どうやら思い違いだったようね
その夜の仕事は滞りなく進んでいた。
将来重役となる可能性のある者を見極めるため、能力の高い者を集めた食事会。
王族はいなくとも食事会の目的を考えれば当然、この国の重役達がそこらで誰かと談笑していて、クテンは毒見役が必要になるのも頷けると納得した。
いくら最終手段の抗毒薬があろうとも、これだけの重役達が一時的に活動不能になってしまうのは、王家にとって痛いものがあるのだろう。
と、クテンがそんな裏の事情を推している間に、この食事会の取りまとめ役が開始の音頭を取った。
開始から稍あって、クテンは漸く最後の料理に手をつけた。
目的が目的だからか、心做しか主食よりも一口で食べられる菓子などの量が多いように感じつつも、クテンはお洒落な硝子の容れ物に複数個入った焼き菓子を摘まむ。
肝心の毒はないようで、クテンは無事仕事が終わったことを確信して軽く息を吐いた。
後は持っている食器類とカトラリーを下にある箱に分けて入れ、クテンがこの場を離れれば、周りの紳士淑女は食事会の名に相応しく自由に食事を開始できるだろう。
そう考えながら残りの菓子を摘まんでいると、仕事が終わったことで気が抜けたのか、やっぱりトテンの作る菓子のほうが美味しいわと、クテンの頭にいつもの考えが過ぎった。
一緒に育てた赤い実の砂糖煮を使った焼き菓子が、クテンにとって大のお気に入りだったりする。
きっと頼めば作ってくれるだろうと僅かに頬を緩めて、クテンはふと、そういえば昨日はこれを考えているときに毒に当たったのだと思い出した。
トテンが小さくクテンの名前を呼んだのは、そんな時だった。
クテンは丁度空になった食器類やカトラリーを順番に分けて入れ、愛用の扇子をトテンから受け取る。
その際にクテンから見て右に軽い力が込められたのを感じて、クテンは右に何かがあるのだと察した。
周りが騒がしいことにはその時に気がついて、クテンは訝しげに右を見ると、そこには随分と珍しい光景があった。
毒見をしているクテンとその斜め後ろに控えるトテンを中心にできた空間に、もう長い事誰も踏み入ったことはなかったというのに、なんと見慣れない深紅を纏ったご令嬢と紺の正装を着こなす紳士が、躊躇なくクテンの元へと歩いてきているではないか。
「アーバエイ様、本日も御機嫌麗しく」
背の高い男性が両腕を広げたくらいの距離を残し、紳士は足を止めて早々にそんな前向上を口にした。
先手必勝とばかりに繰り出されたそれは、クテンにとって一年以上前に潰えて久しかったもので、クテンは一瞬動揺を隠せずにその琥珀を揺らす。
しかしそれ以上の変化は見せることなく、誰かが気づく前に表面上を整えると、自然な間を置いて同じ言葉を澄ました顔で返した。
「それで、本日はわたくしに何か御用でも?」
用事がなければ“しがない”毒見役のクテンに話しかけるなんて酔狂な真似はしないだろうと、クテンはほんの僅かに隠しきれていない怯えにも畏怖にも似た感情を敏感に感じ取りながら切り出した。
けれど隣で堂々と立つご令嬢からはそういった感情を感じることはなく、寧ろクテンはご令嬢がトテンを見る視線のほうが、周りの注目やこの状況を話の種にされていることなんかより気になって仕方がなかった。
「ええ、どうやらこちらの、私の娘がどうしても貴女に言いたいことがあるらしく」
クテンは一度ゆっくりと瞬いて、視界の端で認識していた深紅のご令嬢を正面に捉えた。
「御機嫌よう、アーバエイ様」
「……ええ、御機嫌よう」
クテンと同じか、それよりも少し若いくらいの娘だった。
にっこりと微笑む表情は淑やかとは遠いが十分に可愛らしく、鋭い視線も共に笑ってくれていれば、クテンは嫌な予感を覚えることなく挨拶を返せたのだろうか、なんて詮無いことを考える。
