馬車の用意を、して参ります
今日も元気に屋敷を照らす太陽の光が、窓掛けに遮られてクテンの元に届かない。
辛うじて射し込む一筋もベッドからは逸れていて、そんな薄暗い部屋の中だった。
静かな空間に小さく響く水の跳ねる音を切っ掛けにクテンの意識は浮上し、ベッドの傍で動く慣れた気配を感じ取ると重い瞼を上げて、クテンは寝起きの霞む視界に鈍い青緑と白の何かを見た。
そして直後、クテンはひんやりと冷たい布が額に当てられた衝撃で反射的に身動ぎし、それに気がついたトテンがぼんやりとした琥珀を覗き込む。
「もう、お加減はよろしいのですか」
「……ええ」
案じるような声音が優しく響いて、クテンは無意識に石英から琥珀を逸らした。
そうして視界に入ってきた時計を何気なく見ると、どうやらあの出来事から半日は経っているらしい。
そう、あの出来事、と、クテンは蘇ってきた記憶を整理した。
昨日は珍しく仕事ではなく客として招待された。
王妃主催のお茶会で出す菓子に毒など入っているわけがないとクテンの毒見役としての仕事を拒否し、他のお客様と同時に料理を食べさせた。
その結果、クテンが口にした毒は油断しきった招待客達の身体に入ってしまった。
抗毒薬は間に合っただろうか。
命を落とした人がいなければいい。
と、クテンはそこまで考えが纏まったところで不意に視線を戻し、薄墨のベッドから一歩離れたところで佇むアンドロイドを琥珀に映した。
窓掛けの隙間から漏れる光がトテンの上と下の繋がった作業着に当たり、鈍い青緑を僅かに照らす。
首から足首までを隠すそれはトテンの全身を違和感なく覆っていて、剥き出しの手首から先は白手袋で隠されていた。
「……トテン」
「はい」
汗でべたついていない身体を包む薄墨の寝間着や、化粧を落とされたらしくどこか軽い顔の感覚に、恐らくトテンが行水を使ったのだろうと察する。
ゆえに、クテンは思ったのだ。
今こそが、“最適”な時なのではないかと。
「貴方があたしを心配する機能って、どうしたら止められるのかしら」
「!?」
驚いたように息を呑む、その反応。
「ずっと思っていたのよ。貴方に心はないはずなのに、まるで心があるような反応ばかりする。あの天才機械師は、本当にとても優秀な機能を付けたと」
「クテン様」
何を言おうとするトテンの呼びかけを無視して、クテンはその心を打ち明ける。
「二年も、二年もよ。貴方はあたしに沢山の反応を見せてくれた。もう、良いんじゃないかしら。だから……っ」
何が良いのかと、クテン自身はっきりとは認識していなかったそれを改めて考えて、クテンは突然思い浮かんだ事実に絶句した。
そもそも、トテンに心があると思っていないのなら、クテンの心をわざわざ打ち明ける必要もないのだと、この時に初めて気がついたのだ。
いつトテンに切り出そうか、なんて、相談する前に使うような前口上ばかり考えて、その行為自体がトテンに心があることを前提にしたものであることに欠片も気づくことはなかった。
「クテンさま」
動揺して閉口したクテンの名前を不思議な声音で呼んで、トテンは一歩踏み出した足とは逆の足を床につけた。
見上げる必要のない高さで石英がクテンを見つめ、逸らすことが許されないような近さで琥珀を捉える。
「クテン様には、絶対の主が消えてしまいそうになる度に、わたしがどのような想いでいるか、ご理解いただけないのでしょうね」
どこか切なくも感じる、諦めているような、詰っているような、何かを願っているような、その全てのようなそれは、クテンの心に柔らかな衝撃を与えて。
「確かにこの鉄に流れるものは何もありません。ですがどうか、この心は確かなものであると、クテン様にだけは信じていただきたいのです」
そう言い募るトテンの言葉が、どんなに強い毒よりも強く、クテンの心を揺さぶった。
――殺されそうだと、思ったのだ。
ゆえにクテンは数秒の間、その琥珀を隠して俯くと、静かな声で決定したそれを告げた。
「……城へ、行くわ」
「クテン様?」
「準備ができたら、呼んで」
「クテン様っ!」
どこか必死な呼びかけに、それでもクテンは俯いたまま反応を示さない。
「……馬車の用意を、して参ります」
やがて、複雑に光を反射する石英が薄墨を見ると、まるで無理やり絞り出したようなそれを主に告げた。
そうして名残惜しげな履物の音が遠くなると、クテンは布団の中で丸まるようにして身体を曲げる。
「……貴方に心はないの。ないの、よ」
一人になった部屋で、クテンはいったい誰に向けてそう言い聞かせているのかも理解できていないまま、柔らかな布団に顔を埋める。
微かに震えた息を吐いて、“トテン”の三文字を形作った唇が、その心を音にすることなく、閉じられた。
探すように動いていた琥珀が細まり、見つけた目的のものの前に立つ。
叩いた扉が音を立てて、それに中から「はーい!どうぞー」という聞き覚えのない声が返事をした。
クテンは少し驚いて、ここで合っているのだろうかと取っ手を掴んだ手から軽く力を抜いた。
