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夢の放浪者

作者: 文梧


 静かな病室に、機械の電子音だけが鮮明に響いていた。

 青年がひとり、病室の中に無言で佇んでいる。

 病室のベッドに横たわっているのは、三十代程度だと思われる女性だった。口に酸素マスクを当てられ、点滴をつけられ、様々な機器に身体をつながれていた。女は目を見張るほど美人だったが、よく目を凝らすとはじめの印象よりも遥かに老いて見えるような気がした。

 女はずっと寝たままで、目を覚ます気配はなかった。

 ベッドサイドモニターは先ほどから同じ間隔で電子音を絶え間なく響き渡らせているが、時々アラームが鳴ることがあった。そのたびに看護婦がやってきて、機械のアラームを止め、女の状態を観察し記録した。

 看護婦の涼子は、ベッドの傍らの青年をちらりと盗み見た。年の頃は二十歳前後くらいだろうか。青年はここに来た時からずっと、ひと言も言葉を発さず、ただ佇んだままベッドの上の女を見つめていた。

 青年が女を訪ねたとき、涼子は驚きに目を丸くした。女がこの病院に入院してから何年もの間、誰一人として彼女を見舞いにくる者はいなかったからである。「身内の方ですか?」と尋ねても、「いや」と口ごもるか首を傾げるばかりで答えは得られなかった。この日、看護婦たちの休憩室では、この青年と女の関係を探る話題で持ち切りだった。

「息子かもよ」と婦長が言っていた。「幼い頃に捨てられたとかで生き別れて、今になって居所を探り当てたとかじゃないかしら」

 母子であるにせよ、そうでないにせよ、訳ありであることは間違いなそうである。

 女との関係のことだけではなく、青年はどこか謎めいた雰囲気を秘めていた。目を閉じてしまえば、再び開けた時にはもう消え失せてしまっているのではないかと思えるほど、不確かな存在にも感じられた。

 青年は無表情だったが、黒の瞳は微かに愁いを帯びているように見えた。

 青年と目が合った。涼子は慌てて目を逸らし、病室を出て行った。

 ひとり残された青年は、それまでずっとしていたように女の顔をまじまじと見た。

 青年は、女を探してこの病院を訪れた。だが、不思議なことに、彼は女が誰か知らなければ見覚えすらなかった。自分が誰を探しているのかわからないまま、この病院を突き止め、やってきたのだ。こうしてベッドの傍らに佇んでいても、そこで眠っているのが誰なのかわからないままでいる。

 彼はひたすらに考えを巡らせているようだった。長年の間昏睡状態のままで今や死に瀕しており、身元もわからず、誰一人として身寄りもない、ただ眠ったまま孤独に死を待っているだけの女。なぜ自分がそんな女の元へやってきたのか、いくら考えてみてもわからない。

 青年は何度も病室を立ち去ろうとしたができなかった。心の奥底で自分は残りたがっているのではないかという気がした。残って女を救わなければならない。それができるのは自分だけだと、馬鹿げた考えが頭に浮かんできた。

 そのうち青年は、見覚えのないはずのその女を知っているような気がしてきた。知らないはずの女を知っている――。まるで既視感のような、奇妙な感覚。

 そんなことがあるだろうかと青年は考えた。しかし、気のせいで片づけることはできなかった。青年はやはり女を知っていたのだ。ただし、知らないというのも事実である。なぜなら、青年と女は確かに実際に会ったことはないのだから。

 青年は意識的にではなく、本能的に理解できた気がした。彼がなぜ女を知っているのか、彼と女がどういう関係なのかを。

 青年は、本能で理解したままに行動した。病室の隅の椅子を引き寄せベッドの傍らに座ると、そっと女の手をとった。そして、目を閉じた。

 真っ暗な視界の中で、青年は意識を女に集中した。意識が薄れていくにつれ、自分が女の頭に入っていくような、不思議な感覚が沸き上がってきた。その感覚が次第に深くなっていくと、青年は完全に意識を手放した。



