第5話 腐ってもタイ
1.
ある晴れた昼下がり。
音楽室に響き渡る歌声。
俺はというと、なるべく小さな声で歌う。
なぜかって?
俺は音痴だからだ。
ただでさえ臭い糠味噌を腐らせてしまったレベルのな。
(早く授業終わらねぇかな…)
チラッと石原を見ると、にこやかに歌ってやがる。
相変わらず陽気な奴だ。
(教科書…、違うページを開いていてもバレないだろ…)
俺は何となく教科書の最後にある「音楽記号の種類」というところを見ていた。
ふむ、こう見ると、楽譜ってのは何となくデジタルっぽい概念だな。
アナログである曲を、記号や図面を駆使して限りなく細部まで表現しているように見える。
ふむふむ、二分音符が2つで、全音符1つと同じ長さって訳か…。
ん、この記号は何だ…?
…タイ?
隣り合った同じ高さの音符をつなぎ、1つの音に…?
ん…?
ということは、二分音符が2つあって、タイという記号が付いていれば、実質全音符と同じになるじゃないか。
「そういうことか!!」
しまった。
つい大声を上げてしまった。
恐る恐る周りを見ると、クラス全員がびっくりした顔で俺を見ている。
「や、やあ、何でも…ない。」
石原がクスクスと笑っていやがる。
矢吹のほうを見ると、やれやれといったような仕草を見せた。
これは、もしかして…。
(集中力があるが故に俺は、弓道なんか始めたら割とセンスがあるんじゃないのか?)
俺は恥ずかしさを紛らわすために、そんなことを考えるのに精一杯だった。
2.
風で飛ばないようにしていた二千円。
なのにまっさらだった机の上。
職員室に鍵を取りに来た倉田。
誰にも言うなという態度の川村。
そして、二千円を返したときの、石原の驚いた顔。
――引っかかっていた謎は、全て解けた。
「なぁ、石原、矢吹…」
「うん?」
「ちょっと放課後、教室に残っていてくれないか。」
「えっ?なになに~?」
「九条くん、君って奴は~。ふふ、分かったよ~。」
疑問符が浮かんでいる石原に対し、矢吹は何か悟ったようだ。
さすが竹馬の友…もとい、腐れ縁だ。
そして時は放課後。
教室に残っているのはもう俺たち3人だけだった。
「九条くん、今から何するの~?」
石原はまるで子どものような好奇心で問うてくる。
「まぁ、もうちょっと待て。もうすぐ来るからな…」
「え、誰か来るのっ?」
そのとき、教室のドアがガラッと開いて、一人の男が入って来た。
「あれっ。川村くん。」
川村は真面目な顔を保ったまま俺に近づいて来た。
「九条、話って何だ?俺はこのあと部活があるんだが…」
「まぁまぁ…、川村。立ち話も何だ。座れよ。」
川村は空いてる席に仕方なく座った。
教室の中に4つの長い影。
春の太陽も大分傾き始めていた。
3.
「もしかして、石原さんのことで、まだ何かあるのか? 本当に申し訳なかったが、二千円もちゃんと返したじゃないか。」
「そうだな…確かにお前は石原に返した。…二千円はな。」
「どういうことだ、それは…?」
川村は眉のあたりがピクっと動いた。
俺は話し続ける。
「石原の発言を覚えているか? 二千円を風に飛ばないようにしておいた。ってな…。」
「ああ…。」
「だが、戻ってきたときは机の上はまっさらで何もなかった。だったら、二千円を飛ばないようにしておいた"重し"も石原に返してほしいんだが…?」
「…! それは…。」
川村は言葉を飲み込んだ。
「そう、お前は"重し"を返すことができない。それもそのはずだ。二千円そのものが"重し"だったんだからな。」
「何だって…!?」
俺はポケットから五百円玉を2枚取り出し、川村に見せた。
「五百円玉…!?」
「こういうことだ。石原は違うクラスの2人からお金を返してもらっていた。俺自身も二千円と聞いたとき、千円札2枚だと勘違いしてしまっていたが、実際は千円札1枚と、五百円玉2枚だったんだ。」
「ふ~ん、なるほどねぇ~…」
横で聞いていた矢吹が頷いた。
「そして、お前が五百円玉と知らなかったのは、本当は盗んだのはお前じゃないからだ。違うか?」