「貴女に譲っていただきたいものがございますの」
笑顔を消してクテンを見据える、その視線の強さに心の中で軽く眉を寄せると、クテンは平然とした態度で言葉を返した。
勿論、少しだけ首を傾げることも忘れない。
「譲っていただきたいもの、とは?生憎とわたくしには、人様が望むようなものに心当たりはございませんが。……聞くだけ、聞いて差し上げましょう」
微かにいい度胸だとか、どうなるんだとか、この状況を面白がる周りの声がクテンの耳に入る。
しかしそれよりもクテンは、ご令嬢がその視線をクテンの後ろに向けたことで確定した嫌な予感に、鼓動が早くなるのを抑えられなかった。
胸元を押さえようと動いた手の衝動を扇子を握ることで誤魔化し、そんなわけないと自身を騙そうとして、そして。
「そのアンドロイドが欲しいの、アーバエイ様」
「っ!?」
広間は一瞬にして静まり返り、今度こそ周りの視線全てがこの場に集まった。
一層大きく身体に響いた鼓動を、衝動的に振り返ろうとした身体を、クテンは扇子を握ることで誤魔化す。
対する紳士も“言いたいこと”の内容は知らなかったのか、譲ってほしいものが何かを知らなかったのか、隠しきれなかった驚きの視線を隣に向けると、自身の娘に何かを言おうとして、何も言えずにその口を閉じた。
「だから、頂戴?」
派手な深紅の扇子で顔半分を隠し、あざとい動作で首を傾げて強請る。
ちょっとした背伸びだと微笑ましく思われそうな深紅の紅をさした唇が、同じ色の派手な扇子に隠される前に吊り上がったのを、まるで他人事のように感じて、クテンはくらりとした。
くれるでしょう?と、声にならなかった言葉が、確かにクテンの耳に届いて。
「なるほど」
「……アーバエイ様?」
クテンは扇子を握りしめた。強く。
「わたくしのものが欲しいと、そう仰るのね?」
身体の中心から冷えていくような心地だった。
訝しげな紳士の声も、周りの紳士淑女の視線も、今のクテンには届かない。
隠されない期待が「ええ」とクテンの問いに頷いて、決定的な一言を待つ。
ゆえにクテンは、叶えてあげることにした。
「そう。なら、いいわ。譲ってあげる」
瞬間、驚きに多様な反応を見せた周囲を視界には入れず、クテンはただ目の前を見続ける。
そうして確かに浮かんだそれは、歓喜。
一瞬にして目が口以上に語ったその言葉こそを、クテンは待っていたのだ。
「けれど」
形式として感謝の言葉でも紡ごうとしたのか、開かれた深紅の紅が音を発する前に遮って、クテンは首を傾げてみせた。
「貴女にトテンを譲ったわたくしは、もしかしたら、家から出なくなるかもしれないわね」
誰もがクテンの言葉の意味するところをすぐには理解ができず、突然何を言うのかと眉を寄せるが、クテンは気にすることなく続ける。
「もしそうなったら、勿論、当たり前のことだけど、きっとトテンを連れた貴女は、わたくしの代わりに、毒見をしてくださるのでしょう?」
「!?」
ゆっくりと、まるで出来の悪い子供に言い含めるような言葉が、静かな広間に響いた。
見開かれた瞳が皆一様にクテンを映す。
「……そ、それはおかしい!そんなアンドロイド一体で、何故私の娘が命を落とさなければならないのだ!」
驚きから戻ってきて早々、理不尽だとクテンを睨む紺の紳士は、自身の娘のことだからか態度が強い。
クテンは返事をすることなく、唖然としたままクテンを凝視するご令嬢に琥珀を向け、次に紳士をそれに映すと、扇子を持っているほうとは逆の手を持ち上げて人差し指を自身の顎に置いた。
「おかしいわねぇ……もしかして皆様、わたくしがトテンと二人暮らしなのをご存知ないのかしら」
そうして、何故、という問いに返されたのは答えではなく、そんな独り言だった。