 女はたったひとりで歩いていた。

 辺りは深い霧に包まれ、それ以外の何も女には見えなかった。地面に足をつければ、霧がふわりと舞い上がって足元が露わになったが、数秒もしないうちにまた霧に覆われた。

 女は自分がどこを歩いているのかわからなかった。どちらに歩けばどこへ辿り着くのか、そもそも辿り着くような場所があるのかも。

 女は何年もの間、霧の中を彷徨っていた。何も聞こえず、何も見えはしない世界を。かつては多種多様で色鮮やかな幾つもの世界が女の前に開けていたのに、すべてを覆い隠す霧が現れて以来、さまざまな世界を行き来することはできなくなった。ただ何もない世界を孤独に彷徨っているだけだった。

 女は自分が死にかけていることに気がついていた。厳密にいえば、死にかけているのはここにいる女ではなく病室で横たわっている方の女であるが、彼女が死ねば今ここにいる彼女の意識も永遠に途絶えてしまうだろう。

 長い間女が彷徨っているこの場所は、彼女の夢の中だった。

 女は三十年以上の年月を現実で生きたが、その倍の年月を夢の中で生きていた。彼女は自分が望む限り好きなだけ夢の中で生きることが出来たし、夢にいる間は彼女の肉体はほとんど衰えることはなかった。

 女には、夢の世界に留まることだけでなく、他人の夢を行き来することもできた。

 凶暴な魔物に追われたり、翼の生えた馬に跨って空を飛ぶ子供の夢。現実には決して実ることのない片想いの相手とデートの約束を取りつける少女の夢。次の日に開かれる重役会議に遅刻する中年男性の夢。数年前に先立った妻と知らない別荘で幸せなひとときを過ごす一人暮らしの老人の夢。それらの夢を眺めたり、時には干渉したりしながら、女はあらゆる人の夢を行き交っていた。

 ほとんどの人は、夢で起きる出来事に対して全く無抵抗で、受動的だった。ただ夢の流れるままに身を任せることしかできないようだった。

 女には、自分の意志で夢を操ることができた。夢の世界では、全てが女の意のままだった。昔はその力を使って随分と楽しんだ。

 しかし、夢が霧に包まれるようになってからは、こうしてただ彷徨い歩くことしかできなくなっていた。夢から覚める方法すらも、今ではもう思い出せない。女は疲れ果てていた。いつまでこの時間が続くのだろう。なんの目的もなく、ただやってくる死を待つこの時間。

 病室に横たわっている自分の心音が弱くなっていく感覚が、すぐ近くで聞いているかのようなはっきりとした実感を伴って女に襲い掛かってきた。それに、酸素マスクをさせられた口から洩れる息が弱くなっていくのも。

 突然、霧の向こうから微かな光が差し込んできたのが見え、女は足を止めた。目の前の一点に、ぼんやりとそれは浮かんでいる。霧が現れてから今まで、このようなことは一度もなかった。最後に光を見たのは遠い昔だったのだ。いよいよ死を迎える時が来たのかもしれない。

 女はそちらへ足を踏み出さなければならないとわかっていたが、躊躇っていた。彼女は怖くなっていた。今更死を恐れることになるとは思っていなかった。気の遠くなるほど夢の中で孤独に生き続け、生への執着などとうになくしたと思っていたのだ。しかし、いざ死に直面すると怖くなった。長年続いてきた意識が途絶えることの未知さが怖くて仕方がなかった。

 だが、光が徐々に強くなっていくに従って、女は不思議な感覚を覚えた。死の冷たさとは違う、微かに温かみを帯びた光であるように感じられた。さらに不思議なことに、誰かがその光の向こう側から彼女を呼んでいるかのように思えた。

 どうしてここに、女以外の誰かがいるなどということがあり得るだろうか。ここは昏睡状態に陥り、空っぽになった女の意識の世界なのだ。もはや夢と呼べるものかも怪しいのだ。それなのに、何かがあったり、誰かが現れたりすることなどあるわけがない。現に、霧が現れてからそんなことは一度もなかったのだ。

 しかし女は、段々はっきりとそこに誰かの存在を感じるようになった。ずっとぼやけたままだった世界が、長い眠りから覚醒するかのように形をつくり始め、ざわめきたつのを女は全身で感じ取った。

