第49話
無事な石像と、石像の破片。地面を覆う結晶と蹲る悪魔。その影からワラワラと湧き出るのは、引き伸ばされたような細長い腕。胎児のような未完成な、そして青白く透けているような腕。
石像を握り締め、樹木のように伸びていく幽鬼のような腕は、物質的なものには思えない。
「何してるんだい、すぐに払いなよ。」
「あ、う……でも、これ……」
「なんでもない、触れられなければ少し力が強いだけのスっとろい腕だ! 誤魔化されないでよ、こんな……チンケな魔法にさ!」
動けなくなったシラルーナの代わりに、妖刀の一太刀で近づいていた腕を切り払う。形を大きく失い、動けなくなった腕が地面に落ちる。
魔法による効力も共に失ったのか、ゆっくりと消えていくその腕からは恐怖を感じない。次が近寄る前に、開いた扇に羽を展開し、魔術を展開する。
先の「旋風鳥乱」により、魔力の欠乏も近い。「風刃」の貫通性を考慮し、最少手で道を開こうと試みる。
「ハッハァ! なぁ、そんなモンでオレの魔法が何とかなると思うのかァ? アァ!?」
「相変わらず吠えるのだけは一丁前らしいね、恐怖。」
「消耗した分、休もうと思って寄ったらよォ……お前が居るなんてなぁ絶望。考えることは同じか。」
「君ごときに同じにされるなんて、心外でしか無いよ。」
「ハッ、上等だ。片足のテメェに負けやしねぇ!」
まだ増え続ける【戦々恐々】に加え、墓場一帯を火の手が駆け巡る。迫る熱は、肉体を持たない悪魔にはなんの驚異にもならない。
「自罰ぅ! いつまで寝てんだテメェはよォ! 手足くらい適当に作りやがれ!」
「飛んでる貴様には分からんだろうな、この結晶に魔力を持っていかれては形成も困難だ。」
「はっ、アスモデウスから頂戴した玩具は壊したのかよ。しょうがねぇなぁ!」
結晶の無い地面まで大柄な悪魔を蹴飛ばすと、巨大な魔方陣を描き始める。空中に描かれていくそれは、稚拙で雑なものだが、この大きさならその誤差は発動に影響もしないだろう。
風を纏って跳ぶアルスィアだが、次の瞬間には暴風によって弾き飛ばされる。誰もいなくなった空間に、巨大な炎の渦が出現したのは、そのすぐ後だった。
「相手の手札はよく見てください!」
「見ても分からないから、斬った方が早い。邪魔をしないでくれるかな?」
「今貴方に倒れられると、私が困ります。」
「あ、そう。殺られるつもりなんて、更々無いけどね……!」
上空にいる恐怖の悪魔に向け、風の矢が乱れ飛ぶ。狙いの粗く、広がるソレは回避を困難にしている。迎撃に魔法を使えば、攻撃に回せない。
「テメェ、忙しねぇやつだな! 次から次へとよ!」
「そうでもしないと、手が付けられないくらい増えるからね。君の魔法は雑草よりも生い茂るからさ。」
「言ってろ、ひょろ野郎! いつまで魔力が持つか見物だな!」
次々と火球を振らせながら、周囲の火を広げていく。それを突風で除けながら、アルスィアとシラルーナは結晶の上へと避難した。
熱も魔力もマナも統合していくその結晶の上では、炎は存在を保てない。底冷えする感覚はするものの、この上が安全だ。
「火が回ってるのも新手が来たのも分かってるだろうに、モナクは何してるのさ。」
「出てこられないんだと思います、光の魔法には術式を壊すものも合った筈ですから。」
「そんなのに引っかかってる無能を嘆いてるんだよ。あれがアスモデウスの十八番なのはよく知ってるよ、何度も見たからね。」
聖堂を覆っている結晶は、今なお拡大を続ける一方だ。きっとあれがこじ開けられる頃には、朝日が顔を出す。
「僕らが解放に行くか、それともモナクがあの女を静かにさせて一人で解くのが先か……なんて、悠長なことでも考えてるなら諦めな。」
「じゃあ、どうするんですか?」
苛立ちや焦りを隠さずに問い返すシラルーナに、軽薄な微笑を浮かべた魔人は纏う風を強くしていく。外套とドレスローブが煩いくらい旗めく中で、腰だめに構える妖刀を引き延ばす。
「僕が二柱ともいただく。刻め、【切望絶断】!」
影ではなく風に重ねた魔法が、空気を伝わり当たりを蹂躙する。ソルの結晶も、墓地を焼く炎も、人々を固める石も。
一太刀の元に平等に掻き消された。
魔力の根源そのものを対象とした切断は、魔法と意識を全て刈取る。それは領域にいた悪魔も例外では無い。
「イッテェなぁ……えェ!?」
「ギャーギャー煩いよ、片腕ぐらいでさ。いや、腕だけならいっぱいあったかな?」
「はっ、余裕ぶっこいてられんのも今だけだ。そんだけ贅沢に魔法を使って、テメェが持つのかよ。影の深さはオレより暗くても、総量は遥かに格下だろーがよォ?」
すぐに腕を再生し、【戦々恐々】も喚び始める恐怖の悪魔は、まだまだ余裕がありそうだ。魔力はかなり目減りしており、集中力を欠き始めているアルスィアやシラルーナとは違う。
未だ吹きすさぶ風のおかげで、火に巻かれる心配は無さそうだが。それもアルスィアの魔力を消費してのフィールドだ。
