神の御許へ、参られるのですか
毒見役、馬車に揺られて物思う。
それは懐かしい記憶だった。
クテンとトテンが与えられた二人の屋敷に慣れ、少しだけ余裕を持てるようになった頃。
約束通り仕事の一週間前に届いた手紙を手にし、クテンは初仕事を前に漠然とした不安を抱いた。
一週間後に耐性より強い毒を食べて死ぬかもしれない。
それがなくともある日いつも通り眠ったら二度と起きなくなるかもしれない。
クテンの持つ唯一の命すらなくなってしまったら、クテンが立っていた場所には、いったい何が残るというのだろう。
「クテン様。例の赤い実で作った焼き菓子ができましたよ」
そんな声が届いて、クテンは声のほうに顔を向けると、そこに微かな笑みを浮かべた。
とりあえず今は、トテンが用意してくれた焼き菓子をお茶菓子に、お茶の時間を楽しむべきだろう、と思う。
クテンは正直死にたくないとも、生きていたいとも思ってはいないが、トテンと二人で過ごす未来を楽しみにしていなくもないのだから。
「焦がさずにできたかしら?」
「温度と時間にさえ気をつければ、後は様子を見ているだけです。きちんとできたとは思いますが……」
初めての菓子作りに緊張しているような素振りを見せて、トテンは自身の主を振り返った。
石英が楽しげな琥珀を認めて、考え込むように黙る。
「味見ができれば、良いのでしょうけど」
「……あら」
クテンはどこか不安そうに逸らされた石英を追いかけて、硬くひんやりとした頬に両手を伸ばした。
それからお互いの顔が認識できなくなる直前の位置まで近づいて、輝く石英を琥珀に縛る。
「あたしが味見するわよ。――大丈夫、残さないわ」
茶化すようにそう言って、クテンは麗らかに微笑んだ。
「トテン」
「はい」
二人で協力して植えた花の芽を眺めながら、クテンは傍らでお茶を注ぐトテンを呼んだ。
「聞いたことがなかったけれど、貴方、家事や庭仕事、畑仕事の他にできることはないの?」
「できること、ですか」
お茶の入った湯呑みをクテンの前に置き、自身の前に急須を置いてクテンと同じく花壇を見ていたトテンは静かにそう復唱すると、鉄色と藍鉄色で縞となっている自身の手に石英を向けた。
「簡単な化粧ならできますね。難しいものも知識にはありますが、化粧とは料理のように練習せずにできるものではありませんから……尤も、屋敷で過ごす分には必要のないものですね」
クテンは感心したように「へぇ」と頷くと、トテンと同じように作業服から露出した縞の手を琥珀に映した。
「それで、他には?他にも何かできるのかしら?」
続いてまるで乞うようにそう問うと、クテンは石英に移した琥珀を細める。
自身の知らないトテンのできること、それを知るのは、存外クテンの胸を踊らせた。
「……この腕で殴り、この足で蹴れば、大抵の相手は動けなくなります。つまり、戦闘も、できますよ」
しかし僅かな間を置いて帰ってきた答えはどこか感情を抑えたような、静かで平坦なものだった。
クテンはそれに対して何かを考えるように黙り込むと、不思議な光を反射する石英を諭すように囁く。
「大丈夫よ、貴方が戦闘なんてすることにはならないわ。なりそうなら近くの兵に知らせなさい。命令よ、きっと覚えていて。あの王なら、それが国に不利益なことでなければ兵なり何なり出して助けてくれるでしょう。いい?命令、だからね」
それは、お遊びのような響きだった。
まるで戦闘を厭うようなトテンに、それをしなくてもいいと免罪符を与えるための遊びを、クテンは実に真面目な顔で言い聞かせる。
そうして琥珀が面白そうに歪められると、耐えきれないかのように唇が緩んで、その口から軽い笑いが零れた。
