あたしは、死ぬの?
毒見役は夢を見る。
そこは、暗い闇の中だった。天井の一箇所に大きな窓があり、そこから漏れる月や星の微々たる光以外に光源はない。
光の射し込む位置に積まれている、何度も読み返した暇潰しの本が、微かな光に照らされた一番上の本の題名を昏い琥珀に映す。
『毒の攻撃 前編』
暇で暇で仕方がなくて、どんなに飽いても暇に耐えられなくて読んだ本のうちの一冊。
今この瞬間、きっと途中いくつかの頁が飛んでもよければ諳んじることも容易いほど。
それは毒の薬の作り方、そしてそれに対抗する抗毒薬の作り方まで、前編後編に分かれて多くのレシピが記されている。
それぞれの効能から効き始める時間、そしてちょっとした作者の一言なども今この瞬間、本の頁を開いて一行目から読んでいるかのように思い出せる。
ゆえに薄い布団の中、今日も今日とて睡魔が襲ってくるまでの間、覚えている本の内容をぼんやり反芻していたときのこと。
「隠し、通路!?」
「なんだと!?こんな何もないような空き部屋に隠し通路が……いや、だからこそ、ということか?わかった、私が先を行く!お前は後から来い!」
「はっ!」
滅多に聞かない人の声が、威圧するためにか音を立ててこちらに向かってくる誰かが、確実にここへと近づいていて、そして。
「……なに?」
誰かにかける言葉を口にしたのは、いったいいつぶりだったのか。
人工的な光に照らされ、その眩しさに思わず眇めた琥珀は、目の前にいる人物が持つ威嚇のための刃物を映すことはなかった。
「これよりお目見えしますは我らが御国の最高位に御座す御仁。決して失礼のないように」
そう言い終えた女性の手によって開かれた扉の先、何もかもを威圧するような雰囲気の、その人はいた。
「中へ」
雰囲気に呑まれ、思わず鷹揚に頷いたその人の言葉のまま前に進めば、後ろから「それでは」と扉の閉まる音がして、驚きに目を見開いた。
どうすればいいのかも、何を言えばいいのかも、いったいどんな言動が失礼にあたらないものなのかもわからないまま、ただ黙って立つことしかできない。
「……さて」
とりあえず、とソファに座るよう促した言葉にどう返せばいいかわからず、軽く頷いて従うが、この少しの言動ですら失礼にあたってはいないかと不安になった。
「名はクテンで合っていたか?」
「……ええ」
一瞬の違和に逡巡して、しかしそう呼ばれていた記憶が確かにあると思い直したゆえの間だった。
けれどそんなクテンのぎこちない様子を所作がわからないせいだと解釈した目の前の人は、クテンに礼儀は気にしなくていいと言う。
この国最高位のその人、詰まるところの王は、どうやらクテンがこういう場での言動を知らないことを理解しているらしいと、クテンは僅かに緊張を緩めた。
「……聞いてもいいかしら」
王へと真っ直ぐに向けた琥珀に、様々な感情が渦巻いては消える。
意を決して言葉を発したクテンは、軽く息を吐いて雰囲気を変えた王の許可の言葉に軽く俯いて、視線を戻した。
先程の威圧するような雰囲気は消え、真剣な眼差しをこちらに向ける姿は、その態度で何を聞いても答えると示しているようだった。
「あたしは、死ぬの?」
ゆえにクテンはそう問うて、目を瞠ったその人に感情の読めない視線を返した。
「……死んだほうがいいと、そう思うような人生になるかもしれない。クテン、貴女は自分の身体についてどこまで理解している?」
雰囲気と共に言葉遣いもクテンの理解し易いものに変わっていて、クテンはまた少し緊張を緩めた。
しかし考えてみても、クテンには王の言いたいところが理解できない。
「どこまで、とは?」
伺うように琥珀を細めて、クテンは質問に質問を返した。
失礼がどうとかは、もう思考の外に捨てていた。
「なるほど。では、クテン。こちらが調べでわかっている貴女の生い立ちを、一から確認しようと思う」
クテンは僅かに琥珀を揺らして、数秒瞼を閉じた。
「――ええ。お願いするわ」
強い琥珀の眼差しに「心得た」と頷いて、王はゆっくりと情報の摺り合わせを行った。
「クテン、貴女はこの世に産まれ落ちて平民として暮らしていた。しかし五歳になって間もなく、貴女の両親は殺されてしまった」
ぐっ、と噛み締めた奥歯が痛むほどの力で耐える。
