第60話
疲弊、焦燥、そんなものを詰め込んだような顔色で、弓弦を手遊びに弾きながら星を見る。
ここ、エーリシの街で門扉に居座る男は、酒を入れて眠気を払い、矢尻の冷たさで酔いと争っていた。微睡みと酩酊の中、僅かに聞こえた土の音に顔を上げ、耳に全神経を集中させる。
「二体か……はぐれだな。」
「トクスさん、どうしますか?」
「俺が飽きて矢をつがえるまでは、お前がやってみろ。いい練習になる。」
「えぇ!? まるで見えないのに……」
「甘ったれんじゃねぇ、夜戦で火でも炊くのかお前は。獣相手に耳使わねぇでどうする。」
それだけ言うと、男……トクスと呼ばれた傭兵は若者の肘や肩を叩いて姿勢を直し続ける。膝立ちで弓を引き、横に構えて狙いを絞る。大弓に分類される得物は、めいっぱいに引いてもその変形は小さく、しかし震える程に力が込められている。
「ダメだな、ありゃ……」
「いつもの短弓にすれば良かったのに。」
「届かねぇと思うがな。まぁ、当たらなければ同じだが。」
ダメだしをする若者の仲間達に、トクスが得物の選択は間違っていないと訂正する。問題は、それを使う技量が無いだけだ。
やはりというべきかなんというべきか、外れた矢が二十を超えた辺りで、トクスが前に出る。
「そろそろ代わり時だ、坊主。まずは筋肉つけるところからだな。」
自身の弓に矢を添え、背中と肩の筋肉で大きく引く。直立し、腕の力を抜いて骨で引く。肩で動かし、肘から矢先までを一直線に構え、左手の人差し指に乗せた矢がピタリと止まる。
風に揺れる髪の音さえ聞こえるような静寂の中で、糸が空を裂く音が響き、甲高い悲鳴が鳴る。
「犬だな、こりゃ。」
「当たった……」
「ま、年季だ年季。無駄に歳食ってる訳でもねぇんだよ。」
もう一匹、と矢を取り出したトクスの視界の端で、ふと何か煌めいた。
「……星か?」
構えたままに上へと視野を向ける彼の前で、光が落下する。キャイン、と断末魔が聞こえ、一つの命が散ったことが暗闇の中でも伝わった。
「トクスさん、あれ……!」
「ハハッ……! こりゃ湿気たツラを拝むのも、今日が最後だなぁ、おい!」
エーリシの街。かつてはエーリシ公国と呼ばれた小国だが、今は商業都市としてアナトレーでもメガーロに匹敵する繁栄を誇る都市だ。
魔獣の闊歩、土地柄による飢饉、悪魔の被害など、様々な要因で滅びていく街や村の中で生き残り、難民の受け入れ先としても機能している。今や最南端となってしまったアナトレーの都市部でもあった。
「って聞いてたもんだから、メガーロとは違った活気でもあんのかと思ってたが……オレの思い違いか?」
「いや、俺が来た時はもっと明るかったよ。今は、なんつーか……」
「シケてるだろ? 坊主。」
街の門で止まっても、ここは夜には開いてない。外でいるのは体に障ると思い、直接に街中へと降り立ったソルの肩を、がっしりと組む男が一人。
「トクスさん?」
「おぅ、久しぶりだな、坊主。ウチのがマモンを呼び出して以来か。便りの一つもよこさねぇたァ、冷たいじゃねぇかよ。」
「伝わってるかと思って。」
「お前の言葉を聞きてぇんだよ、言われたろ? 手隙なら、師匠に挨拶してやれ。」
「あ〜……忘れてた。」
怒ってそうだなぁ〜、と明日の予定を考えるソルの袖を、クイクイとシラルーナが引く。忘れていた。
「えっと、この人はここを拠点にしてる傭兵団の古株で、アラストールの噂を聞いてこっち来た時に世話になったんだ。」
「よせやい……まて、アラストール? なんか物騒な名が聞こえたな坊主? なぁ!?」
