第38話
目の前で、ありえない方向へ関節が折れ曲がったバケモノが、腐り落ちそうな顎を開く。醜悪に腫れ上がり、肥大したその肉体が腕を上げて拱けば、ドス黒い血液が湧いてでる。
『喰らエ! 【汚染された血】!』
直ぐに魔法を展開しようとするソルだが、身体が思ったように動かない。まるで冷たい水の中で溺れているようだ。
触れた瞬間、その液体が有毒だと理解出来る。魔法を使おうとするが、やはり使えない。動けない、息もできない、体も蝕まれていく。だが、何故か意識ははっきりしている。
『死ね、モナクスタロ。』
腕を振り下ろすバケモノだが、その前に人影が飛び出した。ダメだ、やめろ、そんな事を俺は望んでいない!
「やめろ!」
「煩いよ、モナク。」
「あぁ?」
「うわ、ガラ悪。あと魔法出てるよ、危ないから抑えて。君、まだ制御も出来ないのかい?」
声をかけてきたアルスィアを紅い目で睨み、少しして今の状況を思い出す。足元の結晶を回収し、こんなに鮮明に過去を思い出すなんて、とアルスィアへ視線を戻す。
ヘラヘラとした、軽薄な笑み。見覚えがあった。
「お前……嗜虐か?」
「は? 二度と間違えるなよ。僕はアルスィアだ。」
「いや、そうだけどよ……もしかして自覚無いのか?」
怪訝な顔のソルに、今度はアルスィアが黙る番だ。いつもの戯言や煽りではないのは、顔を見れば分かる。
「自覚って?」
「お前、自分って認識で一括りにしてるけどさ。見目はほとんど人間のそれだろうし、時々嗜虐の奴に切り替わってる時もあるぞ? 絶望の悪魔は、もっと効率的で冷静だったし、笑わなかった。」
「君に何が分かるのさ。」
「混ざりモンが自分を認識するよりは分かるだろうさ。俺ぐらい潜ってりゃ……潜っ、て……」
そういえば、モナクスタロの魔法は引き出せるようになっても、記憶が戻らない。もしかして、ケントロンの時の【唯我独晶】は拒否されていた?
考え込み始めたソルの横で、呻く声が聞こえて視線を落とせば、シラルーナも魘されている。地平線に朝日も見えるし、起こしてもいいかもしれない。どうせ先に起きることが無いようにアルスィアのかけたセーフティだ、能動的には解除出来ないのだろう。
「シーナ、シーナ大丈夫か?」
「うぅ……パパ、ママ……」
「シーナ!」
「っは……ソル様?」
「うん、そうだな〜。起きような〜。」
暫くは寝ぼけているだろうから、彼女はこのまま置いておくとして。寝ているベルゴが魘されているのは、どうでもいいので寝かせておく。
アルスィアの傍で寝ている少女は、安らかな寝息を立てている。彼の外套に涎を垂らしている彼女に、毛皮を被せ直しながらアルスィアが問う。
「君なら、僕の「僕」を確定させる事が出来るかい?」
「俺と交渉するには、お前のカードはもう無いけどな。」
「アラストールは強敵だろ?」
「……何企んでんだ? お前、死ぬかもしれないとこに突っ込む性格じゃ無いだろ。」
「奴が欲しい。」
「絶望しないだろ、アイツ。」
影の悪魔が取り込むには、【強欲】を除けば己の本懐へ相手を染めなければならない。悪魔相手となれば、そもそも感情を抱かない為に侵食する過程が存在する。アラストール相手には無謀だ。
そんなことは、彼も分かってる筈で。ソルの【唯我独晶】だけで命を張る理由にはなりそうに無い。他の企みがあると思うのだが、中々思いつかない。
「僕には僕の思惑があってね。君が居るなら離脱も楽だし? 危なくなるなら逃げ切れるさ。」
「アラストールが邪魔とか、そういう理由があったりするのか?」
「魔王を目指すなら、そうだけどね。今の所は、目指しているのは魔人としての完成だ。」
「今の所、か。」
「成功を祈っててよ、モナク。」
「悪いけどな、自分の事で手一杯。」
彼の言う「完成」とは、きっと本懐を振り切る事。そんなこと、ソルにも出来ていない……ミゼンなら、もしかして、と思うこともあるが。だが、どうすれば良いかなど、欠片も分からない。
アルスィアに【唯我独晶】を使う事は構わない、耐えられるかは彼の問題だ。だが、乗り越えた彼は……強敵になる可能性もある。魔王を目指すとすれば、世界の敵だ。助力は有難いかもしれないが、邪魔になるかもしれないし、信用も出来ない。報酬も断りたい。
「まぁ、何にせよ邪魔だから。来んなよ。」
「一人で勝てるつもりかい?」
「お前がいても変わんねぇだろ。」
「変わったと思えたら、で良いよ。」
「そんなに重要か、それ。お前はお前だろ。」
「君には無いの? 自分が自分じゃない感覚。意識も記憶も自由もあるのに、糸で吊るされた人形みたいになる気持ち。気味が悪い。」
血のにじむ程に拳を握るアルスィアは、自分でも勘づいてはいたらしい。だが、それは彼の主人格が悪魔だから。
ソルにだってそれはある。心が冷えこみ、どうでもいいと思える瞬間。同じ命の筈なのに、敵や魔獣を殺すことに躊躇しない時。むしろ、生かしてはダメだとひりつく時。
