第29話
渓谷を抜けるのは簡単だった。いくらか崩れてはいたが、ほとんど球形に無くなった地形は、急な勾配もない。
川が途中で交差したりもしていたが、ブーツが濡れるくらいならすぐに乾かせる。何より虫がいない。
「シーナ、大丈夫だよな?」
「今の所は……というより、【加護】があるのに虫に刺されませんよ。」
受けたソルからすれば、あの毒は致死性が高い。おそらく病原菌に近いとは思うが、有効な薬が分からない以上、過剰でも元を断つ他ない。
「歩いても半日もあれば、抜けられそうだな。これなら村も作れば良いのに。」
「渓谷が崩れたら孤立しますよ?」
「崩れるかなぁ……」
「大丈夫かも、で孤立した人は怒ると思います。」
「あぁ、それはなるな。植物とか育ってきたら、また話は違うんだろうけど……お、抜けたかな?」
終わりが見えた渓谷の向こうは、豊かな草原。薬効のある草花も多く、何より二人には馴染み深い物が多かった。
「あぁ、東側に魔術師が増える訳だ。」
「触媒素材ばかり……なんで。」
「マナが少し濃いめだな。ケントロンの時程は無いけど……天然の湧き場なのかもな。王都の北のも、どっかから持ってきたって言ってたし。」
大きい小さいはあろうが、案外に世界中にあるのかも知れない。これだけ居住可能な地域と近いとは、西の地も捨てた物では無いだろう。
とはいえ、マナが多ければ魔獣も増える。別に、魔界程は極端で無くとも、大きく力の強い野生動物が。魔獣とも呼べないそれでも、人の脅威にはなり得るだろう。
「そのうち此所も侵略できるかね。」
「侵略とは少し違うような気がしますけど。」
「進撃?」
「発展ぐらいにしませんか?」
「はぁ、好きに出来る場所が減る……」
此所まで来たのは、ソルも初めてだが。
そんな風にふざけ合いながら、草原をのんびりと歩く。一面、とは行かないが、かなりの面積を覆う野草を摘みながら。南から来た時と違い、山脈間の距離が長い。王都と渓谷の距離と同じ程、馬車で一~二日をかける距離だ。のんびりと歩けば三日程だろう。
「ここまで来ると、随分と静かと言うか……魔界に近かった塔を思い出すな。」
「山に囲まれてましたし、人は少ないですよね。」
「なんか世界にでも、取り残されたみたいだな……」
「ふふっ、もうソルさんを離さない人、たくさん居るから無理ですよ?」
「……ははっ、それはそれで嫌だな。」
少し思考を巡らせた後、クスリと微笑を漏らしてソルは肩をすくめた。シラルーナがその隣に追い付き、二人が並んで歩く。
それが来たのは、ちょうどそんな折だった。突然、強い雨が思考を乱す様に降りだしたと思えば、ソルの首筋に赤い線が走る。
「っ! 【具現結晶・戦陣】!」
瞬時に展開されたそれは、雨の中でも敵の存在を知覚させる。
「むっ!? 滑るな……」
「誰だ……!」
紅い双眸を閃かせながら振り替えるソルに、返答はナイフで返された。
「ソルさ」
「引っ込んでろ! この雨じゃ無駄だ!」
本を開くシラルーナを強めに突飛ばし、結晶で囲んで隔離する。直後、二人の間を男が駆け抜けていった。
「把握されているか。難儀な相手だな。」
「死ぬか逃げるか、どっちだ? 逃げんなら、腕一本で勘弁してやるよ。」
「首の傷は……致命傷とならないか。君は私と違い、治りが早いのだ。腕一本は大きくないかね?」
「悪魔の契約に、選択や交渉の余地があったか?」
「真似事とは……魔人は皆そうなのか、難儀な連中だ。」
男が水を泳ぐ様に、ソルの元に接近する。彼のナイフはソルの手繰る結晶に弾かれたが、代わりの回し蹴りはソルの側頭部を的確に捉えた。
空中に身を踊らせても、彼の推進は止まらずに駆け抜ける。結晶を滑るように折り返す。
「しつっ……こい!」
流石に行動が追い付いてきたソルが、体制を整えて迎え撃つ。蹴りあげた足は男の腹を捉え……きれてはいない。間に挟まれた手が、ソルの足首を掴む。
「そろそろ」
「ウラァ!」
何か喋りかけた男だが、そのまま「飛翔」で一回転したソルに持ち上げられる。背中から結晶に蹴り落とされたが、受け身を取りすぐに駆け出した。
距離が離れたなら、ソルはやることは決まっている。宙に浮かび、戦陣の中で結晶の演舞を披露する迄だ。
「……届かんか。難儀だな、非常に難儀だ。」
「うるせぇ、潰れろ。」
すかさず男は走り出す。逃げるつもりかと、結晶で道を塞ぐソルだったが、競り出すそれに足をかけ、男は跳ぶ……いや、飛び込んだ。
「っ! シーナ!」
即座に結晶を払い、逃げ道を確保したが遅く。男のナイフは彼女の喉を裂いている。
「まだ息はある。私はヴローヒだ、貴様の名は?」
「失せろ……!」
「交渉の余地は無しかね……断る。君の魔方陣を渡して、帰してもらおうか。でなければ気道まで裂くだけだ。」
「持ってって失せろっ!」
「乱暴な……はぁ、難儀な仕事だ。」
荷をまるごと投げつけられ、ヴローヒは「闇の崩壊」を取り出して去る。それには目もくれず、ソルはシラルーナの容態を確認する。
「シーナ、聞こえるか? ……くそっ、脈が弱い。止血が優先か。」
