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御前を退くことを、どうか

 新連載開始。

 慌ただしく動く人の波。どこからか聞こえる悲鳴が頭に響く。

 そんな中で、視界の大部分を占める鈍い青緑だけが、クテンの心を癒していた。


「落ち着いてください!皆様どうかお帰りにならないで!」

「医者だ!医者を呼べ!遅効性の可能性もある!お客人方、この場に留まって診察を受けてください!」


 鋭く飛ぶこの国最高位の女性の声と、その息子の指示が煩わしかった。


「……トテ、ン」

「はい」


 間髪を容れずに返ってきた声の主が、小さな声で発せられたクテンの指示を、それでも一字一句聞き漏らすことはないだろうと、この世の誰よりも知っていた。

 だからこそクテンは、今この状況で最優先に成すべきことをくらくらする頭で考えると、まるでこの場の最高権力者に対して告げるような言葉をトテンに紡ぐ。

 そうしてその言葉をどうしてほしいのかという意図をその後に続けることなく、紅をさした唇は閉じられた。


 先までは確かにトテンを映していたはずの琥珀が肌の色に隠されて、もう何も答えることはないと言うような姿だけがトテンの腕の中に在る。

 そんな、トテンが受けるには不相応な言葉を受け取っただけで、これからの指示も何もない状況に、けれどトテンは慌てなかった。

 クテンが他の誰にも聞こえないくらいの音で届けた、宛先の違う言葉だけで心得たように頷くと、トテンは力の抜けて重いだろう人一人の細い肢体を軽々と抱えあげる。


『わたくしの逸早い帰還を、御前を退くことを、どうかお許しくださいませ』


 一字一句を違うことなく、トテンはその場の最高権力者の前に向かうと、軽く会釈をして彼の主の言葉を伝えた。

 本当なら方々から無礼だ不敬だと叱られるだろう所作に構うことなく、トテンとその鈍い青緑の腕に抱えられるクテンの姿を見ることもなく、その人は「許可する」と頷いて、護衛の者と共に自らの母を別室へ連れて行った。

 トテンはそれを見届ける時間も惜しいように踵を返すと、抱え慣れた象牙色を滑る薄墨の髪とドレスが空気以外の何かにぶつからないように慎重に歩く。


「クテン様、馬車に到着致しましたよ」


 騒がしい広場も、従業員の行き交う廊下も、こっそりと帰ろうとして止められている者達の横も通り過ぎて、トテンは心做しか疲れているように見えるクテンを漸く休められる場所に辿り着いた。

 質素に見えるがその実、中に衝撃の行きづらい造りとふわふわの座席で、具合の悪い人が乗っても身体に負担がかかりづらい馬車だ。

 この国の馬車の中でも上位に食いこむだろう値段だが、もう幾度目にもなる緊急事態に対応するには、これ以外の馬車じゃいろいろと問題だったのだ。

 トテンは少し黙ると、反応しない主に「今から帰れるんですよ。帰ったらまずは行水ですかね?入浴なんかしたら倒れてしまうでしょうから」と声をかけて、石英の瞳を複雑に反射させた。


「着きましたらまた、お声をかけさせていただきますね」


 通常と変わらない声を絞り出したような様子で言うと、トテンは象牙色の肌にかかった薄墨を払う。

 そんな言葉にも指にも、クテンは微塵も反応することがなく、トテンはいつになっても慣れない引き攣れるような想いを抱えて御者席へと向かったのだった。




 招待されたお茶会というには少しばかり規模の大きいそれで、出されたお茶菓子を口に含んだときのことだ。

 心配性のトテンが突き刺さるほどの視線をクテンの背中に向けているのを感じながら、クテンは口腔の違和に眉を寄せる。

 シュッと溶けた甘さはとても美味で、流石一流の作った菓子だとこういう場に訪れる度に繰り返した思考は、しかしその違和の正体によっていつものようには続かなかった。

 慣れてしまった喉を刺すような痛みに、小さく漏れた悲鳴は引き攣れて、気づいたトテンが近寄ってくる気配がする。

 けれど痛みは気のせいだったのかと感じるくらいすぐに消えて、クテンはああ、と、思う。


 お腹、詳しく言うなら胃を中心に手足へと回るそれはクテンの身体を痺れさせ、持っていたカトラリーが音を立てる。

 ふらりと自重で椅子から落ちていく上体と、引き摺るように椅子の上を滑る臀部に膝が曲がる。

 痺れはなくなっても自らの操作権を失ったままの身体が、異様に遅い感覚の中、遂に絨毯の上に吸い込まれようとした。

 しかし小さな悲鳴を聞き逃さなかったトテンが、頽れるクテンの身体を鈍い青緑の腕の中に抱え込むと、クテンは動かない顔の筋肉を心の中で動かして笑う。


 見慣れた石英が、ただ只管にクテンを見ている。

 まるでクテンの視界に自分以外を映さないようにしたみたいに、視界の大部分が鈍い青緑に埋められていた。

 それから落ちていた沈黙が破られ、俄に騒がしくなった広間で、僅かなタイムラグもなく指示を飛ばす声が耳に入る。

 高い声も、鋭い声も、震える声も、耳に入る音の全てが煩わしく思えた。

 けれどその中で、唯一聞き慣れたその声だけは、クテンの耳に溶けるように響く。


「……クテンさま」


 湧き上がる感情を必死に抑え込んで、けれど抑えきれなかったみたいな声だった。

 そんなはずはないのに、どうしてもそう思ってしまうのは、クテンが心のどこかでそれを望んでいるからなのか。

 変わらない表情の中にある石英が、複雑に反射している。


 クテンは思わず謝罪の言葉を苦手な紅をさした唇で紡ごうとして、そんなものに意味はないのだと止める。

 ふぅ、と、気を取り直すように細く息を吐くと、クテンはこの場から離れる指示を出すためにトテンを呼んだ。

 けれどその声は枯れていて、それに返事をしたトテンの声は固くなっていて。

 ゆえにクテンはそこで、漸く理解したのだ。


 ――ああ、また毒を食べたのだと。

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