グリード&スレイブ
――奴隷として私は買われてしまいました。
両親が多大な借金を抱えて心中してしまった故の結末なのですが、彼ら曰く「あなたは幸福になりなさい。幼い命を失わせるわけにはいかない」と、共にあの世へと連れていく事はしなかったようで生き残ってしまいまして。
そもそも、生きているだけで幸福だと思っているのが貧乏人の考えなのでしょうね。
立派な家に住めるのが幸福だと思っていた人間も、地に突き落とされればご飯が食べられるだけで幸せ。ご飯を食べていた者達も、これ以上はないと思っていた底辺へと陥落すれば、屋根の下に居られればとか、健康で居られればとか――最終的には生きていられれば、とか。
そんな発想だから、私の命を奪わなかった事が優しさのように思っているんです。
――生きていれば幸せ?
生きている前提で追うべきものが幸福ではないのでしょうか。
生きている前提で逃れられぬのが不幸ではないのでしょうか。
そんな因果から外れた者達の自己満足によって祈られた幸福が今、こうして私の身分に奴隷の文字を刻んでいるのですけれど。
と――そう思いつつ、この体を購入した「主」と共に市場を歩いている私。商いの賑わう声があちこちから聞こえ、色とりどりの果実や新鮮な魚に、そのままかぶりつきたくなるような赤々とした肉。買い手を待ち望む品々が彩る店が道の両側に連なって店主は各々、客引きの文句を饒舌に語っています。
そんな道中、私の隣を歩く主――周囲を見渡してもこれほどの体格の男は見当たらぬ、高身長に筋肉質な体躯。何をも恐れぬ気迫を感じさせる立ち振る舞いで闊歩する彼の隣を私は歩いているのですが……しかし、凄いものです。主は、この国でも一二を争う大金持ちなんだとか。
手には金色の輝きを枕にして、深海のような蒼であったり、鮮血のような紅を湛えた宝石をあしらった指輪が五指、両手にはめられています。さらには主張の激しく、煌びやかな首飾りや腕輪、ピアスなどで装飾されていながらも露出した褐色の肌には禍々しいとすら表現できる刺青が施され、その描画は顔面にまで至っています。
正直、私の主でないというならばすぐにでも逃げ出したい様相の大男。しかし、「買い物に行くぞ」とぶっきらぼうに語られた、それは命令です。当然、奴隷の立場で背く事も出来ずに、奉仕の象徴たる未だに着なれないメイドの様相のまま私は市場に出向いたのですが――。
「ご主人様。失礼を承知でお伺い致しますが――本日、市場での買い物は三度目でございます。奴隷になってまだ数日、主の私生活を把握していない私ですが、常にこのような感じなのでしょうか?」
私が半ば恐れる気持ちを抱きながら問いかけます。
そう、このように市場に出向いて買い物をするのは今日だけで三度目。もう太陽は傾き、斜光を放って街並みを橙色の暖かな輝きで包んでいます。
そんな私の問いに、主はゆっくりとこちらを向き――といっても背の低い私ですので見下す形となって、私に語ります。
「お前は生きている内で、通算――幾ら稼いだ?」
もしかすると怒られるかも知れない、と思っていた私でしたが、意外にも主は怒気を込めたイントネーションという事もなくそう問いかけました。
――とはいえ。
「……そ、その質問が何か、私の問いかけの答えになるのでしょうか?」
「なるから聞いてる」
「うーん。と、言われても私は自分で言うのも変な話ですが子供でしたからね。両親に養われる身としてお金を稼いだ事はないと言えるでしょうね」
私がそう語ると主は「そうか」と言って、暫しの間を置いた後に語ります。
「人間が生きる上で進むべき道が決まっているならば……そう、運命ってもんが筋書きとして存在するならば。人間がどう働き、社会にどう貢献し、どれだけの金を稼ぐか……それもまた、運命として決まっているもんだとは考えられんか?」
「それは、そうでしょうけど……なんだか、ご主人様の口から運命だなんて非科学的な言葉が出てくるなんて、ちょっと可愛らしいですね」
私がちょっと勇気を出して揶揄するように言うと、主は「あ?」と不機嫌そうに呟いて表情を顰める。
しかし――やっぱりか、と思う私。
このように怖い表情と態度を表向きにしつつも、何だかんだで私に対して暴力だとか、或いは主の権限で横暴な命令を下したりはしない。そんな、どこか優しさのようなものが主にあるというのは、まだまだ始まったばかりの奴隷生活の中で感じていたのだった。
主は咳払いをすると、会話の調子を整えて語る。
「……俺は恵まれているのかそうでもないのか、生きている上で金を稼ぐ総量は他の誰よりも多かった。貧しい思いをしたのなんて、俺が働くという事を行うまでの幼い微々たる期間だけだ。そして――金を稼いだからこそ分かった事がある」
お金を稼いだから、分かった事?
