま走り出す。そちらに乗っている結晶を飛ばしながら、蛇に具現結晶・貫通をありったけぶちこんだソルが二人を結晶に乗せる。
アジス達を引き上げるが早いか、大猿が死に統率の切れた大量の猿型達が、里の跡地に流れ込んで来る。パニックになっているのか、蛇達に襲いかかる魔獣さえいた。
「ってぇ~。流石に重かったか。」
「おい、一体どうするつもりなのか説明はあるか? なければ、」
「爪出すなよ、危ないな。こちとら肋骨いってんだ、黙って結晶に捕まっといてくれ。とばすぞ!」
置き土産とばかりに、回収の終わった里中の結晶を拡散させたソルが結晶を急加速させる。背後では混乱した魔獣達の阿鼻叫喚とした光景が広がる。
噛み砕かれ、呑まれる猿型。鱗を剥がされ、包まれる蛇型。猿型を無視し、ソルに向かおうとするが、他の魔獣に埋もれ、次第に見えなくなる角蛇。
「まぁ、とりあえず助かったよ。ボスの所に連れていこう。」
「お前は何者だ? 悪魔にしては行動が異常だ。」
「異常じゃない悪魔って見たこと無いけど……俺はソル、旅の魔術師だ。」
夕暮れの迫る空の上、結晶は林を後にした。