クテンは無言で頷いて、様子を伺っている王に話の続きを促した。
「家に帰らない両親を探していたとき、貴女は人混みの中で兵に運ばれていく血だらけの両親を見つけた」
「……最初はわからなかったわ。けれど、手首につけていたお揃いの装飾品が両親のものだった。そして、もう死んでいるらしいことを周りの人の話で知って、あたしはその場から逃げ出した」
そこで腫れ物に触れるような視線を感じたクテンは、もう当時の感情を引き摺っていないことを示すため王を強く見返した。
王は暫しして心得たと言うように頷くと、また真剣な態度で話を続けた。
「そうしてあの男爵家に攫われた。男爵家についてはどこまで理解している?」
「……そうね、あの家は私以外にも子供を攫っていたことは理解しているわ。たまに子供の喚き声が聞こえたこともあるから」
性別はわからなかったが、子供特有の高い声が壁を越えてあの静かな闇に響くのだ。
クテンは少し黙って、視線を逸らす。
「あの家は、攫った子供に毒を与えて、それで生きるか死ぬかを愉しんでいる」
そんなクテンの吐き出すような言葉に、王は耐えるように瞼を閉じて黙った。
「……あの男は、気分によって子供に与える毒を変えていた。いったいどこから手に入れたのかは知らないが、弱い毒を与え続け、ある程度耐性を持った子供に強い毒を与える。そうして死ぬかどうかを愉しんでいた。たまに気分が悪いときには耐性のない子供に強い毒を与え悶え苦しむ様を愉しむ、下衆だ」
許せないことだと、ひどいことだと断言する王を良い人だと思う。
クテンは知らなかった情報を整理して、たまに聞いていた甲高い声は、きっと耐性のない子供に強い毒を与えた際生じたものなのだろうと納得した。
「誠に遺憾であるが、それを十年以上も許してしまった私にも非はある。今回助け出せたのも貴女と他数人だけだった。きっと、何十人もの未来ある子供達が毒で命を落としたのだろうに」
王は血を吐くようにそう言って、後悔の滲む瞳を瞼に隠した。
そしてはぁ、と、震える吐息で昂る感情を抑えた王は、自身を真っ直ぐに見つめるクテンを見返す。
「貴女は、最初に少しずつ毒を与えられ、毒に耐性を持った。そして強い毒も与えられることもあったが、当時の男爵家が保有する毒の強さにそこまでの差はなかった。ゆえに生き延び、後日更に強い毒を与えられても無事次の日を迎えることができた。そうだろう?」
「……その通りだわ」
あの部屋にいた頃は理解していなかったが、言われてみればなるほど納得できる、と、クテンは感心したような声音で返した。
自分でも何故生きているのか、もしや生かされているのか、何の為にと、考えないことはなかった。
強い毒を手に入れ次第食事に混ぜられ、そうでなければ簡単に耐えられる程度の毒を混ぜられ、クテンは毎日毒を食べていた。
「そうして十年。十年の月日を、貴女は生きてみせた。最早この世に生きる者の中で、貴女以上に毒に耐性を持つ者はいないだろう。だからこそ、その耐性を見込んで頼みたい」
それは何かを開き直ったかのような、強い言葉だった。
クテンは軽く首を傾げ、続きを待つ。
「――毒見役を、引き受けてほしい」
毒見役、と、クテンはその言葉を反芻して、合点がいった。
そして理解した。
王の最初の言葉の意味、この王が俗に言う賢王であること、クテンはその頭で王の思惑を正しく理解した。
「確かにあたし以上の適役はいないわ。王よ、貴方の判断は正しい。体力もなければ知識もろくに持たないあたしは、きっと今更世に出ても苦労する。けれど毒見役を引き受ければ、いつものように毒を食べるだけで生きていける。住む場所は、きっと貴方が用意してくれるのでしょう?」
「無論、用意する」
秒を待たずに帰ってきた言葉に、けれどクテンは首を振った。
「悪いけれど、貴方の考えには穴があるわ」
「……何?」
思わぬ反論に片眉を上げた王は、それでもクテンを注意することはなく、クテンの言葉をただ促す。
クテンにはそれが予想できていて、だからこその反論だった。
「あたしは弱い毒を食べると頭痛に一時間ほど悩まされるわ。それが遅効性でも関係なく、食べてから数秒で痛み出す。それならまだいいけれど、強い毒を食べると徐々に体が麻痺していくの。そして意識を失う。半日近く寝込んで、起きたときにはもう元気だけれど、それはつまり、強い毒を食べると半日は役に立たないということよ」
