第48話
揺らいだ姿は、次の瞬間には見えなくなる。影は光の通らない、見えない空間。把握出来ないという事象を体現する魔法は、悪魔と言えど追うことは難しい。
つまり、絶対の奇襲。その上に自罰が取れる防衛手段も、【切望絶断】の前には無力だ。憑代も失った今、すぐの復活は望めない。
慎重な絶望の性格を思い、決定的な隙が出るまで付かず離れずの潜伏を想定する。ならば、隙を晒す前に影を取り払う。この街には光の魔法使いがいる、そこへ行こう。孤独の魔人も同時に相手にすることになるが、手元に人質が居れば楽になる。
「く……小娘、来い!」
「お断りです!」
石像も幾つか壊れ、憑代も消え、力の落ちた自罰は動きが鈍い。シラルーナの魔方陣の展開が間に合うほどに。
開かれた扇に一枚の羽が作られ、風を纏う。扇がれた微風が鋭さを増し、鳥の形となって飛来する。
「この程度で選択肢に加えるつもりか、片腹痛い。」
何羽もの魔術を一度に打ち払い、悪魔は悠然と立ち続ける。続けて放たれるのも同じ魔術、「旋風鳥乱」だ。
「しつこいぞ、いくら相性がよかろうと、焼け石に水だ。」
「それだけじゃ……無い筈です!」
翠色の羽が散り、鳥が舞い、ほんの僅かずつ悪魔の体表を削る。しかし、それがなんだと言うのか。海岸の砂を手で運び切ろうとするような僅かな前進に、希望を見出すとでも言うのだろうか。
「くだらん……あの男はこんな無意味な小娘の為に命を投げ出したとでも?」
「っ……!」
「貴様が来なければ、奴はこの地で律儀に契約を守り続け、安寧と共に生涯に幕を下ろす筈だった。何がしたいのか、何を求めているのか、何が出来るのか。何も無い貴様の為に狂ったようだが。」
冷静に魔術を叩き続ける悪魔だが、塞がる視界と増える鳥たちに苛立ちが募り、魔法を展開する。土の手が盛り上がり、シラルーナを掴んだ直後の事だった。
魔法が弾け、シラルーナが解放される。緑光に埋まる視界では詳細が分からず、何事かと強めに腕を振り払えば、硝子の割れるような音。空気で作られた鳥では無い、何かを砕いた音。
「ぐっ……う、動けん!? これは……!」
「モナクの魔法か、良い選択肢だ。」
「ぜつ……!」
「アルスィアだ、三度目は無い。【切望絶断】!」
深く、深く切り裂いた影が魔力を引き、散らす。返す刀で腕と翼を切り落とし、顔を蹴って離脱する。
「僕の片足を潰してくれたよね。だから僕は……君のそこ以外を切り落とす。あとは片足と首、そして……君の命だ。」
「や、やめろ……そうだ、孤独が来ている。あれはお前にとっても脅威では無いか? この庭園の中ならば、我の助力は無視できない物になるだろう。」
「ごめんね、前言を取り消すよ。悪魔に命なんて高尚なものは無いか。」
先に買収済みか、と顔を歪めた自罰が魔法を展開しようとする。しかし、それよりも早く変化が起きた。
空より飛来してきた結晶が自罰を囲むように突き立ち、そこから墓地を侵食していく。透明な輝きに塗り替えられていく光景に、大地から切り離されてなるものかと石柱を乱立させる自罰が、聖堂を睨む。
「何故、場所が分かった。」
だが、それは好都合でもあった。たんまりと魔力を含んだ結晶の燐光は、アルスィアの武器を奪い去る。
「モナクのやつ、風だけで何とかしろって訳?」
「随分と買われているらしいな。」
「死んでも良いって思われてそうだけど、ね!」
振り切った腕から真空の矢が飛び出し、あっという間に悪魔へと到達する。途端に巻き起こる暴力的な旋風に紛れ、アルスィアは付近の石像へと駆け寄った。