「おい魔人サマよぉ、アンタもしかして口足らずか?」
「悪かったな……そんなに関心あると思わなかったんだよ。あの時は黙ってた方がスムーズだったし、今はもう二年くらい前だし。」
雑だ、全てが。しっかり休息は取ったはずだが、まだ疲れてるのかとオルファが額に手を当ててみる。
「熱くはねぇな。」
「喧嘩売られてる?」
「それより坊主、そっちの嬢ちゃん達は何者なんだよ。嫁さんか?」
「だったら連れて歩かねぇよ。妹弟子とその友達。」
「ほぅ、この子が噂の……」
トクスの反応に、どんな話をしていたのだろうとソルに視線を移すシラルーナだが、前にいる彼の顔を伺うのは難しい。
どこまで話しているのかと聞きたいが、しかと見つめられている状況では声を出しにくい。
「んで、こっちの姉ちゃんは? まだ孫や曾孫が生まれるような年月は経ってねぇだろう?」
「オレか? 何の話だよ、そりゃ。」
「耳も尾も見えねぇが、顔立ちが人のそれじゃねぇだろう。その薄着で隠す場所もねぇだろ?」
「……オレは斬り落としただけだ、血が薄い訳じゃねぇ。」
「あぁ、そういう事か……すまんな、職業病みたいなもんで、つい詮索しちまう。詫びと言っちゃなんだが、なんか奢るよ。一杯どうだ?」
「酒か!? なんだよ、話のわかるオッサンじゃねぇの!」
本当にどうやって生きてきたんだ、と呆れるソルに、傭兵の一言が降ってきた。
「気ぃ抜いてるようだがな、この姉ちゃん。手首の裏にキチッと仕込んでるし、俺の関節の逆側に常に持ってるんだぜ。」
「これこそ職業病なんだよ、気ぃ悪くしねぇでくれよ?」
「お互い様だろーよ。坊主、先に行ってるからゆっくり来るといい。アイツもいつもの場所で飲み食いしてらァよ。」
フラフラと二人で歩き始めるが、オルファはまだ酒が入ってはいないはずだが……気分で合わせてるのか、雰囲気で酔えるのか。
「ゆっくりったってなぁ……」
「ソルさん、あの人と何があったんですか?」
「ん? そうだなぁ……俺、小さい集落の生まれでさ、こんな街の社会構造なんて知らねぇし、誰かに引っ付いて学ぼうと思ってさ。傭兵の弟子を狙ったんだけど、課題出されてね。色々あって、その討伐の時に一緒になったんだよ。」
「その色々が気になるんですが!」
「前に話さなかったっけ……?」
そういえば、相手のことは話したけれど、敵対しなかった人に関しては言わなかったかもしれない。テオリューシアの建国祭で東から来た人達と合流した時は、シラルーナはいなかった。
「……あれ、もしかしてシーナも俺の事あんまり知らない?」
「ソルさんが教えてくれないので。」
「あ〜、すまん……別に隠してたつもりは無いんだけど、何となくシーナはなんでも知ってると思ってた。」
「なんですか、それ……」
「なんだろうな、これ。」
ハハ、と笑うソルが、シラルーナの頭巾を取り払って歩き出す。慌てて耳を抑える彼女だが、夜も深い通りは誰もいない。
「この街はさ、あんまり煩く無いんだ。獣人だの狂信者だのってなると少し複雑だけど、魔人や契約者でも表を歩けるくらい。」
「ソルさん、隠してなかったんですか?」
「隠してたさ。けど、「飛翔」も使って動いてたせいで、随分力が強いなってな。半獣人だと思われてたみたいだけど、子供だしって普通に受け入れてくれてたよ。お人好し……というより、利益や味方に聡いんだろうよ。シーナも、夜くらいは気を抜いても大丈夫だろうさ。」
バンダナを外し、右手のグローブも外し、前髪をかき上げて風を受ける。夜風は寒い気候では応えるものだが、新鮮な空気が肌を撫でるのは心地よい。