しかしこうしていても詮無いことだと首を振って躊躇いを消し、クテンは扉を開く。
そこで湯呑みを片手にこちらを見ていたのは、確かに二年前見た天才機械師の男で、クテンはここが目的の場所で合っていたことに軽く息を吐く。
それから近くで「いらっしゃいませ」と微笑む女性が先の声の主であることを理解して、クテンはこの作業室に女性がいることを不思議に思いながら「失礼致します」と会釈した。
「いらっしゃい。っと、ん?……もしかしてあん時のお嬢ちゃんか?」
「え、ええ」
クテンがどうぞと女性に促されるまま長椅子に座ると、あの時とは随分違う態度の男がそう言って、戸惑いながら頷いたクテンを意に介さず弾丸のような言葉を吐き出し始めた。
「元気だったか?元気みたいだな。顔色が良いし。っと、後ろにいるのはあのポンコツアンドロイドか!いやぁ、久しぶりだなぁ」
トテンを見ているのだろう男の懐かしそうな目がクテンに戻ると、どこか楽しそうな顔になる。
「それで、わざわざお嬢ちゃんからここに来てくれたってのはどういう案件なんだ?大方そこのポンコツアンドロイドのことだとは思うが、そんな思い詰めたような顔して来るほどだ。遂に何かやらかしたのか?」
まるでからかうようにそう問われて、クテンは殆ど面識のない男に気づかれてしまうほど顔に出ているのかと思わず俯いた。
しかしそこで「どうぞ」と置かれたお茶に思わず「ありがとう」と返して、クテンは反射的ににっこりと笑う女性を琥珀に映した。
「ごゆっくりどうぞ」
女性は楽しそうにそう言って踵を返すと、お盆を片手に立ち去る。
その姿をクテンは結われた長い髪の先が見えなくなるまで眺め続け、やがて扉の閉まる音が響くと、黙ってクテンの返事を待ち続けていた男を見た。
「……本日は、貴方にお尋ねしたいことがございまして」
「おう」
強い琥珀を見返す、楽しげな男の眼差しが僅かに鋭くなったような気がして、クテンは少し躊躇った。
けれどここで黙り込んでいても話は一向に進まないだろうことは理解していて、ゆえにクテンは数瞬の間を置き、漸くその言葉を音にする。
微かに、後ろから布擦れの音が聞こえた気がした。
「トテンの感情を表す機能は、どうやったら停止させられるのでしょう、か」
停止、のところで張り詰めたような雰囲気を纏い出した男に、クテンは尻窄みになりつつもそう言い終えて、黙る。
それはただ返答を待つためだけの沈黙ではなく、顔色を変えた男に驚いたクテンが、その男の様子を伺って心の内を探ろうとしたゆえのものだった。
決して後ろを振り向きたくない状況で、前からも顔を逸らしたいような反応をされて、クテンは何かを誤魔化すようにお茶を頂いた。
「……やっぱり、そいつはポンコツだった、ってことだな」
湯呑みを置いたクテンにかけられたのは、そんな言葉だった。
きょとんとした琥珀が瞬いて、クテンは心做しか悔しそうに見える無表情の男を見つめる。
「お嬢ちゃん。だから俺はあの時、そのポンコツを造った責任で天才機械師…いや、機械師を辞めると口にしたんだ」
話が始まったのは唐突で、それはクテンの質問に答えていないものだった。
けれどクテンは何を思おうとも黙って聞き、遣る瀬無さそうに天井を仰いだ男を見続ける。
この男が意味のないことを話すような男だとは思えなかったからだ。
「そんなポンコツ、誰の幸せの役にも立てやしない。完成した瞬間、そいつがおはようございますと言った時、俺はなんてもんを造っちまったんだと、心から絶望したよ。だからその気持ちを王に伝えて、処分の許可を取ろうとしていたときだ」
天井からクテンへと視線を移し、男は感情の読めない琥珀を見据えた。
「お嬢ちゃん、毒見役を頼まれていたんだってな。その交換条件に過分な贅沢を望まなかったのは好感が持てる。だが、その代わりにと望んだものがそのポンコツだったとき、俺はどうしていいかわからなかった」
男が何度かトテンを見て自嘲気味に笑うのを見ながらも、クテンは何も言わずにただ話を聞き続ける。
「あれよあれよという間にそのポンコツはお嬢ちゃんに渡され、服まで仕立てて、お仕事の度に面倒を見させて、気づけばほら、二年が経っちまってる。ああ、長かった……」
なかなか話の核心に触れようとしない男に、それでもクテンは黙って答え合わせを待っていた。
「本当はもっと早いと思っていたんだ。そうしたら俺も変な期待なんて持たなかったのに……なぁ、お嬢ちゃん。いったいそいつのどこが気に入って二年も耐えたんだ?今日の訪問だって、きっと違うんじゃないかと希望を抱いちまってたよ。……それくらい、二年は、長いんだ」
しみじみとそう言った男の中ではちゃんと繋がっているのだろうか。
先程と少し変わったように感じる話の内容にクテンは軽く琥珀を細め、けれど何かを言うことなく黙り続ける。
「なぁ、お嬢ちゃん」
そうして漸く、クテンの待ち望んでいた答えは示された。
「そのポンコツに、感情を表す機能なんて、ないんだよ」
「――?」
然して待ち望んでいたはずの答えは、クテンの思考も身体も、呼吸すらも止めた。