手を合わせている老婆の像、姿勢をただし項垂れる老父の像、逃げ惑う子供の像、縋り付く母の像、斧を持つ父の像。次々と隣を駆けては、一刀の元に切り捨てる。
中まで石となったそれは血が垂れることも無く、傍から見ればただの器物破損。しかし、それを眺めていたシラルーナの目が一点を見て、止まった。
「お父……さん?」
歯茎を剥き出しに唸っている、獰猛そのものというような顔つき。見たことの無い表情だが、その姿を見間違う筈が無かった。戻ってくることを、共に生きることを何度も夢見た。
大柄でも小柄でも無く、特徴と言えば片耳が欠けているくらいの、そんな犬の獣人。しかし、シラルーナにとっては世界に一人の人物に他ならない。
「待って……!」
手を伸ばす、声を出す。しかし、獲物の勢力を削ぐ為に動くアルスィアが、そんな声に配慮するはずも無い。
「この辺りはこれで最後かな、【切望絶断】。」
ただの数ある作業の一つ、そんなふうに簡単に幕が下ろされる。己のコレクションを破壊されて敵意を剥き出しにする自罰に、再び風の魔法を投げつけるアルスィアの足元に、両断された石像が転がった。
骨の髄まで石と化したそれは、長く長く己を責め抜いた心の現れ。七年もの監獄が終わり、魔力を発さなくなったそれは悪魔には無価値であり、戦闘の場から乱暴に蹴り出された。
「お父さん……私……」
手が引き攣る、足が重くなる。けれど、心を止めることなど出来はしない。記憶にあるより小さくなった父の顔に触れるが、返ってくるのは冷たく無機質な硬さだった。
いっぱい勉強した、出来ることもいっぱい増えた。先生が出来て、先輩が出来て、友達も出来た。きっと喜んでくれた、戻ることがあったなら。
「私が……ここに来たから……」
「そうだねぇ、君が止められなかったから、っていうのもあるかもね。」
いつの間にか後ろに立っているベルゴの声が降ってくる。見上げたシラルーナの目を、紅い目が覗き込んだ。
「結局、君は誰と共に歩むこともできないって事だよ。誰も助けてくれないし、どれだけ望んでも運命が君から人を離していく。だから、君はお気に入りにされてるんじゃないかい?」
「どういう、意味ですか。」
「俺が言う必要ある?」
スっと指で示すのは、地面に転がった石像。シラルーナの抱きとめる、過去。
紅い目を細め、舌を巻き、彼は言の葉を届ける。
「シラちゃん、わかったでしょ? 君の仲間は居ない、どこにも居ない。白い子はいたかい? 人と獣の間の子は? 力の弱い魔術師は? 『君はね、ずっと「孤独」だ』よ。実はずっと感じてたんじゃない? だから、孤独の魔人も君を傍に置くんだよ、大切にするんだよ。」
「ソルさんは、そんな人じゃ」
「ソルくんはね、でも彼の半分は悪魔だよ? 全部分かってるって言えるのかな。」
「それは……それ、は。」
分かっている、とは言いきれなかった。ソルは自分の過去も傷も、隠そうとする。嫌われたくなくて、そこには踏み入ろうとしなかった。
いや、何度か試しはした。その度に優しく拒否を返された。いっそ怒ってくれたなら諦めも着くのに、そう思うほど。本気にされていないように感じる。ソルには並び立てないのだ、と。
下から見上げるだけで、追いすがるだけで、何を分かったと言えるのか。
「ほら、誰も守ってなんてくれない、隣に立ってくれない、前を歩いてくれない、背中を支えてくれない。君が、自分で、独りで、やらなきゃ。『叛逆の刻』だよ、シラちゃん。さぁ、『立ち上がって……抗うんだ。君が、他でもない君自身が』ね。」