「戦闘を嫌うような機能を付けたことがポンコツの由来になったのかしらね。こんなに有能なんだから、それくらいで処分なんてしようとしなくていいでしょうに」
トテンはその言葉に何も返さず、ただ石英を見上げる琥珀に頭を下げた。
それからまだ少し微笑んだまま湯呑みに手を伸ばすクテンを石英に認めて、トテンは一歩を踏み出した。
名前を呼んで、その続きを促すように首を傾げた琥珀に乞う。
「わたしからも、僭越ながらお伺いしたいことがございます。よろしいでしょうか」
クテンは全く想像していなかった言葉に「あら、」と瞬くと、間を置かずに「どうぞ?」と微笑んで湯呑みに口をつけた。
トテンは先よりも近くなった琥珀を見下ろし、口に含まれたお茶がクテンの喉を通るまでを見届けると、静かに最初の一言を零した。
「クテン様は、」
「……あたしは?」
そこで止まった言葉に不思議そうな琥珀が石英を見上げて復唱する。
トテンは躊躇うように暫し黙ると、聞けずにいたそれを静やかにクテンに問うた。
「――どうしてあの日、わたしを望んだのですか」
二度瞬いて、クテンは真剣そうな声音でそう言ったトテンを見続ける。
トテンの知りたいところを考え、何が相応しいかと石英を見ながら脳内を模索した。
そんな、ただ見つめ合うだけの時間が長く続いて、漸くクテンは答えを呟く。
「欲しかったから、よ。それ以上でも、それ以下でもないわ」
不思議な煌めきを持つ石英も、それを飾る顔も、鉄色と藍鉄色で構成された身体も、クテンはその全てに惹かれた。
たった一目で惹き込まれ、その能力も何もを知らないまま気に入って欲しくなった。
だから、それが叶う状況だったあの時に、クテンは望んだのだ。
そうして手に入れ、初めて足を踏み入れた屋敷で名前を授けた。
クテンはそれを後悔していないし、これからもすることはないだろうと思っている。
「それに納得ができないのなら、これからもあたしを支え続けなさい。貴方を望んで良かったと、あたしがそう思うように」
挑むようにそう言うと、クテンは丁度良い位置にある縞の手を組ませて、右手の甲を上にするよう動かす。
それから目の前に来た縞の手の甲に口づけると、クテンは自身の象牙色に包まれるそれが驚くように震えたのを唇で感じた。
「クテンさま、」
クテンはまるで今し方トテンにしたことを照れるように笑うと、何かを含むような呼びかけに縞の両手を包み込んだまま首を傾げた。
「必ず貴女のお役に立ちますゆえ、どうか、これからもお傍にお置きください」
乞うように両膝をその場について、トテンは同じ位置にある琥珀を見ながら親指が上になるよう両手の向きを変える。
必然と象牙色の手の甲が曝け出され、トテンもまた、そこに口づけた。
クテンは反射的に琥珀を瞠ると、本格的に照れたように唇をもごもごとさせて、慌てたように両手を自身の胸元に取り返し、隠しきれていない動揺を乗せて返した。
「た、楽しみにしてるわ」
「はい」
そうして話は終わったとばかりに口に放り込んだ焼き菓子の美味しさに、クテンは漂っていた妙な雰囲気をぶち壊すほど興奮して、トテンにその味を伝えようと必死に言い募るが、トテンが少し楽しそうに聞いているのを感じて我に返るのはまた別の話である。
*
「皆に紹介したい者が居る」
王自らが催したという食事会で、そこかしこに国の重要人物やその下で動く有能な者がいる中、見覚えのない薄墨の少女と鈍い青緑のアンドロイドは注目された。
遠慮なく見る者も見ていないふりをして見る者も視界の端で見る者も、総じて今回の催しがあの二人組の為であることを察し、口々に疑問や好奇、そして僅かな嫌悪を囁きあう。
ゆえにそんな中で満を持して現れた王への視線は多かった。