「人間はソイツを、癇癪とか衝動って名付けてる。ある程度は減ったり制御できるようになるかもしれないけど……感情が増えるってのは、そういうもんだよ。お前の場合、ろくな感情が育ってないから悪く思えるだけだろ。」
「マシになるなら、変わるでしょ。君が言うなら馴染んでみようかとも思うけど……それが嗜虐心や自責の念ばかりじゃ、やってられない。他の感情が育つにも、人間の心を表にもっと引っ張り出さないと。」
「アラストールに睨まれてまでする事か?」
「どっちみち、アレはいつかは斬らないといけないし。だってアイツ、恩と利益が大分あるはずのアスモデウスにさえ、最近は剣呑だって聞くよ?」
近い将来、僕の驚異にもなる。そう締めくくった彼は、ソルを指さした。
「恨みって言う強い動機のある名持ちの魔人。乗じるには良い船だ。」
「……恨みじゃない、精算と自衛だ。好きにすりゃいいけど、邪魔すんなよ。」
「はいはい。報酬はしっかり考えといてよね。僕の利益は足りない分の上乗せなんだから、さ。」
「なら来んなよ、クソ……」
鬱陶しい、そんな気持ちを隠すこともなく毒づいたソルが、ベルゴを蹴り起こす。荷物と行先に着いて、話し合うようだ。なんだかんだと言いながら、置いていくつもりでは無いらしい。
シラルーナの寝起きを考えれば、逃げきれないと踏んでの事かも知れないが。アルスィアはベルゴから学ぶことがある以上、彼の行き先が次の放浪先になる。おそらく、タフォスの街、とやらになるだろう。
「……それで、なんで君は僕を睨むのさ。」
「分かりませんか?」
「さっきとは別人みたいだね。」
「話を逸らさないでください。」
めんどくさい。まぁ、殺そうとしたし、騙し討ちもしたし、こんな反応も妥当だろうと諦める。実際に彼女を斬った事は無いが、随分と煽ったし魔法で狙ったのも覚えている。
「私は貴方を信用できません。許す気もありません。」
「君程度に許しを乞う事も無いよ。それとも、僕と殺り合うかい?」
「……彼女が、悲しむので。」
「ふぅん? こんな女の子に僕が助けられてるとでも言うのかい? おぉ、怖いね。」
シラルーナに、アルスィアをどうこうする力は無い。それが分かりきっているからこそ、嘲るようにヘラヘラと笑う。その態度に、無力感と悔しさが彼女に伸し掛る。
傍らで丸まっていた少女が動いたのは、そんなタイミングだった、モゾモゾとした後、毛皮を頭まで引き上げて身を起こすリツに、アルスィアが目を向ける。先程までの軽薄さはなりを潜め、ケントロンで対峙した時の落ち着き払ったような雰囲気。
「今日は早起きだね、寒かった?」
「ん〜……かもぉ……」
「なら、もう少しゆっくりすれば良いさ。どうせ、あっちが片付くまでお預けだし。」
向こうで言い争っているらしいソルとベルゴを見やり、彼女の髪を梳く。あまりの態度の違いに、シラルーナがどうすれば良いのか迷う最中、手招きを無視されたベルゴが帰ってきた。
「助けてくれても良いじゃんよ。」
「なんで僕が。というか、魔人相手に馴れ馴れしいよ、君。」
「え? だって君は無意味な面倒は背負わないタイプだろ? 俺を今どーこーする時じゃ無くない?」
「……もう好きにしなよ。」
これ以上の問答はしたくないとばかりに口を閉じるアルスィアに、ソルが声をかける。
「どういうことだよ、お前が同行するって。」
「普通に着いていくだけだよ、同行者として扱われても困る。魔術とやらの事も、君の魔法も、アラストールへの切り札も。引き出せるならこれ以上無い力になるだろ。」
「いつから収集癖なんて開花した?」
「元からだよ、絶望を集めていた絶望の悪魔と、対悪魔の知恵を求める魔人と。何が違うのさ。」
「知るかよ。」
ソルには悪魔の事はよく分からない。確かにここ一年は、「闇の崩壊」や【唯我独晶】の完全な決行と、近いと言われると近い動機で動いてはいたが。それはあくまでも机上の話、安全な上での成り立ちだ。
「まぁまぁ、彼の力だって必要になるかもしれないし?」
「信用ならない。シーナもそうだろ?」
「それは勿論です。でも……」
チラリと彼女が視線を落としたのは、寝ぼけながらアルスィアの膝に甘えている少女。少なくとも快適と言える暮らしではなかった事は、細い手足と汚れとキズの多い衣服を見れば分かる。
アルスィアに、魔人に人間としての暮らしなど、分かるはずもなく。体力の少ない子供がいつまで持つかは、見てわかる程度には不安だった。彼女の逡巡が理解できたソルが少し躊躇った瞬間に、ベルゴが詰めかける。
「それに、今から行く街は危険なんだよ?」
「なんでそんなとこに行くんだよ。」
「必要だからさ。君だって知りたくないかい? 悪魔が集まっている、謎の塔について。その現状を知っている人に、会いに行くんだよ。」
全てを見透かしたような顔で、緑髪の男が笑って見せた。