第34話
暗闇。それは恐ろしい程に、冷たく。一切の妥協を捨て去って。そこに満ちていた。
「成功……かな。」
調整する暇も無く、自分もまとめて呑んでしまったが。彼にはいつもの事である。早々にここを抜ければ良い。
「ん? これ、恐怖も干渉した? ……はぁ、互いに躊躇いの影に囚われた形か。」
恐怖は得意としていなかったので、アルスィアの魔法に便乗したのだろう。互いに不本意だが……抜け出した方が、呆けた相手をやれる。
アルスィアの場合、リツも探す必要があるので、殺す訳にもいかないが……やりようはいくらでもあるだろう。
「とにかく、あれに邪魔されないなら良いや。えと……ここは?」
囚われたのなら簡単にとは行かない。抜ける為には、把握しなくては。周囲を見渡し、自分のどの過去なのかを探る。
暗い牢、石の床、錆の匂い……どうやら、物理的にも囚われた様だ。
「いつの? これ……少なくとも、悪魔の記憶では無いよね。」
それならば、とっくに出ているだろう。ならば、人間の時分の記憶か。虫食いで思い出せないが。
それとも……既にここが、安息の場所なのだろうか。黴の臭いが強い、日の見えないような穴蔵が。
「不思議と落ち着きはするんだよね……」
となれば、ここから出ることが、因縁を断つ事になるのか。シンプルで助かったと、腰を上げて牢を開ける。鍵はかかっていなかった。
軽く見渡しても、やはり気になる物はない。ナイフ、一枚の絵、椅子……
「え? まさかの生活空間?」
そういえば、まともな家屋の記憶は無い。住み処の記憶が、深層意識から掘り起こされたのか。ここまで深く潜れるのは、恐怖の干渉だろう。
せっかくなので、少し物色してみる。彼方も苦戦は間違いないだろうから、少しならば問題ないだろう。
「ナイフ……何本もあるけど、結構使いふるされてるな。うわ、これとか刃が潰れきって……ん~、ナイフもありかも。」
軽く振っていると、意外にしっくりと来る。体は覚えているらしい。投擲してみれば、狙い通り……とはいかずとも、近い位置に刺さった。
「要練習かな……この絵は、人かな? 多分、父親と兄弟だろうけど……」
記憶にない。だが、その顔はしっかりと描かれていた。余程に深くまで潜っているらしい。
射殺しそうな目付きの、女の子の様に整った顔の青年。隣に、もう少し柔和な顔の、一回り以上年下の少年。自分だ、と直感する。そして、二人の頭に手を置き、髪をぐしゃぐしゃにする髭面の男。
「ん……まぁ、いいか。椅子は、特に何かあるわけでも……あったよ。」
足に掘られた溝に、紙が挟まっている。開いても、人の名前と斜線ばかりだ。
「あぁ、これは分かるね。仕事で消した人のリストか……癖を引き継いだらしい。」
僅かに残る記憶に、それはある。暗殺稼業は、どうやら弟が一人で引き継いだらしい。
「僕の兄、か。生きてんのかね。」
記憶には無いため、分かりはしないが。他に目ぼしい物もなく……早々に立ち去るべきだろう。
結局、粗方の未練は既に食い潰していたらしく。作らないと、こんなにも無い物らしい。しいて言えば、この場所をもう一度、訪れたい欲が出たことか。
穴蔵を出て、少し歩くと、影が濃くなってくる。やっと出れると思っていると……声が、聞こえる。泣き声、怒鳴り声、断末魔。
「っ……! 頭が、痛い。なんだよ、これ。」
ガンガンと警鐘を鳴らす。すぐに退け、と本能が言う。随分と勘の良い肉体だが、今は危険に飛び込む事が、脱出の最短ルートである。
そのまま進むと、足に重みがかかる。視線を下ろせば、子供のようだ。
「…………ナンデ、コロスノ?」
上を向いた少年は、溶けた顔から何かをながし、そう問う。ゾッとしたアルスィアが、足を振って突き放せば、それはあっという間に増えた。
「ナンデコロスノ?」「イタイイタイ」「タスケテ」「シニタクナイ」「コワイコワイ」「クライ」「ナンデ?」「イキテ」「ボクハ」「カエセ」「オカアサン」「シニタクナイ」「ナンデコロスノ?」「カエセ」「イタイ」「シニタクナイ」「カエセ」「カエセ」カエセ カエセ カエセ カエセ カエセ カエセ イタイ イタイ イタイ イタイ イタイ イタイ カエセ カエセ カエセ カエセ カエセ イタイ イタイ イタイ イタイ イタイ ナンデ ナンデ ナンデ ナンデ ナンデ ナンデ ナンデ ナンデ ナンデ ナンデ ナンデ ナンデ ナンデ
「シンジャエ。」
シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ シンジャエ
「【苦痛刻む乱気流】!」
増え続ける亡者の残像を、抜き放った妖刀の一振でなぎ払う。死に囲まれた生活は、慣れきったと思っていたが。深層意識では、かなり溜め込んでいたらしい。
吐き気さえ襲う暗闇で、延々と妖刀を振るう。首をはね、頭を割り、胴を薙ぐ。死体を増やし、怨嗟の声を払う。
「煩い! 僕に責任を求めるな! こんな世の中で、殺された程度でしつこいよ!」
生前、彼等がどんな人物だったのか、それは分からない。年端もいかない子供など、殺されて頷ける人物だったのか?
