第九十六話
恐ろしい吠え声が、周囲の恐怖を煽る。北の天を突く物に比べればあまりに小さく、しかし人の身には巨大な山脈を、それは駆け回っていた。
「多連【具現結晶・狙撃】!」
人の身の丈を超す、中型の中でも大きな山犬の群れ。そこを数メートルの鋭い結晶が穿つ。
多くはそれに地面に縫い付けられ、しかし生きてもがく。残った僅かな山犬は、空に浮かんでいる、赤いバンダナと、黒と見間違う紫髪の少年を睨む。
「いい加減しつこいな……三日も連続で追ってくんなよな。」
その体躯に合わず、休み休み奇襲をかけて来るその群れに、ソルは紅く染まる瞳を向ける。その右目から魔力が吹き出せば、強力な出力で地面から結晶が飛び出す。
その【具現結晶・貫通】に身を貫かれ、さらに拡散された魔獣は息絶える。そして数が減れば、またしても撤退する。犬系統の魔獣は賢さがあって面倒だ。
「お疲れぇ~、凄い物だねぇ。」
「ソルさん、私も参加できますよ? 「旋風鳥乱」なら、逃がすことも無さそうですし。」
結晶の壁に囲まれた場所で、ベルゴが起き上がり馬車に戻る。すっかり濃くなった紫の右目と、薄い水色の左目に戻ったソル。その目に追撃しないことを悟ったシラルーナは、戦闘中も出してくれと提案する。
「こんな山ん中で、風は狙いにくいだろ? 下り始めてから風が強い。」
西に行けば海が近づくため風が強くなった。南側は大きな湾になっているようで、海が山脈に近いのだ。匂いだけで、まだ山の向こうだが。二重の山脈はこういう時に気が滅入る。
一度遭遇すれば、軍隊が必要な群れ。助力を断るには少し理由が浅いが、ソルには細かく狙うのが難しいのもある。巻き込みが怖いのだ。
「この辺りに村とか無いかな。あれば海の幸が戴けるかもよん。」
「この辺りの地図なんざ無ぇよ。てか、海は危ないんだから村とか無いだろ。」
人間は陸の生き物だ。水の中でも活動できる魔獣や悪魔に、引きずり込まれれば元も子もない。第一、大型化しやすい水中生物に遭遇すれば、死ぬのが当たり前の世界。
魔獣と悪魔の蔓延る、法律や救済の届かない地になっている。そんなところで、まともに機能する村はまず作れない。
「あるとすれば、北上しないとな。このまま南に行けば、魔界に突っ込めるけど?」
「危ないだけですよね?」
「そうだな、今は用が無い。」
ケントロン王国で統合できたおかげで、ソルとしては魔界に用は無い。もっとも、色々と不完全な状況のおかげで、とんだ痛みと戦ったあげく、完璧な統合とも言えないが。
とりあえず少しでも安全に、と山下りを始める。ケントロンの地図では、山脈は北に行くほど東にずれ、ケントロン王国に突っ込んでいる。先に越えていれば、後々寒いなかで越える必要が無い。標高の高さと寒さを二重で味わうのはごめんだ。
「でも、あの犬はどうすんの?」
「さぁな、そのうちどうにかなんだろ。北上すれば、今の季節は寒くなるしな。」
散々殺されて減ったあげく、寒さで鈍くなる。魔獣であるため確証はないが、おそらく、どこかで追跡は諦める筈だ。
「そういえば、ソル君達って何処かに目的地があんのん? それとも、西ならそんななりでも追われないから?」
「そういや、西に行くとしか言ってなかったか?」
「そうだね、聞いてないかも。」
あまりにも急な所は、馬車を浮かしたり道を作って進む道で、ベルゴは今更な質問をする。
ソルが辺りに目を配りながら、「飛翔」や【具現結晶】を行使している為、シラルーナが代わりに答える。