 やがて、女は吸い寄せられるように光の方向へ歩き始めた。進むにつれて光は強くなり、女は眩さに目を細めた。次第になにやら懐かしい気配に包まれていく気がした。


 いつの間にか辺りに立ち込めていたはずの霧が跡形もなく消え去っていた。変わりに世界は白に包まれていた。辺り一面、目が眩むほどの白。

 そして、青年がいた。

女は彼が誰なのかを覚えていた。

かつて女は、夢の中で何度も、彼女と同じように夢を渡り歩くその青年に会った。彼が女の夢に現れることもあれば、女が彼の夢へ入り込んでいくこともあった。ふたりであらゆる夢の世界を旅することもあった。

だが、女が最後に会ったとき、彼は青年ではなく少年だった。成長しているということは、彼は女とは違い、現実世界でも普通に生を送っているのだろう。それでも、初めて出会った時の、不安げな幼い面影は消えていないように見えた。

 その彼が、なぜ現れるのだろう。女が今まさに死へ向かうという時に。

「不思議ね。私はお迎えが来たのかと思ってここに来たんだけど、貴方がいるなんて。これって運命の悪戯ってやつなのかしら。それとも、貴方は神様の遣いか死神だったの?」

 女はまるで、ついこの間会ったばかりの相手に話しかけるかのように言った。事実、久しぶりに会ったという感じはしなかった。夢の中の時間は永遠に思えるほど長くはあるが、過ぎてしまえば一瞬のことのように感じられるものだ。

「私はもうすぐ死ぬ、知っているんでしょう?」

 女が言うと、青年は少し顔を伏せた。

「知っているよ。だから来たんだ」

 その悲哀に満ちた表情を見て、この青年は孤独なんだ、と女は思った。私のように現実を捨てて夢の世界を生きているわけではないのに、彼は孤独なんだ。だから寂しくて仕方がないんだ。

 けれど、女にはかつてのように彼の助けになってやることは出来なかった。彼女に残された時間は少ない。かつてのように、胸躍る冒険に連れ出して孤独を紛らわしてやることもできない。それに、彼を知らなかった。彼の名前も知らない。夢の中では、名前など意味を持たないからだ。

「ここは私と貴方、どっちの夢なの?」

「……どういうこと?」

「貴方が現れる夢を私が見ているのか、私の所に現れる夢を貴方が見ているのか、ということよ」

 青年は困惑した表情になった。

「僕たちふたりが見ている夢だよ」

「そうかしら? どちらかが相手が現れる夢を見ているだけに過ぎないのかもしれないわ。普通、夢ってそういうものでしょう? その場にいるふたりの両方に意識があるなんてことはない」

「でも僕たちは……」

「普通じゃない。そうね。私たちは夢の制約を受けないもの。でも、私たちのうちどちらかの存在が幻だったとしたら? どちらかが自分に都合のいい存在を創り出しているのかもしれないわ。私たちは夢を自在に操れるんだもの。ここには私と貴方、ふたりがいるように見えるけれど、実際は何もない空間にただひとりで佇んでいるだけかもしれない」

「どうしてそんなことを言い出すんだ」

 女にもそれはわからなかった。さっきまで孤独でいることが怖かったのに、今はそうではなかった。自分の意志に反してわざと青年に意地の悪い言葉を浴びせている。彼を突き離そうとしている。

 女にはわかっていた。自分も目の前の青年も、幻ではなくここに存在していると。青年も、それがわかりきっているから戸惑うのだろう。

 しかし、それはこの夢という世界の中のことであり、夢とは現実と比べて酷く曖昧で脆いものなのだ。その場に足をつけていても少し気を緩めればそこがどこなのかわからなくなる。女が現実よりも長く夢の中で生きていても、それは変わることはなかった。女は現実を生きる青年を知らない。夢の世界でしか知らないのだ。それは彼を知らないのと同じことだ。女にとって彼が存在していないのと同じ。そしてそれは、青年にとってもそうだ。

