第9話
「【具現結晶】! ったく、多いんだよ!」
急な雨が視界を妨げる。それでも、羽ばたいて飛ぶわけでないソルは、いささかマシではある。静止できれば、音を確める事が出来るからだ。
狙撃、防壁、武器。結晶は様々な形で、魔獣に襲いかかっては、注意を引く。
「っと、大型にかかったか……大丈夫そうだな。」
振りかぶる爪を懐に潜り込んで避け、そのまま袈裟斬りにしたストラティ。周囲の魔獣も、シラルーナの魔術や兵士の剣が寄せ付けない。
寄ってきても、熊型の攻撃で飛んでいく。他の大型、特に蛇は、雨も相まって低体温に陥っている。動きが鈍い。
「魔獣も漏れてないな。村も……平気か? 静かすぎる気もするけど。」
数十は落ちて、残り百を切っただろう空の魔獣。ソルは定期的に色欲の魔獣を邪魔しながら、少しずつ減らしていく。武装も加護もしているため、怪我は無い。
色欲の魔獣は、鬱陶しいのか、角を震わせるのも止めて、ソルを睨む。その頃にはソルは高くにおさらばだ。
「これはまだ動かねぇのか……? いや、何か既にしてる?」
とはいえ、それを観察する余裕がソルには無い。何をしていても止められないのだ。
ケントロンの時と違い、常に引き付けておかないといけない。休憩も取れず、離れた奴を優先するため、トドメともいかない。
「せめて【戦陣】が展開出来たらな……って、そんな暇無いか!」
離れていく翼に向けて、結晶を放つ。しかし、その結晶は突如として黄色の斑点に覆われた。
全く意識していなかった為、結晶は魔力抵抗を持っていない。そのまま保つ事無く、砕けてしまう。色欲の魔獣を見るが、その意識は今はソルから離れている筈だ。
「バレて、いたか。よもや、魔獣と、間違ったとは、言わんよな?」
「悪魔だったか。せめて翼の色が違えば良いのにな!」
飛べる相手は全て受け持つ手筈だ。それが魔獣でも悪魔でも、ソルには関係ない。原罪や名持ちともなれば、話は別だが。
多数飛ばす結晶は、今度は斑に冒される事なく着弾した。そこから拡散させ、ついでに周囲の魔獣も挑発しておく。
「やはり、格が違うか……魔法の、ぶつけ合いは、不利だな。」
「アルスィアには斬られたけど、お前の魔法は大丈夫みたいだな。魔界に帰れよ。」
「冗談を、言うな。目的を、達せずに、退くなど、愚行。」
「死んでから散々言ってろ。」
ソルが【具現結晶】を展開する。しかし、宙に浮いたその結晶に、魔獣達が襲いかかる。
そして意識の混濁。一瞬だったが、それは確かに感じた。ソルが【牢獄】で自らを覆った直後、魔獣達が一斉に突っ込む。
「くそっ、山羊め。今さらでしゃばんなっての!」
「【冒涜侵食】、蝕め。」
ソルのグローブが黄色の斑点に覆われ、仕込まれた魔方陣が光を失う。
魔術が切れて、ソルは【牢獄】の中で落ちる。再び魔術を展開しようとしたが、強い衝撃が襲い、地面に叩きつけられた。【牢獄】は砕け、ソルは地面を転がった。
「……魔方陣が、魔力を流さない、か。」
「魔法は、唱えさせん。魔術とやらも、使わせん。色欲の魔獣が、マナを揺さぶる。精密な、力場は、使わせない。」
ソルとて、地面に激突はしたくない。飛ぶのは諦める。この状況でソルが飛ぶには、魔術ではなく魔法に頼るしかないからだ。制御が感覚的になる魔法は、空を飛ぶのはまだ難易度が高い。
そして、魔力には限りもある。多少雑でも問題ない魔法を展開するしかない。
「魔力は使いまくるけど、仕方ない。【戦陣】、及び放出!」
吸収のエネルギーは無い分、己の魔力で補う。かなり無茶だが、空の奴が残る方が問題だった。そう、狙いは魔獣だ。
