第34話『知ってしまった夕暮れ』
放課後の教室は、橙色に満ちていた。
窓から差し込む光が長く伸び、机の影を細く引き延ばしている。
教室にはもう、ほとんど人がいない。
「見て」
花が一枚のチラシを差し出す。
駅前にできる店の広告らしい。
甘い菓子の写真が並び、隅には小さく「来週オープン」の文字。
「限定のケーキがあるんだって。絶対混むよね」
来週。
隼人は紙を受け取る。
「甘いのばっかりだな」
「隼人も食べるでしょ?」
「少しなら」
花が笑う。
その声は、軽い。
未来を疑っていない音。
「来月はさ、少し寒くなるよね。コート出さないと」
「そうだな」
「秋って短いよね。すぐ冬になっちゃう」
来月。
冬。
花は、当たり前のように季節を越える。
その言葉を聞きながら、隼人の胸の奥に微かなざわめきが生まれる。
秋の終わり。
冬の始まり。
時間は、前に進む。
花の指先が、チラシを持つ隼人の手に触れた。
その瞬間だった。
視界が、わずかに揺れる。
光の層が一枚ずれたような感覚。
胸の奥が、ひやりと冷える。
――視るな。
無意識に、そう思った。
だが。
花の肩のあたりから、細い光の線が伸びているのが見えた。
淡い。
ほとんど透明に近い。
夕陽に溶け込みながら、それでも確かに存在している。
命の長さ。
残された時間。
隼人は何度もそれを視てきた。
苦しみに沈んだ人の背後で、
静かに揺れる線を。
長いものもあった。
短く、今にも切れそうなものもあった。
花のそれは――
細い。
思考より先に、身体が硬直する。
息が止まる。
長くはない。
直感で分かる。
今すぐではない。
けれど、遠くもない。
喉の奥が冷える。
手の中の紙が、わずかに震える。
「隼人?」
花が覗き込む。
何も知らない顔。
線は、静かに揺れている。
知らないまま未来を語る少女の背後で。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
声が、ほんの少し遅れた。
視線を逸らす。
本当は、ずっと視ないようにしていた。
花の寿命。
考えないようにしていた。
視る必要がなかったから。
救いは、苦しみの先にある。
それが隼人の基準だった。
苦しんでいる者を終わらせる。
それが役目だった。
だが。
まだ笑っている存在の背後に、
終わりの線がある。
その事実は、想像よりも重い。
線は、揺れている。
静かに。
何も告げないまま。
時間は、有限だ。
「ねえ、ほんとに大丈夫?」
花が少し心配そうに眉を寄せる。
「ああ」
隼人は頷く。
線は消えない。
一度視てしまった以上、
もう知らなかった頃には戻れない。
花は、冬の話をする。
「マフラー新しいの買おうかな」
その言葉の向こうに、
季節がいくつも重なっていく。
隼人は、ただ隣に立つ。
胸の奥で、何かが確実に動き始めている。
まだ決断ではない。
まだ選択でもない。
ただ。
視えてしまった。
それだけで、十分だった。
夕陽が傾き、教室の色が少しだけ深くなる。
花の背後で、細い線が揺れている。
静かに。
確かに。
そこにあった。




