第64話
空気が震え、音にならない振動が鼓膜を揺さぶる。酩酊感が湧き上がり、嘔吐感さえ覚える。
「魔力の流れは感じないな……てことは、生物的特徴か? 特異種じゃないかもな。」
特異種。魔獣がマナを多く取り込んだ末に、魔法に近い力を体得したモノ。その発動には、閉じ込められたマナが漏れ出す程だ。
だが、脅威なのはそれだけでは無い。肉体を変異させるエネルギーこそがマナである以上、特異種は大きく頑健であることが多い。ただの体毛や皮膚が、加工し舐めして重ねた革鎧の如き耐久を誇ることもある。
「そうじゃないなら、叩き落として終わり……ってしたいけど。アルスィアが行ったのにまだ煩いって事は、なんかあるな。」
魔人として生き長らえるには、器である人体の理解と操作が不可欠だ。特に、悪魔が色濃く表に立ったアルスィアは、それが顕著だろう。
可能なのは、悪魔の中でも上澄みな証拠。そんな彼が大きいだけの魔獣に手こずることは考えられない。【切望絶断】は先手必勝、早々にケリが着くタイプの魔法なのだから。
「飛んでもないみたいだから、接近できてないか、魔法を展開できてないか……もしくはやる気が無いか。とりあえず、気づかれるより先に戦陣を広げた方がいいな。」
アスモデウスに破壊されたばかりの門が見え始め、その向こうに暗がりが蠢いている。どうやら、対象は黒いらしい。
大きな耳に、薄く揃った体毛、確かに水かきと形容できそうな皮膚の翼。小さな後ろ足と大きな翼は、物語の飛竜を思わせる。
だが、それをもっと簡潔に表す言葉を、ソルは知っていた。
「コウモリじゃねぇか……! そうか、この辺りは湿度が低いから、ミフォロスは見た事無かったんだな。」
正体は分かったが、だからどうということも無い。魔獣の死骸を食い荒らすそれが、驚異であることに変わりは無いのだから。
視認できたところで即座に結晶を放ち、それを核に戦陣を起動する。燐光に照らされた二人が、此方に気づいたのが僅かに見える……ミフォロスはどうやってここまで来たのだろうか。途中で追いつけると思っていたのだが。
「随分と出遅れたじゃないか、モナク。」
「随分とチンタラ、やってるみたいだったからな。余裕あんのかと。」
「余裕ね、あるよ……あった、かな。」
チラと視線を流した先では、展開した端から消えている戦陣がある。いや、消えているというより、広がっていない。
「俺が手を抜いてるとは、考えないんだな。」
「僕がアレを切り落とせていたら、考えたかもね……アイツの周囲、マナが無いよ。」
「だから離れたとこの戦陣は、ちゃんと広がってる訳か……使い続けてんのか?」
「いや、というより……」
「おい、バカ共! 呑気にくっちゃべってんじゃねぇ!」
振り下ろされる翼を、横薙ぎに頭上を掠めた大剣が迎撃する。髪が少し落とされたアルスィアが、苦い顔をしながら離脱した。
「ミフォロス、酩酊感は生態だと思うぞ。それより、俺達が使い物にならない。」
「はぁ? なんで。」
「簡単に言うと、アイツの周りで魔法が使えない。俺は飛べないし力も出ない。アイツも、移動するのにもある程度つかってるだろうし……何より武器が無くなる。」
「……なら撃退が最優先ってとこだな。」
「理解が早くて助かるよ。次までに対策しとかないとな。」
皮膚を削いで言った物に覚えでもあるのか、傷を確認しているバケモノからは目を逸らさず、二人は現状と目的を確認する。自然、ミフォロスが前衛に周り、ソルは後ろへと下がった。
周囲にマナがない。魔法の展開、維持が出来ないということ。しかし、それは影や風、不定形の特性を持つアルスィアの話だ。