王は壇上から皆を見渡し軽く頷くと、前置きも程々にそう口にして、瞬間、紳士淑女はまるで示し合わせたかのように同じ場所を見る。
「クテン殿、此方へ」
「ええ」
クテンは周囲の視線に臆する心を叱咤し、事前の打ち合わせ通りに返事をすると、壇上への階段を上って王から数歩分置いた場所で立ち止まる。
僅かにざわつく紳士淑女はどういうことだとその視線に驚愕と疑問の意を乗せて、王のクテンに対する丁寧な対応とクテンの王に対する無礼な対応を問うた。
「名を」
しかし王はその視線を意に介さず、ただ距離を置いて立つクテンに一言投げただけで、それ以上は何も言わない。
「ええ」
そうして予定通りに進んでいた新たな毒見役の紹介は、クテンが壇上から紳士淑女を見下ろした瞬間に、一瞬だけ滞った。
そこには不満を隠して様子を見守る紳士淑女がクテンに注目していて、クテンは慣れない視線にともすれば緊張で倒れてしまいそうだったが、自身の斜め後ろで控えるトテンがいることを思い出して、なんとか体裁を整える。
それから一瞬の硬直が違和感を与えるものにならないように、クテンが余裕を持っていると紳士淑女に思わせるように、クテンはゆっくりと薄墨を纏った細い身体を折り曲げた。
「クテン・アーバエイですわ。本日から毒見役として、皆様とは幾度も顔を合わせることになると存じます。どうかお見知りおきを」
クテンは衣装と共に用意されていた薄墨の扇子をトテンから受け取ると、開かれた状態のそれを口元に当ててそう言った。
琥珀だけを軽く笑ませて、言いたいことは言ったとばかりに王へ琥珀を向ける。
これで大丈夫かと伺う視線に、王は満足げに頷いて、けれど隠しきれていない感情がクテンを見る。
クテンはそれで引き攣った口元を隠すために構えた扇子が、横からだと見えてしまっている事実に気がついて、緊張を悟られたことに照れ隠しから眉を寄せた。
「クテン殿は特殊な事情で抗毒薬を必要としない。ある程度の毒なら一日休むことで回復し、また毒見役として姿を見せることができる」
おお、と響めく声が聞こえて、その声の方向から様々な視線を感じた。
クテンにはそれが羨ましいからか、妬ましいからか、はたまた両方かはわからなかったが、抗毒薬の副作用を知っている身としては納得のできる感情だと思った。
「ゆえに、抗毒薬を厭う者も、抗毒薬が間に合わずに命を落としてしまうことを恐れる者も、安心するが良い。其方等の知る者達が命を落とすことは、もう暫くないだろう」
歓喜、疑念、そして畏怖。
崩れた無表情と共に様々な感情がクテンに向けられ、クテンはふと、王と会う前に連れて行かれた場所で交わした会話を思い出した。
『お主には大抵の毒が効かないのと同時に、抗毒薬もまた、効かなくなっている可能性が高い』
『……え?』
『お主の身体に吸収された毒は、お主の身体の中で消えていく。そうなると、お主にとっては毒に対抗するための薬なんて、最早毒と同じになるのだよ。理解できるか?』
『……あたしにとって、薬は薬ではない、ということ?それじゃあ、副作用はどうなるの?』
『恐らく、抗毒薬の寿命を削る副作用はなくならない。いや、そもそも、お主は十年以上も毒を受け続けたことで、その身の生きる時間は大幅に狭まった。それこそ、抗毒薬を一年飲み続けたくらいじゃ、お主には届かないほどな』
『……抗毒薬を一年……だいたい、五年くらい?』
『なんだ、お主、抗毒薬の知識があるのか。……そうか、それなら曖昧にしておくのは良くないのだろうな。明言しておこう』
『お主の寿命は、恐らく――』
「さぁ、クテン殿。本日の仕事をお願いしても?」
「……ええ、お任せを」
羨ましさも、妬ましさも、何も知らなければ感じて当然のもの。
