第67話
街の外、上空にて。結晶の上に安置されたアルスィアから、地表へと数滴血が垂れる。いつの間にか血溜まりになっているそれを苦い顔で見ながら、ソルは傷口を押さえながら血を抜き取っていく。
液体である血液は、力場の魔法で動かすには面で力をかける必要がある。その操作を、血管単位で正確に、同時に行うのはかなり骨が折れる作業であり、集中するソルの額からは、汗が流れ出ている。
「コイツ……いつまで寝てんだよ。流石に脳みそ逝っちまったらダメか?」
固まった血液や広がった内出血を抜き、無事な血液を血管に押し戻し、傷口を癒着するまで押し付ける。一応、ソルの処置が済んだ所から優先して癒着しているので、意識はあるのだろう。
しかし、治ったばかりの脆い血管で、またいつ出血が始まるかとヒヤヒヤしているのも事実だ。そうでなくても、人の肉体機能が完全に停止すれば、復活させるのは困難だ。
脳という組織は代謝がない。つまり、破損すれば治癒しないのだ。悪魔であれば、擬似的に生成してくっつけることは可能だが、どうしても機能はガタ落ちする。ここまで壊すということは、アスモデウスにとっては興味が失せたものだったのか、それとも悪魔である絶望にだけ興味があったのか。
「でも、これでコイツが人の肉体や精神を諦めたら……魔王でも目指すのかね。」
ソルには、魔王の知識はあまりない。だが、その誕生が喜ばしいものでは無いことは分かる。魔王と呼ばれる程に本懐を深めた悪魔など、危険因子でしかないからだ。アルスィアならば、絶望。その感情の行き着く先は、大概は破滅願望だろう。
「う……」
「お、呼吸機能は戻ったか。」
「ごべりらるぎげら?」
「言語機能はイカれてんな……脳みその構造は知らなかったか?」
「ぎがろろれ……面倒だから魔法で伝えるよ。』
「顔が一切動かないの気持ちわりぃんだけど?」
風の魔法を器用に使っているのだろう、聞き取りづらくはあるが先程の支離滅裂なものよりは伝わる。ここまで自由にマナを捕まえられるならば、とりあえず死亡による消滅は免れたらしい。
『まずは色々動かしてみて、麻痺と故障を見つけていくよ。ここまで来れば自力で抑えられるさ、感謝するよ、モナク。』
「治せるのか?」
『さぁ? 脳の細胞って複雑だから。潜んでるアスモデウスの玩具でも解体して、見繕って見るよ。』
「アラストールに焼かれるなよ。」
『それまでには慣れてやるさ。最悪、身体は捨てる。あの悪魔を滅する事ができるなら、可能性を潰す価値はあるね。』
「そうなったら俺がお前を消してやる。」
『面白い冗談だね、出来るなら。』
無表情のまま、座ってない首をガクガクと揺らしながら起き上がるアルスィアは、不気味という他ない。距離を取るソルにもう良いだろうと手を振る彼に、暫くはベルゴとリツを見つけても合わせないようにしようと決める。生理的恐怖に訴えかける今の彼は、子供には刺激が強い。
細かい集中を寝ずに行った事で、かなり疲弊した。街に戻って少し休もうと飛び降りたソルの前に、ヘラヘラと笑う男が立っていた。
「おはよ、ソルくん。よく寝れた?」
「ベルゴ……ちょっと四回くらい殴らせろ。」
「待って待って、君の右腕は人体じゃないんだよ、硬いんだよ、痛いよ!」
「うるせぇ、歯ぁ食いしばれ!」
「嫌だよ!」
即座に街の中へ引っ込み、裏路地へと走っていく。一歩の大きさが段違いだ、身長差を恨みながら、人目が消えた辺りでソルは走るのを止めて飛んだ。
あっという間に追いついた少年に頭をドつかれ、緑髪の青年はかがみ込んだ。頭を抑えている彼に、もう一度だけ追加を食らわせ、魔法でもって壁へと押し付ける。
「で? 言い分は?」
「普通、殴る前に聞かない……?」
「タフォスで逃げたこと、出し惜しみをしてシーナを危険にさせたこと、チラチラとアルスィアを焚き付けてること、このタイミングで出てきやがったこと、全部が釈明できるならしろよ。」
「二発入れた後で!?」
「二つは何言おうと許す気ねぇから。」
「理不尽……」
否定はしてこないベルゴは、ソルのあげた事には心当たりがあるようで。それを一切悪びれていないのが、余計に苛立ちを招いた。
疲労も原因かもしれない、と言い聞かせて握っていた拳を緩めたソルが、ベルゴを下ろす。土埃を軽く叩いた彼が、涙を拭った後に壁にもたれかかって問いかけた。
「さぁて、ソルくん。どこから聞く?」
「弁明か? 情報か? それとも正体?」
「あれ、俺ってばまだ疑われてる?」
「お前が追いついた時、周囲に生き物の気配は無かった。アスモデウスのもんを借りてようが、追いつけるもんじゃない。別の何かがあるだろ。それにタフォスの現状にも詳しかったのも、悪魔が管理してやがったあの街に出入り出来る情報網があったから。テオリューシアの勢力じゃないだろ、こんな東まで来てんの。なんで国内に引きこもってたお前まで届く。」
「いや、まぁ、そう言われちゃうと怪しいんだけど……」