「西の方で魔術師の噂が多いんです。契約者の人と混濁してるかも知れませんけど……御師匠様の可能性が高いですから。」
「だからって無法地帯……いや、君の御師匠様って魔界に突っ込むような人か……」
「えぇ、だから御師匠様と合流するのが目的なんです。」
細い崖から落ちそうな馬車を下に飛ばしながら、ソルが続ける。
「少し教わりたい魔術があってな……っと。完成はしたけど、実用出来るか分からない代物でさ。ついでに実験するにも、拠点が欲しいし。」
「拠点……? あぁ、新しく出来た国で、確か……テオなんか?」
「それは知らない。でも、そこなら戦力が欲しい筈だろ? 傭兵の真似事なら出来る。」
川を【具現結晶】で越えて、一つめの山を下りきる頃には日も高くなっていた。ここは山脈に挟まれた盆地で、標高も高い。
流石にもう上る気力は無い。この位置ならば、向こう側がそこまで離れているとも思わなかった。
「魔力も余裕があるし……犬どもは?」
「その辺りじゃないかな?」
「まぁいいか。レヴィアタンが気づくかもしれないけど。」
「ソルさん、何をするんですか?」
「少し苦しかったら、すまんな。【具現結晶・戦陣】。」
ソルの右目から魔力が吹き出し、谷が結晶に覆われる。ソルが吸収に集中すると、戦陣は魔力やマナをぐんぐんと集めて輝く。
勿論、それはシラルーナとベルゴの物もだ。二人から緑色の魔力が結晶に滲み、透明になっていく。そして辺りの魔獣からも魔力を奪っていた。
「おっと、逆上したか。拡散。」
刺さった結晶さえも吸収する。戦陣内部ではソルの独壇場だ。脱出する前に魔力を奪い尽くされ、彼等は気絶した。やがて出血で死ぬだろう。
二人と一匹は、時折結晶から魔力を戻されている。繊細な操作なので、その間は吸収が弱まるが、それでも結晶の輝きは増すばかりだ。
「さて、そろそろぶっぱなすか。」
結晶は一つに集束し、目の前の山を差す。少し太めの柱は、かなりの光量だ。
少し上をみて、ソルは魔法陣を展開した。
「同時に固定もしないとな……よし、放出!」
熱と圧力が光線を形成し。木を、土を、岩を穿つ。結晶が霧散し光線が無くなると、全てが吹き飛んだ洞穴に真空が発生する。
しかし【具現結晶・固定】で崩れないそれは、辺りの空気を吸入して均圧される。
「や、やらかすなぁ……」
「ソルさん。これ、向こうに人がいたら大変ですよ?」
「こんなとこに誰がいるんだよ……さて、少し休もうぜ。なんかいたんなら、今ので来るだろうからさ。」
「奇襲よりはマシだろうけど、おびき寄せてどうすんのさ……」
「いい加減、逃げ回るのに飽きた。」
「腹いせだ!?」
気を休められなかった三日間の分を、その日の午後でしっかりと休んだ三人と一匹。レギンスは魔力の激減からか、ぐっすり眠っていたが、翌日の早朝には目が覚めた。
眠っていたソルとベルゴを、シラルーナが揺り起こす。まだ日ののぼらない内だが、レギンスが起きたら出発するつもりだったからだ。
「どうせなら日が出てから……」
「今から穴に潜るのにか? それにこの地形で日が差し込むのは、昼になってからだろ。それなら、穴を出た後に日が長い方が、距離を稼げるじゃないか。暗いと危険なんだからさ。」
「分からなくはない理屈、しかし俺は惰眠を貪りたい!」
「ふーん。」
熱く思いを語るベルゴの後ろで、準備を終えた馬車が走り出す。「光球」で洞穴の中を照らせば、レギンスは臆する事なく入っていった。
直ぐに追い付いたベルゴが馬車に飛び込めば、中ではシラルーナがお湯で乾燥肉を戻していた。