「えっ!?」
ずっと黙っていた石原が驚きの声を上げる。
「…。」
川村は口をつぐんだまま俯いている。
「なるほどねぇ~。でも、じゃあ一体誰が盗んだっていうんだい~?」
「盗んだのは倉田だ。」
「倉田くんが…?」
「そりゃあそうだ。鍵を取りに来たのは倉田だったんだからな。川村、ここからは俺の推測だが、お前は倉田を庇おうとしたんじゃないか? 確か、同じ中学だったよな。」
川村はゆっくり顔を上げる。
「…倉田は、昔は明るい奴だった。」
川村は細々と話し始めた。
「でも、家庭の事情があって中学では学校に来ないことが多かった。それからは、あんまり喋らなくなってしまったが…。」
「そうだったのか。」
「でも同じ高校になったのを知って、また昔みたいに一緒に遊べると思った。だが、あいつは心を閉ざしたように喋ってはくれなかった。」
「ふ~む…。」
「今日、体育の授業から戻って来たら、既に倉田が教室にいた。そして、あいつが石原さんの机から何をこっそり取るのが見えたんだ。あとの騒ぎで、それがお金だったと知って、正直ショックだった。」
川村は額に手を当てて話し続ける。
「あいつがお金を盗むなんて…。でもあいつは俺と喋ってくれないし…。だが、これが問題になってまた不登校になったらどうしようって考えで一杯だった。」
「それで悩んだ末に、名乗り出て庇ったって訳か…。」
「すまない。だが、あいつもお金に苦しんで魔が差しただけだ。本当は良い奴なんだよ。どうか誰にも言わないでくれ。」
その時、教室のドアがガラガラと開いた。
「倉田…!」
そこには、夕陽に照らされた一人の男が立っていた。
4.
「おう…、川村もいたのか…」
低くて太い、倉田の声が教室に響き渡る。
「石原…さん、すまねぇ。盗ったお金を返しに来た。教室にいるって聞いてよ…」
「倉田くん…」
黙っていた石原が返事をする。
川村は驚いたまま言葉が出ないようだった。
「俺、つい…盗っちまってよ…。まじで申し訳ねぇ。」
倉田は千円札1枚と、五百円玉2枚を石原に差し出した。
俺はここで口を挟む。
「倉田。二千円なら、川村に返すべきだぜ。川村は、お前を庇って自分が盗んだと名乗り出たんだからな。」
「川村…、お前…。」
倉田は川村のほうを向く。
川村はやっと安心した表情を浮かべて、倉田を見た。
「倉田。やっぱりお前は魔が差しただけだったんだな。ちょっと安心したよ。」
「川村…、わりぃ。俺、不器用だからよ…。段々お前との接し方も分からなくなってよ…」
倉田は川村に二千円を渡す。
「いいんだよ。何かあったら俺に相談しろよな。友達だろ!」
「川村…、お前…。」
倉田は泣きそうな顔をしていた。
「うぇ~ん…。」
って、石原…
なんでお前が泣いてるんだよ。
「ちょっ、石原さん、何で泣いてるんだい」
さすがの矢吹も突っ込んだ。
「うん…。良かったなぁ~って… 思って…。」
どんだけ涙もろいんだ。
万斛の涙を流すお前は、どうか脱水症状に気を付けたほうがいい。
「倉田。今回の事件は、石原の涙に免じて俺たちだけの秘密にしておいてやる。だから二度と、こんなことをするなよ。」
俺は倉田に言葉を放った。
「九条、すまねぇ…。二度とこんなことはしねぇよ。」
「おう。」
倉田はもう一度、川村のほうに身体を向ける。
「川村も、すまねぇ…」
するとそこに、矢吹が会話に割り込んで入って来た。
「倉田くん、こういうときは、ありがとう~っのほうが、いいと思うよ~?」
倉田はその言葉にハッとする。
「川村。あり…がとう…な。」
「矢吹くんってば、たまには良いこと言うじゃん~!」
石原のほうを見ると、涙の跡はあるものの、笑顔でにこにこ笑っていた。
相変わらず秋の空な奴だ。
「さぁ、これで、一件落着だな。」
「あ、やっべ!!」
突然川村が教室の時計を見る。
「とっくに部活始まってるわ! 俺、行くから、じゃあな!」
嵐のように去っていった川村を見送った後、教室内には4人の笑い声が響き渡っていた。