 知らない相手を助けることはできないし、相手に助けてもらうこともできないのだ。

 青年は女をまっすぐ見つめた。女は青年の問いを誤魔化すように微笑を浮かべた。困っているようにも、悲しんでいるようにも見える。

 青年が知る女のまま、年は変わらないはずだった。しかし、長年の精神的疲労が滲み出ているせいか、昔よりも年をとっているように見えた。

 青年は女に手を差し伸べた。

「少し、ふたりで旅をしてみないか。昔のように」

「無理よ。私にはもうできないの」

「できるさ。目を閉じて。僕を信じてくれ」

 女は躊躇いがちに青年の手を握り、目を閉じた。

 再び目を開けた時、女と青年は都会の雑踏のなかにいた。

 女は驚いて周囲を見渡した。そこには紛れもなく、ただの霧に包まれた光景ではない世界が広がっている。これまで女がどんなに実現しようとしてもできなかったことが、青年が現れた途端いとも簡単にできてしまったのだ。

 青年は手を握ったまま、呆気にとられる女を見つめ、微笑んでいた。愛おしい者を見つめるかのような、優しげな表情だ。

「どうなっているの?」

 駅前の広場のようだった。女と青年は、その中央に立っている時計の真下にいた。広場には噴水があり、扇状に生えた木々に沿って石造りのベンチにある。ベンチには若い女性が座って携帯をいじっている。ふたりの女子高生が、老人が散歩させているゴールデンレトリーバーの傍に屈みこんで頭を撫でた。

「どうしてこんなこと……。貴方が私を連れてきているの? ここは私の夢? それとも貴方の夢なの? 今この光景を見ている私の意識は貴方の夢の産物?」

「難しいことを考えすぎだよ。もちろん前者さ。かつて子供だった僕に君がしてくれたことだよ。忘れてしまった?」

 もちろん覚えていたが、なぜ自分を連れ出したのか、女には青年の意図がわからなかった。

「少し歩こう」

 ふたりは手をつないだまま、川の流れに身を任せるように雑踏の中を歩いた。ふたりとも無言だったが、それは悪い感じのものではなかった。長年来の親友同士――これ以上話すことがないくらい、お互いのことを語り、知り尽くしてしまったと思えるほどの――が、無言で語り合っているような、心地よい沈黙だった。女は少し可笑しくなった。さっきは青年のことを知らないも同然だと考えていたのに、今は自分たちふたりの関係をそんなふうに感じている。これはかなりおかしなことだった。

 道行く人々は、追い越したり追い越されたりしながら、急ぎ足で歩いていく。歩きながら電話口の向こうに苛立たしげな声をあげる者、立ち止まって携帯の画面を見つめる者、耳にイヤホンをしながら歩く者。夢の中でも、こんな風に窮屈そうに歩く者たちがたくさんいるのだ。

「きっと僕らがいきなり立ち止まったとしても誰もが気づかずに通り過ぎるだろうな。自由だけど、まるで幽霊にでもなったみたいだ」

「ここなら幽霊なんてたくさんいるわ。ここにいる誰もが幽霊になり得るんだもの」

 交差点に差し掛かった。交差点の向かい側で、信号待ちをしている女性に若い男が声をかけていた。女はそれを見ると目を逸らした。

「ここは嫌なの。ここだと誰もが同じ方を向いて歩くんだもの」

 青年は女がどういうつもりでそんなことを言ったのかわからず、彼女を見た。女は青年から問われることを拒むかのように、顔を青年とは反対の方に向けている。

 青年は女の真意を読み取ることを諦めた。

「わかった。さあ、行こう」

 彼は女の手を引いて一歩足を踏み出した。次の瞬間、交差点からふたりの姿は消えた。そして気がつくと今度は静寂と闇夜に包まれていた。

 辺りを見渡すと、雑木林のようだった。木々の隙間から月の光が女と青年に降り注いでいる。女は、満月かと思ったが、少しだけ欠けているようだった。雑木林の奥の闇から、梟の鳴く声が聞こえてきた。

「そろそろ教えてくれないか。僕らが会えなかった間、君に何が遭ったのかを」

 女は青年を見た。見知らぬ場所で保護者を失い怯えている幼子のように、頼りなく揺れて見える彼の瞳を。

 女は考えた。彼は自分を助けに来たのだろうか、それとも助けられに来たのか。何か見返りがあると期待しているのだろうか。何を期待されても応えてやれない。自分はもうすぐ死ぬのだ。