王の知らないだろう情報を、短い時間だったが信頼できると判断したゆえに渡した。
クテンはふむ、と考え込んだ王を強い琥珀に映すと、ゆっくりと言い含めるように提言した。
「だから、もし毒見役を引き受けても、度々その役目を空けてしまう。王よ、あたしは貴方を信頼に足る人物だと判断した。だからこそその賢き頭でよく考えてほしい」
城に連れて来られ、侍女達に全身磨かれ、そうして着せられた渋い緑のドレスの裾を握りしめたクテンは、背筋を伸ばして真剣に問う。
クテンを毒見役に望むか、否かを。
「……クテン」
数秒の間逡巡して、王は答えた。
「どうか貴女に、毒見役を引き受けてもらいたい」
クテンは言葉の意味を殊更ゆっくりと噛み砕いて、飲み込んだ。
問いたげな琥珀に苦く笑って、王は天井を仰ぐ。
「私も貴女を信頼に足る人物だと判断した。他言無用だと心得た上で、どうか聞いてほしい」
そうしてクテンは、この世にどんな毒をも無効化する薬が存在すると知った。
「しかしその薬には欠点があって、一定の間隔で毒を無効化できない日が来る。従ってその日は城で食事会を開き、王族もその場で食事をするのだ。毒見役の主な仕事はその時だな。他にも他国の主要人物を呼んだ時や大きな集まりのある時などが出勤日になる。それでも月に一回、多くて月に二回だ。毒見役に毎日仕事してもらうわけではない。貴女の心配は杞憂なのだ」
安心させるように微笑んで、王はクテンの返答を待った。
「……なるほど。あたし以上の適役はいないわけだわ。給料はどうなるの?」
クテンも揶揄するように微笑んで、けれど明確な返事をせずに会話を続ける。
「城の一室に住んでもいいし、どこかの屋敷を譲ってもいい。たまになら遊んでもいいくらいの給金を渡そう。出勤日の知らせはその一週間前に着くよう手紙を出す。服も定期的に城に来てくれれば望みのものを作らせる。必要なものがあったら手紙で知らせてくれれば可能な限り用意する。だから、どうか毒見役を引き受けてほしい」
明らかに無礼だとクテンでも理解できることをしているのに、王は朗らかにそう返した。
今後の憂いを根絶する勢いで、きっとクテンだからこその高待遇を約束する。
ゆえにクテンは、これが本来なら何人も死んでいっただろう人達の命の報酬なのだと理解し、その上で王の幾度もの願いに答えようとして。
「――王よ!このポンコツの処分を許可してほしい!」
そして、力の限り強く開け放たれた扉と、そこから入ってきた男の声に遮られた。
「……なんだ、こんな時に。お前の造るアンドロイドがポンコツなわけあるまい。天才機械師だと自分で言っていたじゃないか」
唖然とするクテンが早めに状況を理解できるようにか、どこか説明口調のそれを有り難く噛み砕いて、クテンはなんとか理解した。
天才機械師というアンドロイドを作る男が、突然割り込んできたのだと。
「こんな、こんなポンコツ!誰の生活の役にも立てやしないさ!俺はもう、このポンコツを造った責任で天才機械師を辞めてもいい!」
状況を理解したクテンは、どうやらひどく憤慨した様子の男の視線を追い、漸く件のポンコツと呼ばれた鉄色の物体を目にして、そして、息を呑んだ。
「……」
黙り込んだ鉄色のアンドロイドの石英の瞳と琥珀が合って、離せなくなる。
「落ち着け!いったいどうしたんだ?そのアンドロイドもよく出来ているじゃないか。何がいけないんだ?」
藍鉄色の関節を除いた部位全てが鉄色の、不思議に輝く石英の瞳が印象的なアンドロイドだった。
何かを訴えてくるようなその煌めきが、クテンの何かに衝撃を与えてくる。
「こいつは――」
ゆえに。
「――王よ」
その願いは、踊るように軽やかに唇から滑り出た。
「大きなお屋敷も、遊んでもいいくらいの給金もいらない。だからある程度の畑、そして庭のある小さなお屋敷を、譲ってほしい」
石英と合わせていた視線を名残惜しく思いながらも離して、クテンはふんわりと、満面の笑顔で王に願い出た。
「それにあたしの服は質素でいいから、そのアンドロイドの服を作ってほしいわ。――二人で一緒に、暮らしていくから」
それは、クテン以外の全員を驚きに愕然とさせた望みだった。