独り言というには静かな広間によく響いた言葉で、誰かに聞かれることを目的に零したものだったけれど、それでも聡い者はその言葉でクテンの言いたいところを、ご令嬢の望みが叶った場合の未来を悟り、青ざめた顔でクテンを見ていた。
「確かにトテンは炊事に洗濯、そして掃除といったものから、庭仕事も畑仕事もできる優秀なアンドロイドよ。けれど、それを毎日二人でやっているのに、突然一人になってしまったら、きっとわたくし、生きるために必要なことのために屋敷から出られなくなるわ。城で毒見役なんてしている暇はなくなるのよ」
下ろした手を扇子を持った手に重ね、体の前に置くと、クテンは「理解できたかしら」と言って、青ざめる紳士を尻目にご令嬢を見つめた。
「だからこそ、そうして空いた役目を次に受け継ぐのは、誰になると思う?」
細めた琥珀が紳士の目の動きを捉えるのと、周囲の視線がご令嬢に集まったのは同時だった。
「もう一度言うわ。もしわたくしが屋敷から出なくなったら、当たり前のことだけれど、責任を持って、貴女が毒見役になってくれるのでしょう?」
いつの間にか隠れてしまった派手な深紅の扇子の奥、その顔にどんな表情が浮かんでいるのか。
全ての視線から守るように広げられた深紅を持つ手が、心做しか震えて見えた。
「ああそれと」
しかしだからと言ってクテンに言葉を撤回する義理もないし、続きの言葉を止める切っ掛けにもならなかった。
なんだ?といくつか戻ってきた自身への視線を受け止めて、クテンは長かった前置きを終わらせ、本題へと移る。
「もしトテンを譲り受けた貴女が、その後どれだけ生きていつ死のうとも、わたくしには関係のないことだわ。だって、きっと今日を最後に、わたくしは城に来なくなるもの。どうかわたくしのせいで、などと呪わないで頂戴ね?」
ご令嬢へと向けられたその言葉に、その場の紳士淑女は一様に言葉を失った。
それはつまり、トテンを譲ることでご令嬢が命を落とそうと、その次の毒見役が命を落とそうとも、クテンは二度と毒見役に戻ることはないと宣言したも同然だったのだ。
クテンはそれを周囲の紳士淑女を含めたこの場の全員に理解してもらうため数秒の間を置くと、微動だにしないご令嬢に最後の言葉を投げかけた。
「何人どころじゃない。これからの未来で何十人が落とす命の原因に、貴女がなるのよ。それを理解した上で、答えて頂戴」
固唾を呑んでクテンとご令嬢を見守る周囲の視線を強く感じて、クテンは少しだけ身体から力を抜く。
最初の控えめな視線もここまで来てしまうと、普段のクテンなら臆していたかもしれない。
しかし今は、寧ろクテンの身体に入り過ぎた力を抜くための良い刺激だった。
「わたくしのものが欲しいと、望むの?」
変な力の入っていない、ごく自然な問いかけが響いた。
動きを見せないご令嬢にまた視線が集まって、隣からは選択肢への圧力が襲ってくる。
しかしご令嬢はその圧力を無視して返答に数十秒の間を置くと、重い空気の中、顔を隠していた派手な深紅の扇子を下ろして、そして。
「望むわ」
空気が、凍った。
クテンの身体も凍りついて、頭から足の爪の先まで冷えきったような感覚だった。
遠くを見ているような視界にご令嬢の隣で青くなったり赤くなったりする紳士の様子が目に入る。
稍あってその口が娘に対する言葉を紡ごうとしたとき、それを遮るようにご令嬢が言葉を発した。
「わたくしはそこのアンドロイドが欲しいの。けれど、毒見役はしたくない。絶対に嫌よ。だから、貴女は毒見役を続けるの。その代わり、貴女の生活の面倒はわたくしの家が見てあげるわ。それなら、生きていくことくらい簡単でしょう?」
おお、と、前半の我が儘にいったい何を言うんだという視線をご令嬢に向けていた一部の紳士淑女が響めく。