 女は青年が傍にいることが苦痛になっていた。孤独を恐れていたが、彼に看取られるならひとりの方がいいとまで思い始めていた。その時が来る前に去ってくれないだろうか。

「罰を受けていたの。それだけよ」

 女は、彼ががっかりして離れていくことを期待して、わざとそっけなく答えた。

 が、青年は案の定問い返してきた。

「罰って、一体なんの?」

 その時、耳を劈くような轟音が響き渡り、辺りが赤に染まった。音のした方を見ると、雑木林の向こう側が燃え盛る炎に包まれていた。人々の悲鳴や怒号が微かに聞こえてくる。それに重なるように再び轟音が鳴り、新たに炎が燃え盛った。夜の闇の中に立ち上る煙や舞い上がる火の粉の遥か向こう側に、何機かの戦闘機が飛んでいるのが見えた。炎に照らされながら闇の中を飛び回るその姿は、まるで魔物のようだった。

 気がつくと、女の足元には墓があった。鬱蒼と茂る木々の間の、落ち葉が敷き詰められた地面に、それはぽつんと、たったひとつだけ立っていた。女の喉から、無理やり絞り出したような、声にならない悲鳴が漏れた。女は頭で考えるより先に、ひとりで雑木林の中を駆け出していた。

 いつの間にか、燃え盛る炎も、人々の悲鳴も、空を飛び交う戦闘機も、すべて消え失せ辺りには静寂が戻っていた。夢中で木々の間をすり抜け、ぶつかりながら、出口のない迷路のような雑木林を進む。なにから逃げているのか、自分でもわからなかった。地面に張り巡らされた木の根に足を躓き、思い切り転んだ。

 女の目の前に、靴があった。その靴から、カーキ色のズボンが直立して生えていた。誰かが目の前に立っている。

 女は顔を上げた。

 そこに軍服を着た男が立っていた。手を前に組んで、女を見下ろしている。軍帽を目深に被っていて顔がよく見えないが、背格好からして若い男であることはわかる。

 女が下からのぞき込もうとすると、男は消えていた。

 女は慌てて周囲を見回した。すると、女から少し離れた木の下に男がいた。しかし、軍服は来ておらず、白いワイシャツに身を包んでいる。男と一緒に娘がいた。年の頃は十代後半くらい。男と娘はその木の下で向かい合っていた。木は桜だった。美しい花びらをいくつも散らす、一本の桜の木になっていた。桜の下で男と娘は、恍惚とした表情でお互いを見つめ合っていた。この世のものとは思えない甘美な光景だった。

 女は倒れたまま、食い入るようにその光景を見つめた。そして自分が娘だった時の、遥か昔のことに思いを馳せた。娘は女だった。女が今よりも若く、美しかった時の姿だった。

 急に両肩を掴まれ、助け起こされた。助け起こしたのは青年だった。桜の木は、ただの木になった。男も娘も、もういなかった。

「大丈夫?」

 青年が女の顔を覗き込みながら問うた。女は先程の幻があった一点を見つめながら、ただ小さく「ええ」と答えた。

 もう長い間、思い出したことのない記憶だった。女は自分に残された時間がもう僅かしかないことを悟った。

「私、家族を捨てたのよ」

 女がポツリと言った。青年はただ黙って女を見つめていた。

 女が自分の人生を振り返ろうとすると、一番初めに浮かんできたのは、人生で最も幸せだった時の記憶だった。

 昭和初期、女はその家に五人兄弟の長女として産まれた。両親は乏しい収入で一家全員を食わせていかなければならなかったため、貧しく苦しい生活だったが、それでも家族で過ごす時間は幸福だった。家族内での問題などなく、強いて挙げるならば、時折死んだように長く眠りすぎる長女のことだけだった。

 女が十六の時、交際していた四つ上の男から婚姻を申し込まれた。ふたりは深く愛し合っており、女は二つ返事で了承した。女は幸福の絶頂にいた。

 ところが、その頃は戦時中だった。ほかの成人男性と同じく、男の所にも赤紙が届いた。男は女に「必ず生きて帰ってくる」と誓ったが、女は必死に彼を引き止めた。しかし、結局それは叶わなかった。

 男は戦地へ旅立ち、女は絶望した。男はもう二度と自分の元へ戻っては来ないのだという悲観的な思いばかりが女を支配した。慰める家族を無視し、女は寝込むようになり、絶望と悲しみから逃げるように夢の世界に引きこもるようになった。

