第十一話
薄暗い渓谷が月明かりに照らされる。鈍く反射する赤黒い液体がバケモノの腕の一振りで形を保つのを止めた。
「かはっ、げほっ。」
「生きてイタか。」
地面に落ちるソルは、自身にかけた具現結晶・固定を解くと激しく咳き込んだ。具現結晶・付与で直接のダメージを防ぎ、重ねて硬める事で飲み込んでしまうのを防いだのだ。
しかし、呼吸困難と最初に対処が遅れた分のダメージがその体を蝕んでいた。
(くそっ、不味いな。回復していくとはいえ、直ぐに動けそうにない。魔力も動かせない。この魔法の影響か?)
ソルが起き上がろうともがくのを見て、バケモノは愉悦の笑いを浮かべた。
「やはり、ヤハリお前も失敗作なんダナ!脆イ、脆すギルぞモナクスタロ! 俺にさえ遅れをとルトはな! いや、失敗シテも俺も魔人という事カ!」
「うる、さいな。汚い声で、騒ぐなよ。」
「……お前もそウシてやる。」
バケモノの手に魔法陣が現れる。それは真実不定の形状だ。
「ズレろ、モナクスタロ。」
「一人旅は御免被るね、不断。」
バケモノの魔法よりも早く、ソルの下から結晶があふれ破裂する。その勢いはソルを後ろへ飛ばし、バケモノに結晶を突き刺す結果を呼んだ。
「貴様ァ!」
血を垂らすバケモノの腕が迫り、渓谷に鮮血が舞った。
バケモノとソルの目が見開かれる。
「……シーナぁ!」
ソルの悲鳴が響き渡った。
気付いた時には既に始まっていた。渓谷の下で赤黒い濁流が結晶をすり抜けて行くのが見えた。
今まで、シラルーナにとってソルは無敵の存在だった。マギアレクやソルが何かに負けるといった光景は思い描けなかった。マギアレクは歳である分、弱った所もいくつかあったが、ソルにはそれが無かった。常に傷も見せずにいろんな事を軽々とこなしていた。
だが、今まさにそのソルが呑まれた物はそんな楽観視を許さない存在感があった。あのソルが危険だ。心配はしていてもシラルーナが実感したことのないものだ。
濁流が飛び散り、ソルが地面に落ちる。バケモノが手を伸ばした時にはシラルーナは既に駆け出していた。例え間に合わなくても走らずにはいられなかった。
(私の、私の希望を壊さないで!)
ソルの結晶は無色だ。色の無いものは自分が重なり、嫌いだったシラルーナだがソルの結晶は別だった。圧倒的な強さ。美しいまでの絶対感に、自分を重ねることが出来た。自分のままでいい。少しずつそう思えてきた。
ソルが破裂した結晶で跳ね上がり、後ろへと着地する。その隙にバケモノの突き出す腕がソルに迫っていた。
(届いて!)
伸ばした手はソルを掴み、横に押し退けていた。
「シーナぁ!」『シラルーナ。』
どこかで名前を呼ばれた気がする。落ち着く声だ。
その時シラルーナの胸の中にあったのは、恐怖や痛みではなく、穏やかな安堵と暖かい満足感だった。
唖然としたバケモノがその腕を抜き、後ずさる。
「バカな、何故ソレがこコに? そんな……俺は、どうすればいい?」
うわ言を呟くバケモノに構わず、喪失感に抗いシラルーナに駆け寄るソル。
小柄なシラルーナの体は大きく脇腹が抉れている。もし、ローブが破れるのがあと少し早ければ、その体は上下に別れていただろう。無惨に千切れた真新しいローブは、完璧ではなくても着用者を守っていた。
「【具現結晶・固定】。シーナ、おいシーナ。」
血を結晶化することで止血したソルは、恐る恐るシラルーナを揺する。しかし、返ってくるのは静寂と少し冷たい感覚のみ。
(そうか、返ってこない声ってこんなに虚しいのか。)
「完全に乗っ取り、力を扱うには変に抵抗さレナい白い忌み子が必要なノに!」
(触れたのに暖かくないって、こんなに痛いのか。)
「そうだ、血肉をコの体にずラセバいいんじゃナイか? おい、邪魔だ死に損ナい。」
(あのときよりも強く感じる……これが、「孤独」か。)
「ドケと言ッて……?」
体の感覚が遠退き、体の中で蠢く何かを感じる。ソルはその感覚に身を任せ、バケモノを振り返る。涙の伝う瞳は紅く輝いている。その右目からは、ソルの魔力が吹き出し揺れている。背後に巨大な魔方陣が紡がれ、急速に輝きを増していく。
『【具現結晶・戦陣】。重ねて、吸収。』
壁が、床が、柱が。
剣が、槍が、鎚が。
具現結晶特有の武骨で洗練された結晶で織り成され辺りを覆う。ソルにはその全てが手に取るように把握できた。
「今さラ何を。ソコをドケえ!モナクスタロ!」
『貴様の要望を受ける必要は無い。拡散。』
「っ!?【真実不定】!」
ソルが静かに呟くとそれに呼応した結晶が拡散する。隣を駆け抜けるつもりだった柱と剣が炸裂し、慌てて防ぐバケモノ。しかし、ずれた結晶はその姿を保ち真っ直ぐにバケモノに突き刺さった。
「ぬぐゥっ!? 何故!? 確かに惑ワしタノに!」
『孤独の力を何だと思っている? それ以上分かれぬただ独つの物。』