「付与も解けるかもしれないけど、結晶なら……!」
マナというエネルギー。可視化出来るほどの濃度で集められたそれは、魔力によって閉じられている。その魔力を引きつける力を発生させている物がマナ。つまり、互いに「繋ぎ固形化する」力を与えあっているのだ。
魔法そのものへの干渉は論外、一部の固有魔法でしか存在しない。他人の魔力への干渉も、マモンの魔法でも無ければ難しい。解除するには結合力を物理的に上回るか、ソルの魔力以上の力でマナを引き剥がす必要がある。
「流石に獣に負ける気はねぇんだよ、っと!」
繋ぐ前ならば、存在しないマナを集めることなど出来はしない。だが外で繋ぎ、射出した物は残る。その後に付与へと繋げることは不可能だが、巨大な矢が降り注ぐことを考えれば、その効果は十分だ。
突き刺さった結晶に、痛みを覚えた魔獣が叫ぶ。甲高い、石を引っ掻くような不快音。後ろにいたソルとアルスィアでさえ、耳を抑えざるを得ない。前にいたミフォロスなら当然だ。
「ちっ、有効打を与えりゃコレだ。畳み掛けようにも、繋げやしねぇ……!」
脳を揺さぶられるような痛みに、取り落とした大剣を担ぎ直しながら文句を吐く。
もう血が止まっている翼に、再び剣を落とそうと位置取りを変えるミフォロスだが、彼の数歩など目の前のバケモノの半歩にもならない。
「ソル! こいつを止められないか!?」
「やってる! けど……コイツ、結晶を消しやがる!」
暫くは残っていた刺さった結晶も、暫くすれば消えてしまう。その結晶に受けた感覚は、ソルには馴染んだものだった。
「まさか……上書きしてやがる。マナが無い空間を、自分の周囲に付与してるんだ。」
「付与だって? じゃあ、この鳥はマモンの管轄下じゃ無いんだね。見た目は近いのに。」
「コウモリの魔獣なんて聞いた事が無いしな。」
悪魔である二人には、その背後が気になる所ではあるが、そんな事はミフォロスには関係ない。ソルの射出でのフォローを期待して、移動や回転の軸になる後ろ足へ切り込もうと、懐へと潜り込む。
「テメェの腹は死角だろーな、デカブツヤロォ!」
後ろへ流していた大剣を背負いあげ、振り下ろす勢いで頭上の腹を裂く。体毛が飛び、薄い皮膚を貫通し、確かに肉を捉えた感触に、全力で力を込める。
切っ先が赤いものを引きながら地面まで落ち、頭上から叫び声がする。劈くような音に視界が揺れ、脚を切る前に蹴り出された。
「いってぇな……!」
「よく生きてたね、呆れた頑丈さだ。」
「この仕事も長いもんでな。頭が働いて無かろうが、身体が勝手に転げてくれらぁ。」
「え、それ人間……?」
アルスィアの獲物は、そんな事はしなかったらしい。変なものを見るような目が彼から差し出されて、ミフォロスを刺す。
余所見をするなとばかりに裏拳を当てられ、鼻を抑える魔人を蹴飛ばして二人が横へと飛び退く。誰もいなくなった空間へ、巨大な獣が走り込んで壊れた門へと突っ込んだ。
辛うじて原型を保っていたそれは、あっという間に瓦礫の山とかして周囲の建物まで潰す。あれは誰か賠償するのだろうか、と関係の無い事が頭に浮かんだ。
「攻撃してくるってこたぁ、脅威とは思って貰えたみたいだな。あとは引き離しながら、厄介って思って貰えりゃ好都合だ。」
「僕はここに居ても何も出来ないし、奥に引っ込むよ。誰か呼んでくるかい?」
「いや、それより寄越せ。」
アルスィアを結晶で包み込み、吸収を開始したソルに風の刃が飛ぶ。頬を浅く切られたが、その抗議には構わずに小さな戦陣へ魔力を溜め込んで行く。