傷口を傷つけず、かつ再生を阻害しない様に。繊細な作業な上に、あまり慣れているとも言い難い。自分の傷なら雑に処置しても死にはしないが、魔人ではない彼女はそうもいかない。
傷は深いが、動脈には達していないようだ。助かるギリギリのライン。逃走用の基本的な技術、といった所か。この状態のシラルーナを放置して、彼を追う選択肢はソルには無い。
「……意識を失ったのは恐怖、か。内出血とかで、変な影響出ないと良いが。」
血管から外れた血は、【精神の力】で押し戻すか外に出していく。出血が多いのは気がかりだが……魔力を回して身体の生存活動を促すのが精一杯だ。ソルに出来る事は、この場ではこれ以上無い。
「晴れてんじゃねぇよ……」
嵐の如くあまりにも暗い気分で、ソルは空に毒づいた。
目を開けるが、そこに強い光は差し込まない。ぼんやりと照らす月明かりが、二人を闇夜に映し出していた。
傍らで目を閉じていたソルが、僅かな物音に反応して覗き込んだ。
「起きたか、シーナ。おはよう。」
「そ、るさ、ん?」
「喋れるか? 目は? 耳は? 痛みとかあるか? ダルかったり動かない場所とか」
「お、落ち着いて……ここは?」
見渡した場所は、先程の草原とは異なっている。何処かの洞穴の様で、上に開いた穴から漏れる月明かりが取り囲む岩壁を露にしていた。
「流石に動かすのは負担になるから、近くで休める場所をな。ほら、野獣共とやりあい続ける訳にも、いかないからさ。」
「もう夜……私どれくらい寝て……」
「二晩だけだよ……悪かったな、止められなかった。」
「それはソルさんの所為じゃ……私も、魔術を待機しておくべきでした。すいません。」
頭を垂れて、顔の見えないソルにシラルーナは頭を下げる。が、急に起き上がったからか、フラリと目眩をおこした。
「おい!?」
「ごめんなさい、少し貧血みたいで……」
「……はぁ、驚かせないでくれ。頼むから。」
抱き止めたソルが疲れたように息を吐く。よく見れば、その目の下にはうっすらと隈がある。洞穴の中とはいえ、安心して休む心境では無かったのだろう。
「傷、少し残っちまったなぁ……」
「これは……仕方ないですよ。幸い目立つ場所でも無いですし。」
首元、顎に沿うような傷は、結晶で急に塞いだ事もあり治りきらなかった。苦手な魔術を行使したソルの努力が、開かれたシラルーナの魔導書から伺える。
「それよりも、ソルさんは無事だったんで」
「それよりもで済ませるなよ、シーナの婚姻とかに響いたらどうすんだよ。」
「婚……! まだ先の話ですよ!」
「そうでもないだろ。俺に着いてこなかったら、そういう話もおかしく無い年……」
「じゃあ、困ったらソルさんに責任取って貰います。」
「……何でそうなるんだよ。」
「ふふっ、冗談ですよ。それで、ソルさんは無事だったんですか?」
自分の首からソルの手を退けながら、シラルーナは再び問いかける。見たところ傷が無いのは、ソルが魔人であるからだろう。
傷は早く治るが、毒や病を退ける訳では無い。その辺り、ソルはあまり表に出さない。役立とうと着いてきたシラルーナは、ソルの被害を探ろうとした。
「俺自身はなんとも無いよ。」
「……本当は?」
「いや、本当に。」
笑って誤魔化すソルに、シラルーナは指を突きつける。額を押されたソルは、少し驚いた顔を見せた。
「私が彼処から助かるのに、余裕は無かったですよね? そんなに逃げ癖があるようにも、易く倒せそうにも見えませんでしたよ。」
「いや、でも俺も生きてるだろ?」
「条件、ありましたよね。」
「……あったよ、ありました。いつからこんなに可愛げ無くなったかなぁ。」
「ソルさんとテオリューシアに来て、暫く顔を合わせない間にです。」
「……ちょくちょく顔はだしてたろ。」
立ち上がり、二人の荷物を持ってきたソルが、それをシラルーナに渡した。
「被害って程でもない、一つ取られただけだ。」
「一つですか? ……すいません、分からないです。」
「そういや話して無かったっけ? 「闇の崩壊」が仮だけど形になったこと。」
「えっ!? 本当ですか! ……あっ、まさか。」
「それ。まぁ、魔界にも触媒はあるし、最悪【具現結晶】で作ればいいさ。式は覚えてる」
手段は減ったかも知れないが、代用可能な物だ。狂信者と悪魔に手法が渡っても、肉体のあるソル達には致命傷にはならない。
知られた以上、不意打ちは出来ないが……狙ってきた辺り、存在は予測されていただろうから、大きな痛手にはならない。確信されても、防がれなければ意味が無いのだ。
「貴重な物じゃ……」
「ついでに魔界にも寄るからさ。そこで採れば良いよ。」
「そう、ですか……」
「とりあえず動こうぜ。ケントロンの北は、比較すると排他的みたいだし、樹海面積も多い。本格的に冷え込む前に通らないと。」
地図を取り出しながら、ソルはシラルーナに手を差し出す。これが大きな影響を及ばさないと良いと、シラルーナは祈りながら手を取った。
まだ始まったばかりの旅路、不安は多い。しかし、それを乗り越えるなら……まさしく、それが英雄なのだろう。彼女はソルがそうあることを、決して疑いはしなかった。