クテンは恐らくそれを知っていて、敢えて“暫く”という言葉を使ったのだろう王に扇子を閉じて軽く頭を下げると、階段を下りて食事場所へと移動した。
それに伴い後ろからトテンの着いてくる気配がして、クテンは主として相応しい姿を見せられただろうかと、僅かに息を吐いた。
きっと、悪くはないものだったはずだ。
と、そう考えていると、不意にクテンの耳に低い淑女の声が入ってきた。
「でも、たかが毒見役風情が、正式な場にアンドロイドを連れ込むなんて。非常識ね」
ぴくりと扇子を持ったほうの手が震えたことに、誰も気づいていなければいいと、クテンはただ料理の置かれた場所に琥珀を向けて思う。
無表情からは伺い知れない感情を胸に秘めて、適当に目についた料理を食べたとき、頭痛がした。
しかし怒りのままそれが頭痛だと気づく前に、クテンは次の料理を口にして、そして。
「クテン殿っ!」
落としたカトラリーが音を立てて、追うようにふらついた身体が硬い何かに支えられる。
クテンはそれが誰のものかを察して、何かを言いたげに力の入った鈍い青緑を弱く掴むと、ゆるく首を振った。
『そのアンドロイドは現存するアンドロイドの中で唯一人間と同じように言葉を話せるらしい。だから、貴女が仕事をするとき、外出をするとき、そのアンドロイドは喋らないようにしたほうがいい』
打ち合わせの最後に言われた忠告を、決して破ってはいけない。
誰かにトテンを奪われるかもしれない状況なんて、あって然るべきではないのだ。
クテンはもしも今日の料理に毒が入っていた場合の打ち合わせ通り気力を振り絞って王へ頭を下げると、半ばまで上げたところでトテンの胸に倒れた。
遠くなっていく王の言葉と、自身を抱え上げるトテンの腕の感触を最後に、クテンはたった数分で初仕事を終えたのだった。
「……?トテン?」
目が覚めた最初は額に冷たい布が乗せられていることに気がついて、次は象牙色を包む白手袋に気がついた。
これは確か、仕事の前に着替え、化粧などをする準備部屋として用意された部屋でトテン用に置かれていたものだと思い出しながら、クテンは黙り込むトテンの名前を呼んだ。
それでも黙ったままのトテンに困り果て、ここは家なのだから喋っていいのよとクテンが言おうとしたとき、その静かな声は部屋に響いた。
「……神の御許へ、参られるのですか」
クテンは一瞬何を言うのかと瞠目し、それが本気だと理解すると、「まさか」と首を振って笑った。
「神様は平等なのよ」
揶揄うようにそう言って、心做しか落ち込んで見えるトテンを励まそうと昔読んだ本の内容を思い出しながら語り出す。
「誰が何をしようと、誰が何を願おうと、いつ笑おうと、いつ泣こうと、どこで生きようと、どこで死のうと、静粛に、厳粛に、どこまでも平等に、あたし達を見守っていてくださる。だからこそあたし達は、自由に生きて、自由に死ぬのよ。……お傍になんて、誰も行けやしないわ」
言い切って、そもそもトテンを励ますだとか、慰めるだとか、そんなこと意味がないのにと少し恥ずかしくなって笑う。
そんなクテンを見ながら、トテンはまるで抑えきれない激情を滲ませるようにその言葉を吐き出した。
「それなら、クテン様が生きるのも、自由なのではないですか」
クテンは思わず面食らって、けれどそれに何かを返す意味もないと、誤魔化すように笑った。
そうして何か消化にいいものをトテンに頼むと、クテンは誰もいなくなった部屋で一人、“自由”という矛盾に薄く笑って、微かな自虐を琥珀の陰に宿した。
「――クテン様?」
稍あって、用意していた料理を持って入ってきたトテンには、瞬きで消えたその感情を、琥珀から読み取ることはできなかった。