第8話『名前のない感情』
その夜、夢を見た。
内容は、いつも同じだ。
暗い場所。
名前の書かれた紙。
誰かの、泣き顔。
――なのに、肝心なところだけが、いつも曖昧だった。
「……また、か」
目を覚ました僕は、天井を見つめたまま、しばらく動けずにいた。
胸の奥が、じくじくと痛む。理由は分からない。ただ、痛い。
枕元の机に置かれた紙が、視界の端に入る。
白い紙。
折り畳まれていない、まっさらな紙。
僕は、なぜかそれを手に取った。
「……」
ペンも、すぐそばにあった。
最初から、そこに用意されていたみたいに。
僕は、迷わず自分の名前を書いた。
――野咲 隼人。
書き終えた瞬間、胸が締めつけられる。
「……っ」
喉の奥が熱くなり、視界が滲んだ。
理由は、やっぱり分からない。
ただ、分かることが一つだけあった。
この行為は、初めてじゃない。
何度も、何度も。
僕はこうして、自分の名前を書いてきた。
そして、その度に――
「……忘れたい」
声が、勝手に零れた。
次の瞬間、胸の奥に溜まっていた何かが、すうっと引いていく感覚がした。
痛みも、悲しみも、重さも。
代わりに残るのは、空白。
何かを失ったはずなのに、何を失ったのか分からない空虚。
「……これで、いい」
そう言い聞かせるように呟き、僕は紙を破った。
細かく、原型が分からなくなるまで。
――それで、終わり。
終わった、はずだった。
翌日の放課後。
いつもの路地。
いつもの、一輪の花。
そして――
「隼人」
花が、そこにいた。
胸が、強く脈打つ。
「……花」
声に出した瞬間、安堵した自分に驚いた。
さっきまで胸にあった空白が、少しだけ埋まる。
花は、少し顔色が悪かった。
それでも、いつも通り笑っている。
「今日も来たんだね」
「……ああ」
隣に座ると、不思議と落ち着いた。
何か大事なことを、忘れている気がする。
でも、今は、それでいい。
花が生きている。
目の前で、ちゃんと息をしている。
それだけで、胸の奥が温かくなる。
「ねぇ隼人」
花が、不意に言った。
「人ってさ……どうして生きるんだと思う?」
答えは、出なかった。
出ないはずなのに、言葉が口をついて出る。
「……誰かの名前を、呼ぶためじゃないかな」
花は、きょとんとした顔をしたあと、少しだけ笑った。
「なにそれ。変なの」
「そうかも」
でも、その言葉は、嘘じゃなかった。
理由は分からない。
なのに、確信だけがあった。
僕は、これからも――
名前を書く。
名前を呼ぶ。
それが、どんな意味を持つ行為なのか知らないまま。
夕暮れの空の下、一輪の花が、静かに揺れていた。
その影が、なぜかとても、遠く感じられた。