悪魔は絶対に対処せねば不味い。魔獣と鬼ごっこをする時間は、ほんの僅かでも勿体ない。だが、冒涜はそう受け取らなかったようだ。
「……これは、これは。魔力を、優先して、使うのは、魔獣にか? 魔獣以下、とでも? 冒涜である、俺が、冒涜される、とは。」
「テメーは純粋でも無ぇだろ、悪魔が。」
残った空の魔獣は十程度だろうか。戦陣が吸収を開始し、ソルは悪魔に向き直る。
派手に飛ばした幾条もの光線は、ストラティ達にも見えている筈だ。おそらく、ソルが本格的な交戦を始めた事は、伝わっている。残った魔獣くらいはどうにかするだろう。
「人間の、残した、資料は、読ませて、貰った。アスモデウスは、既に、理解している。魔方陣は、俺が、その特性を、踏みにじる。」
「はっ、好きにしろ。」
ソルの右目から魔力が溢れ、双眸はより紅く染まる。
「俺は、最大の最小単位だ。俺の結晶は、決して崩れずお前を穿つ!」
雨はより強さを増して、既に痛いくらいだ。日の光は落ち着き、紅く染まった眼には、僅かな痛みもない。
そこは、家屋の中だった。走馬灯、というのか、その壁は覚えがある。
「……あの子の、家。」
ミゼンには、それを自分の家とは言えなかった。彼女に残っているのは、壁の染みと床の固さ、手放した親の存在だけだ。
裕福では無かった、それも覚えている。拒絶の悪魔の記憶が、魔界を逃げていた記憶しか無いからか、ここの事は他と混ざる事もなくすんなりと思い出せた。
唐突に場面に水が入り込む。伸びる手、冷たい首筋。その中で、悪魔の声が聞こえた。
『これで契約完遂だ。貴様の望みは果たされた。』
そして、女性の声。必死だ、しかし、何と言っているのか、分からない。そして、溺れて意識は遠退き……
「……っ! 【矢となる光】!」
「むっ!? 毒が回りきっていなかったか。」
矢を避けた後悔の腕が離れ、水に覆われた口と鼻は自由になる。湿気を含んだ空気が肺を満たし、目の前が鮮明になる。少し、頭がチカチカした。
後悔は右腕を戻すと、すぐに足下に叩きつける。弾かれた水が飛沫となって、ミゼンに飛ぶ。その途中で、全てが鋭く変化する。
「【矢となる水】!」
「【天衣無縫】!」
光の布が全てを拒む。形を保たずに散った水が、辺りの水溜まりに合流する。
「【鎖となる水】。」
「っ!?」
「やれやれ、注意力が散漫だな。辺りの水は、一度触れれば私の手足と同然なのだよ。知っているだろう?」
「っ、放して。」
「断る。君が死ねば、私の契約も捗るだろう。標的を決めていないから、手当たり次第に後悔させるしか無いが。」
その結果が子供らしい。もし見ておけば、という親の後悔を誘うのか。兵士も後悔する者がいるかもしれない。それを起点に契約し、更なる後悔を誘おうと言うのだろう。
「さて、この魔法はいつ解くのかね? 邪魔な布だ、結果が変わるわけでも無いのに。」
ミゼンは、【天球】で水ごと自分を囲んでいる。明らかな敵意をもつ後悔は、外から中へ踏み込めない。中の水も維持はできるが、これ以上の変化は望めない。
「……ふむ、確かアスモデウスの資料に、君は不安定な精神状態で錯乱は容易、とあったか。少し、昔話でもしてやろうか?」
「私は、不完全じゃない。」
「表情も態度も、面白味が無いともあったな。自分でも気づかんのかね?」
鼻で嗤った後悔は、そのまま後ろを向いて、語りだした。その腕は子供の遺体を弄ぶ。同情、恐怖、そういった感情が、既にミゼンを乱しはじめた。
「九年前……マモンが消えて二年程の事か? その頃の話だ。」
「九年……前……?」