 そして目が覚めた時、女はひとりきりだった。家族はどこにもいなかった。

 女の住んでいた町は焼け野原と化していた。空襲に遭ったのだ。女の家はほかの民家と離れて建っていたため焼けなかったのだ。

 女はたったひとり、荒野となった町で家族を探し回ったが見つからなかった。男も戻っては来なかった。

 女は何年間もひとりで家族を探し続けていたが、やがて家族はもう死んだのだと悟った。

「私はずっと、自分を誤魔化すために私は家族に捨てられたんだって言い訳してきたわ。でも本当は違う。私が家族を捨てたの。夢の中に閉じこもって、家族を締め出したのは私なんだもの」

 女は話し終えると、先ほど見た炎に包まれる町と闇に浮かぶ戦闘機のことを思い浮かべた。両親も、弟や妹たちも、きっとあの炎の中で死んだのだろう。

「それから、どうしてた?」

 青年が訊いた。

「死ぬこともできず、また夢に逃げ込んで、多くの時間を夢の中で過ごしていたわ。でも何年かに一度は起きた。起きている時はどこかで出会った男に頼った。そうするしかなかったの。時代はどんどん変わっていったし、私はそこでひとりで生きていく術を知らなかった。夢の中が私にとっての世界だったの。だから他人に頼るしかなかった。でも、私のことを本気で気にかけてくれる人なんていなかったわ」

 そんな風にして時は過ぎていった。しかし、ある時突然あの霧が現れ、女は夢を旅することも、目を覚ますこともできなくなってしまった。

 あれはきっと女への罰だったのだ。家族を捨てたことに対してだけではなく、現実で生きることを放棄したことに対しての罰だ。

 きっと今の自分はもう何者でもない。かつて愛した男を失ったと勝手に思い込み、家族を捨てて生きることを放棄した愚かな娘でも、今どこかの病室で息絶えるのを待っている女でもない。夢の中に生き、他人の夢を覗き見て時には干渉し、貪り喰うだけの化け物だ。人間であることを放棄した者は化け物になるしかないのだ。

「信じて待つべきだったのよ。彼は生きて帰ってくるって」

「まだ十六歳の君には辛すぎたんだよ。君は悲しみを消そうとしただけだ」

「でも、別の道もあった。家族と一緒にいるべきだったのよ」

「君も空襲で死んでいたかもしれない」

「それが運命ならそうなるべきだった」

「もう自分を罰するのはやめていいんじゃないか。今までずっとそうしてきたんだろ?」

 女は、はっとして青年を見た。彼は自分を救おうとしている。青年は救いを求めてここに来たのではなかったのだろうか。

「もう自分を許していい。安らかに逝っていいんだ」

 本当だろうか。家族は自分を恨んではいないだろうか。

「夢を見るんだ。君自身の夢を」

 女は言われるままに目を閉じた。目を閉じる前、欠けていた月が丸く満ちているのが見えた。


 女は丘の上を歩いていた。

 辺りには、見渡す限りの草原が広がっており、そこには太陽の日差しが降り注ぎ、風が吹き抜けていった。こんなに素晴らしい空気を最後に味わったのはいつだっただろうか。限りなく遠い昔のことに思えた。