「抗う……私が?」
「そう、君が。君の意思で。君の力で。ほら、『立て』。」
もう身体は動かない筈なのに、もう全て投げ出したい筈なのに。両足で地面を踏みしめ、顔を上げる。
「で? どうするの、シラちゃん。」
「ベルゴさんは、どうするんですか?」
「俺は見守っとくよ。理不尽に立ち向かう叛逆者を、ね。『立ち向かう時だ』よ、シラちゃん。」
べ、と戯けて宣うベルゴの舌で、魔法陣が光っている。どの言葉がそれなのか、考えようとするも頭が回らない。けれど、やらなくてはいけない事は分かる。
扇を開き、要に指を添えて集中する。魔方陣の刻まれた羽を三枚展開し、その全てに存分に魔力を運ぶ。
「飛んで、「旋風鳥乱」!」
仰がれた空気が渦巻き、鳥の形を成す。三つの魔方陣全てが形成していく鳥達は、先とは比べ物にならない数。あっという間に視界を埋め尽くすそれは、父の仇達を等しく襲う。
「まだ立つか、小娘!」
「僕も巻き込んでるよ……わざとか。」
絶望して欲しくて、わざわざ目立つように気にしていた像を斬った。恨まれる自覚はあるが、手っ取り早く力をつけるなら、悪魔の本能に従うのが最適解なのだから。
図体の大きな悪魔を盾にするように転がり込み、反対側からも風の魔法を展開する。至近距離から広がる【蛮勇なる風】が脚を削り、奪い去る。
「あららぁ、ごめんね。片方は残してあげようと思ったのに。」
「ぐ……貴様!」
「まぁ、無様に地面に転がるのもお似合いだよ、石像みたいでさ。」
背中に受け続ける無数の魔術、それもジワジワと悪魔の身体を削っている。目の前の魔人が揺らす刀が、いつ振られるかも分からない。
魔法を展開しようにも、土は結晶の下にあり、魔力もジワジワと吸われている。
「あの女は何をしているのか……!」
「モナクが籠城を始めたら、出るのも入るのも自由じゃない。君はよく知ってるだろうさ?」
「孤独め……いつも、いつも奴が……!」
「今は僕だよ、僕が君の絶望だ。」
振り上げた妖刀は、細い三日月を二つにするよう。消える、そんな数瞬先の未来を確信する。
「さよなら、自罰。数十年先もよろしく。」
魔界で甦ろうとも、記憶と魔力を失おうとも、何度でも回収に来る。そんな宣言に他ならない。
「貴様の獲物は何だ……? 我の協力を拒む意味があるのか。」
「アラストールさ。餌場を作る君は、むしろ邪魔だよ。」
「死ぬ気か……?」
「まさか、生きる為に殺すのさ。」
じゃあね、と呟いたアルスィアが妖刀を振り下ろす。肩から入り、核に到達するその瞬間、アルスィアを強い怖気が襲い、トドメを切り上げて横凪に振る。
肩からゴッソリと落とされた自罰が、バランスを崩して倒れる。それを気にする余裕もなく切り捨てたモノを見つめ、アルスィアは舌打ちをした。
「最悪だ……奴も利用してたのか、ここを……!」
地面に落ちた胎児のような青白い腕。見覚えのあるそれを踏みにじり、アルスィアは振り返る。
「緑髪! リツを連れて街に立てこもれ! どうせ戦る気ないんでしょ!」
「はいはい、リョーカイ!」
「君は牽制くらい協力しなよ、僕が死ぬとリツが可哀想なんだろ?」
シラルーナが頷くより早く、底冷えする恐怖が心臓を鷲掴みにするように湧き上がる。とても目を離し続ける事は出来ない。
振り返ったシラルーナに、広げた手が迫っている。ゆっくりと襲い来るそれが近づく程に、呼吸が浅くなり手足が動かない。気づけば、手足の石化は止まっていた。
「もうこんなに囲まれてるなんて。いつから潜伏してたんだ……恐怖!」