「また我が庭を荒らしおって……絶望、許されると思うなよ。」
「さっきまで転がってた奴が偉そうに……」
手足を再生した自罰が、石化が解け倒れている人々を踏みしめながら渦巻く風の中へと踏み入って来た。全てとは行かずとも、再び多くの人が石化した。アルスィアの斬った意識が戻れば、また自罰の力になるだろう。
「ソルさんの結晶まで斬ってしまって、どうするんですか!」
「君にとっては命綱に思えたかもね、でも僕には邪魔でしょうがないんだよ。これで……ようやく僕の時間だ。」
呟いたアルスィアが闇に溶ける。結晶の燐光も炎の揺らぎも風前に消え、再び夜闇が戻った墓地。影に紛れたアルスィアに、行けない場所は無い。
「自罰! テメェの方だ!」
「後ろか!?」
「残念、下だよ!」
再び両足を落とされ、膝と手で地面へと這いつくばる悪魔を踏みつけ、再び闇に溶ける。同じ影の特性を持つ恐怖の悪魔は察知しているようで、上から斬り掛かるアルスィアの一撃を回避してみせた。
「やっぱり三日月が邪魔だね、新月なら良かったのにさ。」
「ごちゃごちゃと余裕だな! オレも影を使うことを……忘れてんのかァ! 【鎖となる影】!」
縛り付ける為の形状をした影が、翼の影から伸びて消えかけていたアルスィアを捕まえる。舌打ちを一つ零し、短くした妖刀で魔法を切り裂くが、その時間で恐怖の接近を許してしまう。
「やっば……!」
「消耗したテメェになんざ負けねぇよ、【戦々恐々】!」
アルスィアの頭を掴んだ腕から、零距離で魔法を喚ぶ。まるで脱皮するようにヌルリと腕を引き抜き、残った【戦々恐々】がアルスィアを宙にぶら下げた。
鼓動が煩い、鼓膜も頭も痛い、全身の血液が血管を引き裂こうと荒れるのに、底冷えする感覚だけが全身を巡る。呼吸が浅くなり、耳鳴りがし、汗が滲む。
「これでテメェも、オレの物だ。」
「おい、貴様の魔法では死に絶える。我に寄越せ。」
「もうちっと良いだろうが、焦んなよ。」
硬直する魔人から恐怖という感情を味わっているのだろう。何処か恍惚とした恐怖の悪魔だったが、その顔に魔術が飛来する。振れれば切り裂く鳥達が、あっという間に周囲を埋めつくした。
「だぁ! 鬱陶しいんだよ!」
己ごと火球で包み、風の魔術を焼き払った時にふと気づく。目の前の魔人が、居ない。
「ア? どこに……」
「恐怖、向こうだ。聖堂の方だ。」
「あぁ!? くっそ、モナクスタロの奴を解放するつもりか!」
「絶望は複数相手は好まんからな……離脱するより、残滓だけでも回収しようという魂胆なのだろう。」
「あん? なんでアイツらが殺り合わねぇんだよ。」
「我が知ると思うか?」
墓場の土が固まり、脚を創る。その具合を確認しながら、自罰の悪魔は倒れ附したシラルーナを見下ろした。
「昏睡したか。ここまで魔力を消耗しても、すぐに消える訳では無いのは肉体の利点だな。」
「あんだよ、こんなのが欲しいのか?」
「あれば困らない。もう、二度とあのような喪失は御免だ。」
「……孤独か。」
すぐそこにいるらしい悪魔を思い、聖堂に目を向けた瞬間、立派な建物が真っ二つに切り裂かれる。
二柱が構えた瞬間に、結晶の槍が墓地に突き立ち、戦陣を広げていく。飛び立った二柱より僅かに遅れ、鋭い結晶が突き立った。
「おい、デカイ魔法の反応があったろ! あそこにいる悪魔は誰だ!」
「星の魔法を行使したのは、この街の人間だ。」
「人間だぁ? 随分と気に入られてたみてぇだが、足しになるかは怪しいな。」
墓地の土を、岩を巻き上げていく自罰の横で、恐怖は【戦々恐々】を増やしていく。メガーロでは押し込まれたが、掴めば勝ちを得るのは変わらない。
今回は他の悪魔が多い、賭けるには悪くない。
「おい、そんだけボコボコひっくり返して良いのかよ? テメェの庭だろ?」
「あの男が死んだ以上、この土地を肥えさせてやる義理はない。どうせ滅びる集落だ、我が滅ぼしても変わらんだろう。それに、死ぬ人間を飼う趣味は無い。」
「纏めて石にしてなかったのは、そういう理屈か。まぁ、石を掴んでも面白くねぇし、オレとしちゃ助かってたけどな。」
墓地どころか、街にまで広がる地盤の変動を見守りながら、恐怖は足元に広がる結晶で、隔離されつつあるシラルーナを見下ろした。
「あのガキは?」
「石にする。あれだけ魔力と親和性の高い奴は貴重だ、悪魔程ではないが良い贄になる。」
「オレが欲しいって言ったら?」
「奪ってみろ、お前の腕も石になれば、感情も魂も掴みだせんだろうがな。」
「へぇへぇ。まぁ、テメェのコレクションはオレも美味い思いできるしな。」
降りていく自罰を見送りながら、そろそろ来る頃かと魔人を探す恐怖の悪魔だが、光の鎖に縛られる。僅かに星の魔法の気配を感じるそれは、滲む術式だけでも魔法を阻害する。
「大したモンだが……脆いんだよォ! 悪魔舐めてんじゃ……あ?」
引きちぎった恐怖の悪魔の上で、巨大な星が瞬いた。