折衷案を出したご令嬢の得意げな表情がクテンに向けられていて、ゆえにご令嬢は、一部の紳士淑女が更に青ざめたことには気がつかなかった。
「そもそも、何十人どころか何百人、何千人の命を奪い続けるのは貴女よ。最初に命を落としてしまったわたくしより、たかだかアンドロイド一体を失ったことを理由に屋敷に引きこもる貴女こそ、原因よ!貴女が辞めたことで落とした命を尻目に尚生き続ける貴女こそが、何千人に恨まれて然るべきだわ!」
一先ずの役目を終えて動きを止めた深紅の唇が吊り上がる。
今度は隠されなかったそれは、恐らく勝利を確信したゆえの笑みで、黙っているクテンの視界に堂々と入りこんだ。
しかし、確かにと、その通りだと、異口同音に頷く紳士淑女の中に、青を通り越して白くなりそうな顔色の者がいることは、周囲を視界に入れていないクテンは何より、自分の言葉が通ると信じて疑っていないご令嬢も、ご令嬢の正論に興奮している者達も気がつくことはなかった。
だからこそ、一部を除いた誰もがその場はもう完全にご令嬢のほうに風が吹いていて、クテンが折衷案を受け入れる以外の流れはないかのように思えていた。
ゆえに。
「――なるほど」
その一言で、たった一瞬で、広間は沈黙に支配されたのだ。
決して大きくはないクテンの声が聞こえた者はそのあまりの冷えきった声色に、聞こえなかった者は反射的に見たクテンの雰囲気の冷たさに。
紳士淑女は皆、転々とする流れを簡単に捕まえてみせたクテンのそれに絶句した。
「貴女、頭は良いと思っていたのだけれど、どうやら思い違いだったようね」
高慢で我が儘な性格、突飛な発想と行動力には難があるが、度胸があり、クテンの遠回しな言葉を聞いて理解はできる将来有望な頭脳を持っている。
きっと有能な者はどんどん召し抱えたい国の期待株なのだろう、と、それがクテンのご令嬢への印象だった。
クテンは目を瞬いているご令嬢に冷えきった琥珀を向け、剥がれた外面に唖然とする紳士淑女にも聞こえるように強い響きで言葉を続けた。
「良い?今から言うことをよく聞きなさい」
一度も変わらなかった仮面のような顔に薄い笑みが浮かび、笑わない琥珀が深紅を射抜く。
「わたくしのものが欲しいと望むのなら、死になさい。“こんなアンドロイド一体”のために、何千人の命を積まれようとも、わたくしは躊躇いもしないわ」
吐き捨てた言葉が本気であると、その場の誰もが悟った。
「奪われたくないから奪ってやるのよ。それをわたくしからトテンを奪おうとしている貴女が嫌がる権利は本当にあるのかしら。とっても面白い冗談ね」
紅をさした唇が笑わない琥珀と真逆の形を作り、クテンはずっと持っていた愛用の扇子を持ち上げる。
開かれた扇子に隠れる顔半分が、わざとらしくにっこりと笑った。
「さぁ、その何も詰まりきっていない脳みそ働かせて精一杯考えてご覧よ。今この場で言いべき言葉はなんなのか。結論くらいは、聞いてあげるわ」
それは、クテンに好意を抱いていた者や蔑んでいた者、どうとも思っていなかった者を問わず、その場にいる全ての紳士淑女に衝撃を与えた。
ただそこにいて、料理を食べるだけの者が、この国において誰よりも圧倒的な有用性と必要性を武器に、自らの必要とするものを奪われないよう過激なまでの迎撃をして降りかかる火の粉を払う。
誰もが衝撃から立ち直れない中、誰よりも早く動いたのは、やはり紺の紳士だった。
「大変な失礼を、致しました……っ」
今にも倒れそうな顔をして、土下座せんばかりの勢いで深く頭を垂れる。
それを見たご令嬢もどこか悔しげに頭を下げ、クテンの問いに答えた。
「……アンドロイドを、望みませんわ」
それに口角を上げて満足げに頷いてみせたクテンの後ろ姿を、トテンは誰も気がつかないほどの感情を石英に宿して見つめていた。