「良い反応だな、試験体。貴様の片割れが、憐れにも誕生してしまい、五年も生きてしまった頃だ。」
これから話す内容に合わせて、後悔はさも残念そうに言う。しかし、悪魔からすれば誠に良い試験体を得たのだから、彼女の誕生は振り返れば朗報だ。
「覚えているか? 朽ち果てそうな一軒家に、投げられた石によって空いた穴。直す為には、染みだらけの板切れを、拾って張り付けた。
同情、迫害。どちらにせよ、寄せられた感情は、責め苦でしか無かったろうな? 僻地にいた白い忌み子は、悪魔を呼ぶ事を極度に恐れられていた。」
「……だから、捨てられた。」
「そうだ、あの女は我が子を、悪魔に売ったのだ。己の涙と引き換えにな。」
心底楽しそうに、後悔は嗤う。あの件で得た、ミゼンという手土産。それで彼はアスモデウスに使えると評価され、今も優先して情報を貰える。狂信者との接点も多い。
「あの後悔は、実に美味だった。乾燥する眼球、泣くことも出来ぬ懺悔!」
「……後悔? 懺、悔?」
「さぁ、思い出してきたか? 貴様は捨てられたのだ。要らぬ子供だと。しかし、私達が受け入れてやった。だから、私を拒むな。あの「疲れた、楽になりたい」等とぼやき、私と契約した者とは違う。私達はお前をただでは捨てない。お前が尽くす限り、手を取ってやろう。」
後悔の声は、既にミゼンには半分も届かない。何かが、記憶と違った。自分には、アスモデウス以外に、必要としてくれた人はいない……筈だ。
「貴方は……何と、契約した、の?」
「ほぅ? 興味があるかね? 知りたいと言う思いは、拒まない証だ。これを、解け。」
「先に……答えて。」
「ふぅ、既に言ったのだがね。「もう疲れた、楽になりたい」、だ。たった、これだけだ。貴様を捨てる理由なぞ、それだけだ、それだけでしかない。」
後悔は語り終えると、ゆっくりと【天衣無縫】に触れた。しかし、それは変わらずに後悔を拒む。だが、ゆらゆらと不安定に揺れた。
「解け、私はアスモデウス様の命もあるのだよ。」
「父、様の……あの子の、父様は?」
「片割れのほうかね? いたのなら、あの女はあそこまで、窶れていなかったろう。」
「……嫌だ。私は、戻りたく、ない。」
ミゼンの後ろに、魔法陣が輝く。それは、幾条もの星を呼ぶ魔法。
「何? 君はなぜ、私を拒む?」
「貴方達を……信じられない。もう、傷付きたく、無い!【流星群】!」
大地を抉る星の雨、とは言い難い、小さく少ない星々。しかし、その全てが正面から後悔を捉える。
「くっ、【水の武装】!」
「ああぁぁぁ!」
足りないなら、魔力以外も払う。とにかく、この悪魔に近づいて欲しくなかった。
ずっと、愛されたかった。それと同じくらいに怖かった。だから、傷付く前に拒んだ。
今、あの唄で植え付けられた違和感に、気づけた。自分の本懐、望みは拒絶では無い。守護の為、恐怖を拒んだのだ。
その時、ミゼンの中で何かが砕けた。封じられたバラバラの記憶が、靄から形を出すように、理解できた。自分は、確かに愛されていた。居場所があった。取り戻せないが、それでも求める物は分かった。
「私は、貴方達とは、違う。私には、私の意志がある! 一つの感情でしか解れない、貴方達とは違う!」
「何かが変わった……? 仕方あるまい、一度退くとしよう。」
翼を開き、後悔は飛び立つ。暫く追いかけた【流星群】も、すぐに止まる。水の鎖から解放されたミゼンは、その場に倒れ込んだ。
呼吸をする体力も危うい。意識は魔力と共に無くなって行く。
「わた、しは……まだ……」
「……さん! ……が…す!」
声は、怒号ではない。力が抜けきり、ミゼンはそのまま目を閉じた。