言いながらも次々と拡散させては、造り上げられる結晶の戦陣。
美しく輝く聖域の様なその場所は、他者に無慈悲な処刑場だ。ソルの意志が戦陣の中を駆け巡る。
地面に刺さった武器たちは宙に浮き上がり、乱舞し、戦陣を造り上げている結晶は拡散し、対象を襲う。
『孤独の悪魔・モナクスタロ。それこそ、最大の最小単位である私だ。』
「フざケるなぁ! 俺は、俺はもット生きテイたいンダ!」
所構わず真実不定を放ち始めるバケモノ。しかし、結晶である戦陣はおろか、真の孤独の力を発揮した具現結晶・付与に守られたソルにさえ、それは通用しない。バケモノの周囲はズレが見えるため、近ければ出力が上がるのだろう。今更な情報だ。
『知らないな。そろそろ不純物は要らないぞ? 【具現結晶・貫通】。』
自らの側の柱から、尖った結晶が先端をバケモノに向けて創られる。しかし、バケモノとの距離は遠く具現結晶・貫通では届かない。
何事か警戒するバケモノだが、次の瞬間には大きく目を開く。尖った結晶が大きく輝きだしたのだ。それに伴い具現結晶・戦陣も縮小していく。
「お前、ソレは俺の魔力か? 何故!?」
『ご明察通りだ。しかし、それだけでは無い。ここには俺の魔力や、周囲の熱やマナなんかのエネルギーもあるぜ。」
右目から揺らめいていた魔力が、徐々に納まっていくソルは結晶に手を添えながら答える。
「じゃあな、不断。正解者にプレゼントだ。」
「や、ヤめロっ!」
「放出。」
吸収によって集めた、結晶に触れていたありとあらゆるエネルギーが具現結晶・貫通から放たれる。一直線に貫いた光線はその跡を焦土と化して、夜空に消えていった。
「少し遅いのう。このまま出ていくのも寂しい物じゃし迎えに行くか?」
「ブルル。」
「これ、暴れるでない! 鬣が顔にかかるじゃろうが。一体何じゃ? 全く……んっ? あれは?」
馬の毛並みを掃除しといたマギアレクが、夜には似つかわしくない明るさに振り返る。そこには天を貫かんばかりの光線が魔界から打ち上げられていた。
「ありゃ、オークションがあった場所じゃな? シラルーナ達に何かあったか? ……全く、年寄りを動かしおって!」
移動に適した魔術をあっという間に連続で展開し、走り出したマギアレク。
「また腰を痛めたらどうするんじゃ!」
口調とは裏腹にその足取りは早く、焦りに満ちていた。
「うん? あれは……何だ?」
「どうされたかな?アラストール殿。」
研究室を出掛けていたアラストールが足を止めて、空を見上げる。少し距離が離れてはいるが、大地を抉り天に消えていく光線が一筋。どれだけの熱量と現象が起こればそうなるのか、強固な魔界の大地を焦土と化している。
「ほう! これは興味深いですね。魔力の形跡が感じられますし、悪魔の仕業ですかな? 新たな名持ち誕生ならばぜひ調べたい。」
「手駒にしたいの間違いだろう、アスモデウス。」
じとりと睨みながらアラストールがいうと、彼は肩をすくめた。
「……しかし、この魔界で悪魔以外にあれを使う必要があるか?」
「小競り合いでしょう? 悪魔同士でいがみ合うこともありますよ。元々悪感情の塊。互いに気に入らなかったのでしょう。それとも、あれが悪魔以外の者の仕業と?」
「……もしくは悪魔と敵対する何かだな。」
アラストールが研究室から出ながら問いかける。
「ここから近い、大きな人間の集まりは?」
「おぉ! 十年ぶりの出撃ですか。進化せし復讐の悪魔、再臨。いい具合に人間が混乱しますねぇ。」
既に我が物として安定した力を振るうチャンスにアラストールは拳を何度か握り、具合を確かめる。試してみたいと感じていた所でもあり、今回の件はちょうどいい。
「では、原罪の二柱に打ち勝ったアラストール様に相応しい街を……此処などどうでしょうかねぇ?」
「お前が邪魔だと言っていた街だな。」
「そうですね。」
「……まぁいい。」
紅蓮の翼を広げ、人類の悪夢が飛び去った。
「……あれはなんだろうね?」
『さぁ、な。よく分からない。』
「魔界から出ているようだが、君でも分からないことがあるんだね。」
『そりゃあるさ。俺も全部知ってる訳でもない。なんせ、放浪してから長かった。』
「せめて旅って言わない?」
黒い外套に身を包み、人物が虚空に話す。後ろを歩く男もまた、全身を覆う外套を旅装束として羽織っている。もっとも旅ではなく拠点を移すため隣街に行くだけだが。
「エミオール殿、目が見えないのでは?あの光の柱が見えるのですか?」
「いや、感じ取れるだけだよ。まぁ僕じゃなくて彼が、だけどね。僕はそのおこぼれを感じているだけ、かな。」
『そう言うことだね。』
「では、今も中に居られるのですな。虚無の悪魔殿は。」
「うん、ずっといるよ。」
『というか聞こえてないだろうけど言わせてよ。俺はケッコー格上の名持ち。名前呼んでよね。―――――ティポタス様ってさ!』