「何をする気だい?」
「有効打が無いから、ああして残ってんだろ? ミフォロスの剣じゃ、再生の方が間に合うだろうしな。だから、一発デカいの飛ばそうかと。」
「大きな結晶でもぶつければ良いじゃないか。」
「タイミング次第では消されるじゃねぇか。攻撃に使えるくらいの強度と抵抗値のバランス取った上で体積まで増してたら、そこそこ魔力食うんだよ。無駄打ちはゴメンだ。」
魔力の、マナの、熱の、エネルギーの濃度が増していく結晶が、段々とその光を強くする。周囲の無事だった戦陣も統合していき、燃え盛る焚き火のような明るさが辺りを照らし出す。
当然、そんなエネルギーの塊を、マナにより変異した個体が見逃すはずもなく。人間よりも美味い餌だとばかりに駆け込んでくる。
「おいソル、どれくらい欲しい。」
「ジョッキ三つ空にするくらい、だな。」
「お前が傾けてりゃ、朝までかかりそうだな!」
「バカ言え、俺の奢りだよ。」
正面から走り込み、左右に大きく広がった翼腕の間を通る。先程、下に潜られて斬られたばかりの魔獣は警戒し、翼を広げて羽ばたいた。
距離は離れたが、ミフォロスにとっては好都合。薄い皮膜は、他のどの部位よりも切り離しやすく、癒着しにくい切り傷となる。
「落ち……やがれぇ!」
放りあげられた大剣が、離陸直後の魔獣の翼へと届く。下へと羽ばたかれた翼と、上へと投げられた大剣が、互いの推進力のままに交錯し、突き破る。
音とも認識出来ないような甲高い音と共に、バランスを崩した翼手類は地面を擦って墜落する。血と砂の混ざった土埃を上げるそれに、得物が無くなったミフォロスは何も出来ない。大剣の落下地点を探す彼に、怒鳴り声が降る。
「ミフォロスーー!!」
「団長!? なんで、ここに……」
「何度も言わせるじゃねぇ! サブくらい……持ってけや!」
大型と交戦していることを、誰かから聞きつけたのだろう。自身の槍とは別に、大振りのバスタードソードを二本も携えた男が走り込み、得物を突き立てる。
「だぁ! くっそ重てぇ!」
「そんな骨董品もってくんなよ!」
「アホ抜かせ! テメェが後生大事に手入れしてたのも知ってんだよ! 早く使いやがれ!」
二本ともミフォロスに押し付けた彼は、刺した槍を抜こうと試みる。だが、その前に起き上がった魔獣により、手の届かないものになってしまった。
「……ほら、こうなんだろ。」
「いや、アンタのサブは。」
「俺の弓なら折れた。新人の練習用に貸してたんだよ。」
「まさか、あの年代物のボロまだ使ってたのか!?」
「うるせぇ! おら来るぞ!」
後ろへと跳んだ彼の居た場所へ、鋭利な翼爪が落とされる。痛覚は鈍いのか、貫通性を追求した細身の槍では、怯むことも無いらしい。
土埃の中で己の団の一員を探そうとする男の耳に、音にならないような空気の壁が届き、酩酊感と嘔吐感が湧き上がる。
「久しぶりに使うけどよォ……意外に身体は覚えてんだな。」
幅広く、分厚いその剣。常人ならば両手で扱うような剣を片手で振り上げ、切り落とした翼爪をはね上げる。
「相変わらず、バカみてぇな握力してやがる……」
「団長、あと少しすりゃ光の柱が空に上がる。それで終いだからよ、町に知らせに行ってくれよな。ビビって腰抜かすなよってよ。」
「得物が無ぇからって使い走りかよ……ま、好きにしろ。」
両手に持った二本の剣を振り回し、その重さとグリップを再確認したミフォロスが睨みをきかせる。
「拾い上げられた雇われヤローだが、コレでも片翼の一枚だったんだ。テメェはもう……そこから動くなよ。」