「置いて、いくかな、そこで!」
「飽きたし。」
「寝起きに、全力疾走は、きつい、んだけど!?」
「やったこと無いから知らない。」
息切れしながら馬車に乗ってきたベルゴに、シラルーナは水を渡す。
「大丈夫ですか?」
「そう思うなら止めてよ……」
「ベルゴさんなら、大丈夫かなぁ、と。」
「何だか俺に優しい人が減っていく……」
「甘い人の間違いだろ。」
熔けて空いた空洞は、ソルの固定でしっかりとその姿を保っている。ガタガタと揺れる馬車も、少しきついが通れる程の広さ。
改めて周囲を見て、ベルゴはあの一瞬でこれか……と呟いた。
「便利だよね、君の【具現結晶】。守って、壊して、創って……」
「回収や放出なんかは付与だぞ? 攻撃の出力は力場の特性だから、魔力をかなり喰うし……元は、原罪に比べたら烏滸がましい様なもんだ……今もか?」
「相性によるでしょ、それ。戦陣の中だと、魔力使わないで結晶になるし。」
「ソルさんは凄いですよ。そこは譲りません。」
暗い道をソルの魔人の視力に頼って進む。目の前の光球は淡く、全体を照らすには小さい。光の特性があるなら別だが、ソルもシラルーナも得意ではない。
当然、火なんて炊いて酸素を削るわけにもいかず、魔術の明かりがあるだけでありがたいのだが。それでも不足があれば嘆いてしまうのが人情という物だ。
「……うん? 終わりか?」
「外が暗いから、俺達には分からないって。後ろから日が昇る訳だしさ。ねぇ? シラちゃん。」
「でも、何だかしょっぱい匂いが……」
「俺は鼻もなの! 分かんないから!」
ほんのりと白み始めた空が、穴の向こうに肉眼で確認できる距離になる。
上から海に吹き下ろす風が、山肌を撫でる。一行が穴から出れば、待っていたかの様に山頂から日が覗く。向こうから此方へ、サァッと青が広がった。
「おぉ……」
「わぁ、綺麗……」
濃い緑の木々の向こう、見たこともない様な広大な蒼。時折白く反射する波が、一面の青に彩りを添えている。
多少、不自然なほどに巨大な湾になって、大きく弧をかいて陸地がそれを包む。浜辺を囲む緑色は、海の青を対比によってより際立たせた。
眼下に広がる景色に、つい二人は見とれていた。御者席に座るソルに、外に出たベルゴが尋ねる。
「初めて見る海はどう?」
「無法地帯とか言うには、少し綺麗すぎるな……」
「人間に手付かずってだけだかんね。見慣れない景色を見るには、むしろ持ってこいじゃない?」
「早く下りませんか? あっちの方とか、すぐ側まで行けそうですよ!」
シラルーナの振れる尻尾は、顔と同じくらい分かりやすい。気になるのはソルも同じだった為、ベルゴの方を向いた。
「俺がやらかして一日近くたったけど……ここまで無反応だと、海には危険は無さそうか?」
「この距離で、気付かないとは言えないしね。そうだなぁ……まぁ、ソル君がいるなら大丈夫じゃない? 警戒はしてよ?」
「よし、信じるぞ情報屋。」
山下りのルートは、雨風の多い西側では若干急だ。しかし、興味を示したソルが全力で下った為、日がしっかりと昇る頃には、三人と一匹は麓にたどり着いていた。
皮の硬い木々を過ぎて、岩場が覗く頃には波の音が鼓膜を刺激する。馬車を置いて駆け出したシラルーナに、置いていかれないペースで二人は続く。唐突に視界が開けて、彼等の前には小さな砂浜に囲まれた海が、姿を表した。
「近くで見ると……」
「違った景色ですね……凄い。」
見たことの無いくらい、はしゃぐ二人に、ベルゴは頬を緩めて見守った。