ずっと頭巾を被っていたシラルーナも、髪を梳く風に目を細める。ソルが気を抜いているのは、少し珍しい。そんな街で浴びる風は、胸がすく思いだ。
「……ここで話を聞いたらさ、あとはアラストールまで直行ってとこ。」
「えぇ、知ってます。」
「正直さ、ちょっと迷ってる。」
「……足手まといですか?」
「そうじゃない。シーナが居てくれたら、助かることも多いと思う。ただ、それは切り捨てる判断ができるならなんだ。南に近づくにつれて、ちょっと怪しい話が増えてるし。」
それは足手まといと言うのでは。表情を暗くする彼女に、ソルは手を引いて歩き出す。街中は石畳で、軽やかな足音が響く。オルファが買ったブーツは、底が硬いものらしい。
「……あの街で。」
「うん。」
「タフォスの街で、両親と別れたんです。七年前、暑くなる前だったので、私が八歳になる頃でした。」
チラと顔を伺うが、ソルは前を見ているだけだった。ただ、特に何を探すという訳でも無く、その視線は動かない。話に集中してくれているらしい。
「私が十分に走り回れるようになった頃に、里を出たんです。お父さんが獣人で、やっぱりよく思われてなかったみたいで。お母さん、気が強かったから、お父さんの事を悪く言われるのが我慢ならなかったみたいで、家出のような形でした。」
「好きだったんだな、旦那さんのこと。」
「えぇ、とっても。一年以上かけて、メガーロを突破しました。あの都市は、アナトレーの南北を分ける意図もあるんですよ? 北の人は南へ、南の人が北へ行くのは、本当は御法度なんです……でも、私とお母さんは、お父さんの家族に会いたくて。頼る宛がそこしか無かった、というのもあったんですけど。」
そこで、彼女は言葉を詰まらせる。何があったのか、想像するのは難くない。そして、数日前に再び訪れ、何があったかも。
「……私、本当は心のどこかで期待してました。お父さんも、お母さんも、助けられるんじゃって。一生懸命、魔術の勉強も頑張ってきました。」
「俺よりも色んなこと知ってるもんな。」
「そこまでじゃ無いです。でも、ちょっとくらい、夢を見れると思ったのに……もう、完全に石でした。あの魔人が半分にしたお父さんは、石に閉じ込められた訳じゃなかった……」
半分にした、の辺りで一つやることが増えたと記憶に刻んだソルが、静かになったシラルーナへと顔を向ける。
足を止めた彼女は俯いていたが、その目を見なくとも潤んでいるのは呼吸で分かった。繋いだ手に力を入れ、その先を待つ。
「みんな、いなくな、っちゃうんです。わた、しのせいで。だから、おししょうさまも、ソルさん、も! オルファさんも、エアルくんやミゼンちゃんも。ライさんやラダムさんも。いなく、なっちゃうんじゃないかって。」
「シーナ。」
「やなんです。みんなと、いっしょに生きたい……! そのためなら、わたしは」
「シーナ!」
強い声。なんだろうと顔を上げた先で、見えたのは大好きな兄弟子の顔。誰かと戦っている時のような、強い眼差し。
「シーナのしたい事は、俺も応援する。でもな、俺がしたい事だから、シーナの事も全力で守る。だから、あんまり自分を投げ出すなよ、俺が危ないことするのヤなんだろ?」
「はい、やです……」
「きっと、シーナが言った皆もそうだよ。これから行く場所は魔界にも近い、ちゃんと心の整理が出来てから、向かう。嘘はつかない、いいな?」
頷いた所までは、緩やかに彼女の記憶に刻まれた。目の奥が痛いくらいに熱く、泣いている事がようやく自覚できたのと、睡魔に負けたのはほとんど同時であった。