参ったなぁ、と首を振った彼が口をすぼめてボソボソと返す。
「第一、あの街に行くのがおかしいんだよ。」
「ソルくんだって賛成だったじゃない!」
「ここまで来れるなら、自分で塔を確認した方が早いだろ。アスモデウスと契約してるお前が、あの塔で危険か? アイツ以外にじいちゃんのコレクションや本なんて興味無いだろ。」
「ほら、魔獣とか……」
「あれくらいの理性なら、上から抑えて言う事聞かせるその舌があってか? 俺とシーナを街に連れてくのが目的だったろ。何でだよ。」
「そこまで考えてるのに、何でこうなるまで言わないかなぁ……」
「俺に敵対する目的がお前に無かったから。愉快犯ってんなら、もう少しやりやすい奴を選ぶだろ。結果はこうなったけどな。」
疑いと怒りはあれど、敵意や憎悪では無い。理由も聞かずに排する程では無いという判断だ。テオリューシアで過ごした一年も、ベルゴとはかなり顔を合わせていた。
魔人のことも知り、ソルの過去も国内の人間よりは知っている。どこにでも出入りしていて地位や公務もなく、知り合いもほとんど重なっている。気楽で便利な関係性だったのは確かであり、個人的に切り捨てたく無いという思いも……無くはない。
「……ん〜。お兄さんってば罪な男だったりする?」
「殴られたいか?」
「待った待った! 冗談だよ。」
バタバタと手を振る彼は、着いてこいと言うように手を上げる。フラフラと歩き始めたその背中に、眠気を感じている頭を叩きながらソルも着いて歩く。
「一個一個、弁明しよっか。まずは逃げたこと、これは簡単だよ。俺があそこに居ても、大してすることは無かった。それなら、魔法を無効化する彼女を連れ出した方が、遥かに有意義だったしね。それに、アルスィア君とも良好な関係を築きたいんだけど、彼ってすぐに諦める癖があるから、切り捨てられたときの自己防衛っての大事なんだよね。だから、リツちゃんを確保しておきたくて。彼にとって、安全かつ重要な存在って、他に無さそうだったし。」
「それは分かるから良いよ、イラつくけど。」
「だよねぇ、だから最初にしといた。」
カリカリとレンガの壁を引っ掻きながら、裏道を進んでいく。建物の隙間や裏側は、風通しも悪く日が通らず、結果として人気も少ない。
アルスィアなら真っ先に探しそうな所だが、ここにベルゴは潜伏していたのだろうか。
「二つ目は、シラちゃんの事だよね。あれは……なんて言えばいいかな。」
「何を言っても許しはしないけどな。」
「え〜……でもあそこに寄らずに魔界に近づく方が危ないじゃない。あの子、あの後で泣き喚いたり壊れたりしちゃった? しなかったでしょ?」
「……それと何が関係あるんだよ。」
「あのねぇ。ソルくんは人が壊れるところ、見た事無いでしょ。孤独の力で今まで生きてきたもんね。でも、あんなことがあれば人の心は自壊するよ。そうすることで、肉体の死を防ぐんだ。何も理解できなくなっちゃえば、苦しくも死にたくも無くなるからね。」
「だったら尚更……!」
「それを防いでるのは、シラちゃんの心の強さでも君の存在でもない。悪魔の魔法だよ。」
歩くのを止めて、コツコツと壁を叩き始めた彼の言葉に、ソルは静止する。止まった足音に振り返ったベルゴの顔は、影になってよく見えない。
「知ってるかい? 土の特性は許容と不変を司るんだ。悪魔にも、他人に対しての決めつけの感情や、自分に飲み込んでいく欲望が多いだろう? 自罰の悪魔もそうなんだ。自分の罪を、どこまでも飲み込んで行く。それは自力で変わりようのない感情さ。」
「奴の【自縛罪業】が、シーナの心を守ってるって?」
「正確に言うと、罪悪感に仕向けてる、かな。まぁ、他の感情が負けちゃうと石化は進んじゃうんだけどね。」
「魔界に行くならそれが必要だとでも?」
「だってそうでしょ? あのままの彼女なら、感情が動きすぎてる。呪いだろうが枷だろうが、ハメちゃうのが手っ取り早い。」
その言い方にソルが目を紅く染めると、慌てたように手を振った。いつものベルゴだ。
「いやいや、彼女の求めてる事だよ、これ!?」
「シーナが言ったのか?」
「そういう訳じゃないんだけどさ……でも彼女は、すぐにでも、ソルくんの傍で、力になりたい訳でしょ? ならまずは、悪魔に利用されない程度にならないと。その為に手っ取り早いのは、悪魔の力を使うのが一番じゃない?」
「そりゃそうだろうが……やり方がもっと無かったのか?」
「だって、そもそも無理難題でしょ。ただの人間が悪魔に喧嘩売って生き伸びるなんてさ。」
「俺が」
「守れないから、タフォスであぁなったんじゃない。」
「……」
そこに関してはソルのミスだ。結晶を丸ごと消すのではなく、制御権だけ乱されるなんて思わなかった。
「さて、残りは下で話そっか。」
ゴン、と足元の石畳を踏み抜いたベルゴが、手を差し伸べる。何でこんな通路を知っているのか、問いただすことが増えたようだ。