しかし、それで助かる人間がいて、悪魔が利益を得て。それだけなのだ。死に理由は無く、ただの過程、手段。アルスィアは、他の手段を持ち合わせていなかった。けっして善では無いが、悪とも判断は出来ない。恨まれても、アルスィアには何一つ出来る事は無く。ひたすらに妖刀を振るう。
「これが僕の恐れだって? とんだ伏兵だ、まったく。二度と深層意識なんて覗かない……!」
明確に覚えている人物を、また一人また一人と殺し直す。
暗い影の中、そうやって妖刀を振り回してどれ程たったか。気づけば、そうやって湧いていた亡者も、消えて。疲労が訴えかけてくる。
「これ……恐怖はどうなってるのかな……流石に負けて無いよね?」
アルスィアはその特性上、数に弱い。潜伏、必殺、それが彼の闘いかただ。殲滅可能な魔法は消費が大きく、疲労がたまる。短時間でと、勝負を焦ったのが敗因だろう。
そんな彼に、追い討ちが来る。闇が少し晴れたと思えば、目の前に嫌な物が浮かぶ。それは、狐の尾にも見える。
「あ……これ、ヤバイ?」
「来やがったか、絶望。手遅れだぜ?」
高みの見物……というよりは、手一杯の恐怖が此方を見る。復讐のアラストール、その幻影と戯れているからだ。
「ほっとけば死にそう……いや、僕もだけどさ。」
目の前の強欲の悪魔……いや、肉体は獣のそれを見る。幻影らしく、随分と知性を感じられないが……驚異であることに変わりはない。
「っ! リツ!」
その側で俯く少女を見つけ、アルスィアは柄にも無く焦りを見せた。
「そいつの恐怖が、お前の魔法で絶望的な状況として投影されたんだよ!オレ達の恐怖の形でな!」
「はぁ!? つまり君の仕業?」
「餌とって何が悪い! お前の魔法だ!」
叫び返しながら、魔法を次々と放つ恐怖だが、その全てをアラストールは焼き払う。もし十年前なら、あそこにいたのはベルゼブブだったろう。まだマシだったかもしれない。
(【躊躇いの影】が解除出来ない……主導権が、リツに移ってるんだ。かなり特異な状況だけど……要はリツの恐怖を抑えて、影を払えば良い。)
手慣れた魔法の解除は、アルスィアにはすぐに理解できた。その為の障害は……マモンの幻影だ。
動かないのは、まだ自分が誰の驚異かを理解していないから。どうやら、明確に標的があるらしい。それはアラストールの幻影も同様らしい。
(恐怖の魔法……【戦々恐々】の特性かな? ターゲット一人に対してのみ動く。なら、あっちは気にしなくていいや。)
隣の戦場は意識から閉め出し、妖刀を抜き放ったアルスィアは、その身を影に溶かす。
狙うなら、一撃。世界をアルスィアが、障害を恐怖が、その核をリツが。恐怖を斬るには、炎を掻い潜る必要があり、余計なリスクが大きい。ならば、狙うは一つ。
「【切望……絶断】。」
潜り抜けた先に刃を滑らせれば、少女は膝を折って倒れ伏した。
影が晴れていき、辺りが恐怖の影が覆う広場に戻る。どうやら、【故郷に還る影】も、同時に解いてしまったらしい。
「お? 消え」
「【蛮勇なる影】!」
「アグッ!? てめえ……!」
唐突な消失により、出来た隙。それをアルスィアが逃す筈もなく。下半身をごっそりと【切望絶断】をのせた影に削られ、恐怖が呻く。
「【苦痛刻む」
「チッ! あばよ、根暗野郎!」
「あ……逃げられた。怯えるのも早い奴。」
奪い逃した獲物を惜しみつつ、消えていく恐怖の影を眺める。晴れた先にあるのは、死屍累々の光景。白い腕に顔を覆われ、絶命した人々だ。
「恐怖を搾り取る、腕……魂の根幹まで延びてるのかな? 自信家な訳だ。」
掴まれなくて良かったと、一安心し。アルスィアはぐったりとしたリツを抱えて逃げる。ここからが少し面倒なのだ。
人目につかない場所に逃げ込み、影で二人を包み隠し。アルスィアは額を合わせて、同調する。【故郷に還る影】で作った世界に、強引にリツの心象風景を持ってくるのだ。
「さて、君には死んで貰う訳にもいかないし……少しお邪魔するよ。」
そして、彼は影を手繰り……そっと紅い瞳を瞼に隠した。