 懐かしい空気。懐かしい風景。

 懐かしい町。

 その町が見えた途端、女はそちらに向かって駆け出していた。とても気持ちよく、高揚していた。こんなに浮足立つような感情を覚えたのも久しぶりだった。

 女は足を止めた。女が住んでいた町だ。女が生まれ、育った町。

 丘の下に、女の生家が見えた。塀に囲まれた庭と、その庭に面した縁側が見えた。

 この丘で、弟や妹たちと走り回って遊ぶのが好きだった。ここから見える縁側で、両親が座って語らっているのを見るのが好きだった。

 ふと、丘の下の方に座っている背中を見つけ、女はそちらへ近づいていった。

 振り向いた顔に、女は興奮したように言った。

「ねえ、凄くきれいな景色だと思わない? 私が住んでいたところよ。もうずっと思い出せなかったのにどうしてかしら」

 不思議そうにする女に、青年は微笑んだ。

「よく再現されているだろう」

「貴方が見せているのね!」

 女は青年の隣に腰を下ろした。

 青年は、女がこれほど満面の笑みを浮かべているのを初めて見た。それだけで女は輝きを放ち、いくつも若返っているように見えた。

「でも、どうして私の故郷のことを知ってるの?」

「君の夢だよ。夢の世界で自由に生きられる者でも、時々、ふとした時に無意識の夢を見ているものなんだ。僕は君が無意識に見た夢でここを知ったんだ」

 女は納得した。

 いい気分だった。死の間際だというのに、今までで一番、生きているという感覚を感じられた。彼女はもう化け物でも、夢を彷徨う幽霊でもない。ひとりの人間として生きていた。そして、そう思わせてくれた青年に心から感謝していた。

「あと少しの間、この素敵な夢を一緒に見ててくれる?」

「もちろん」

 女は青年の胸に寄りかかり、青年がその肩を片方の腕で抱きしめた。

 時が穏やかに流れていく。弱くなっていく心臓の音、浅くなっていく呼吸音、ベッドサイドモニターの音。その全てを全身ではっきりと感じた。しかし、怖いという感情はもう微塵も湧かなかった。

「また、家族に会えるかしら?」

「誰にだって会えるさ。君が会いたいと望む人なら、ひとり残らずね」

「素敵ね!」女はまるで少女のように眼を輝かせた。今までに見たどんな表情よりも若々しく、美しく見えた。「あの人にだって会えるかもしれないわ」

 丘の下に、一本の桜の木が立っているのが見えた。ああ、覚えている。あの木の下で、女は男からの告白を受けたのだ。あの時の高揚感。世界の全てが鮮やかに変化していく幸福。今でも覚えている。

「ねえ」

「うん?」

「もし、貴方と同じ時代に生まれて、出会っていたら私……」

 青年は女の口元に人差し指を押し当て、言葉を遮った。女は微かに笑って、「そうね」といった。言って、目を閉じて、完全に青年の身に自分の身を預けた。肩に置かれている青年の手に自分の手を重ねた。

 急に瞼が重くなってくるのが感じられた。何だかとても眠いわ、と女は思った。夢の中なのに眠いなんておかしいわね。でも本当に眠いの。日差しがとても温かいからかしら。それに、なんだか凄く安心するのよ。

 やがて、女の手が青年の手の上からゆっくりと滑り落ちた。

 青年は、しばらく動かずに、女の肩を抱き続けていた。



 午後四時を過ぎた頃、病院の一部が騒然とした雰囲気に包まれた。

 昏睡状態の患者が心肺停止に陥ったのだ。

 最初に気がついたのは、看護婦の涼子だった。

 すぐに医師やスタッフに知らされ、駆け付けた彼らによって蘇生のための措置が施された。

 午前中に訪れてからずっとこの病室に留まっていた青年はベッド脇の椅子に座ったまま、頭をもたげて深い眠りについているようで、慌ただしい雰囲気にも目を覚ます様子がなかった。

 涼子はなぜか動くことができず、ベッドの上と青年とを交互に見た。

 医師たちはベッドの上の女に、心臓マッサージを施し、電気ショックを与えるという措置を交互に繰り返していく。ショックを与えられる度に跳ね上がる女の身体を見て、これは正しいことなのだろうか、と看護婦らしからぬ疑問を持った。

 結局、蘇生には至らなかった。担当医師によって死亡宣告が下された時、涼子は、いつの間にか青年が目を開けていることに気づいた。そして、青年の瞳に涙が浮かんでいることにも。

 涼子は訊かずにはいられなかった。「本当に身内の方ではないんですか?」

 青年は、今度ははっきりと答えた。違う。自分はその人とは他人だ、と。

 青年はしばらくそこを動こうとしなかったが、患者の死後処理のため遺体をスタッフで移動させた後、次に涼子が病室に戻ってきた時にはもういなかった。


 夢の中。広大な丘の上で、青年が死にゆく女に寄り添っている。

 そんな場面を書きたくて書いた小説です。

 ハッピーエンドではないですが、自作のなかでは温かみのある終わりなのでこれも気に入ってます。

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