私は反芻するように、主の言葉を胸中で繰り返します。
「つまり、貧乏人には分からないって事ですね。……それって、何ですか?」
「金に対して多大な努力を成せずに死んでいく貧乏人よりも、金のために多大な努力を成して使い切れずに死んでいく金持ちの方が――ずっと不幸だという事さ」
どこか寂しそうに語る主の言葉が、私には分かりませんでした。
私は生まれてから、これが「贅沢だ」と確信した事がなければ、「これが幸福だ」と感じた事もないのです。両親は時折、手に入れた「中の上」程度の食材をさも御馳走のように食しては「幸福だ」と口にしていたものです。
そんな感覚を――彼らは私には教えずに、ただ「幸福になれ」と。
地図も持たせずに旅立たせるように。
――まぁ、それはさておき。
「確かにお金を稼いで、さぁ使おうとなった時に死んでしまっては不幸なのでしょうね」
私が言葉に対する個人的な解釈を述べると、「分かっていない」とでも言いたげに嘆息する主。
「それは大抵、金に対してロクな努力もせずに稼ぎを得た人間の結末だ。多大な金を持って尚、生き延びる人間は真っ当な方法で努力を連ねている。そういう奴の中には、金を握れずに死んだ貧乏人よりも不幸な奴がいるんだよ」
主の言葉にきょとんとした表情を浮かべてしまう私。
「そうなんですか? もう、それだけ稼いだら遊んで暮らせそうで幸福なんじゃないですか?」
「貧乏人はそう思うのかも知れんな。ただ――人間を突き動かす欲望のキャパシティが、金に見合ってなければ財産などゴミ屑も同然。金を使うというのは難しい事なんだよ。自分を満たすために努力し、金を掴み、欲望が向くままに手にしたい全てを買い占める。そんな自分の欲求という空虚に、稼ぎ過ぎた金は収まらんのだ」
主のその言葉で、私はようやくその「意図」を捉えたような気がしました。
人間は欲深いなどと申しますけれど、実際に私達が欲しいものというのはどれくらい存在するのでしょうか。素晴らしい豪邸にて、最上級の食事を毎日口にして、欲しいだけの宝石を手に入れて身を飾り、最高級の酒で酔いつぶれて、至高のベッドで眠る。
そんな贅沢が貧乏人には途方もない夢のように思える。
そして、それは将来的に金を掴む者達も同じで……努力して積み立てて、手にした金で欲しいものを買って、買って、買って。
満たされてしまえば、財産に何の意味があるのでしょう?
世の中には無欲な人がいます。欲の強い人間が貧乏な星の下に生まれるのも不幸ではありますが、欲が本来大きくない人間が金を集める事に躍起になってしまったら……もう、それは不幸としか言いようがないではないですか。
努力に見合う報酬を、自ら拒否してしまうような結果になるんですから。
そう――解釈して、私は問いかけます。
「では、ご主人様はそんな努力を無意味にしないために無理して買い物をしているのですか?」
それが、三度目となる今回の買い物のとして具現しているのか?
私が問うと、些末な質問だと言わんばかりに鼻で笑う主。
「不要な物を買うなど、金を捨てているのと同じだ。生憎だが、俺は違う。誰よりも欲深く、満たされる事のない欲望を持っている。幸せというものを知らんのだ……満たされ、これ以上は要らんという感覚になれない。だから、思うのだ。
幸福とは、得たその時点で不幸であり――不幸の最中が、一番幸福なのだと。
だから、俺はこうして欲しいものだけを欲しいだけ買う。何度、買い物に訪れても欲しいものでこの市は、もっと拡大すれば国は、世界は、俺の欲に吸われるべき品々で溢れている。そして、人の手で作りだしたものだけでは満足しないかもしれない。やがては、もっと抽象的なものを欲しがるかもしれぬ。……まぁ、そんな事はさておき――全てを買い求めて尚、俺は不幸という名の幸福に浸っていられるのか……そんな答えが知りたいのかも知れんな。もしくは――幸福という名の不幸で満たされた、その中に投じられて溺れ、死んでいきたい。そうも、言えるか」
どこか悲しげな表情でありながら、それでも慈しむような柔らかい口調で語った主。
不要な物を買う事は、金を使うとは言わない。
確かに、仮に私が巨万の富を与えられたとして使いきる事が出来るでしょうか。案外、欲というのは知識が必要なのです。馬鹿に欲は抱けない。あらゆる物事を知り、関心を持てる広い視野。さまざまな方面に解釈して自分にとっての必要性を微細でも見逃さない頭脳が必要。
そして貪欲で――どこまでも貪欲に全てを掌握したがる、満たされない心。
人間が生きる上で必要な原動力である欲が途切れない主は、常に不幸である。死ねない――いえ、死にたくなくなるくらいに世に執着し、全てを欲しがる生の権化。
そして、幸福を知らないという点では、奇しくも私と同じ。
――何だか、面白いですね。
「不要なものは買わないって事は――私は必要だったって事ですか?」
私がまたもや揶揄するように問いかけると、主は様式美的に私を睨みつけ――そして、鼻で笑って顔を背けると少し早歩きになり、
「さっさと行くぞ。沢山、荷物を持たせてやるから覚悟しておけ」
――と、吐き捨てるようにいい、何だか上機嫌になってしまった私は追うようにしてその後をついていくのでした。