第33話 『救いの重さ』
帰り道は、穏やかだった。
夕暮れの空がゆるく伸び、街はまだ明るさを残している。
花は隣で、楽しそうに話していた。
「駅前の新しいお店、来週オープンなんだって。甘いのばっかりらしいよ」
来週。
隼人は小さく頷く。
「混みそうだな」
「じゃあ早めに行こ?」
当たり前のように続く時間を前提にした声。
隼人は、花の横顔を見る。
風に揺れる髪。
無防備な笑み。
その表情に、痛みはない。
ただ、今を生きている顔。
胸の奥が、わずかに軋む。
もし。
その笑顔が曇る日が来たら。
考えたくもない想像が、一瞬だけよぎる。
すぐに視線を逸らす。
「どうしたの?」
「……いや」
喉が少し乾いている。
「なんでもない」
歩幅を合わせる。
自分の呼吸が、わずかに浅いことに気づきながら。
⸻
終わらせることは、奪うことではない。
そう教えられたわけではない。
そう思わなければ、続けられなかった。
苦しみの中で息を乱していた人たちは、
名前を書いた瞬間、静かに安らいだ。
あの表情を、忘れたことはない。
だから、それは救いだ。
間違いではない。
隼人は、そう信じてきた。
⸻
花は、明日の話をする。
来週の話をする。
まだ来ていない季節の話まで、疑いなく口にする。
その存在に。
救いという言葉が、
ほんの一瞬でも重なってしまったことが、
胸に刺さる。
救いは、苦しみの先にあるものだ。
まだ苦しんでいない誰かに、
その言葉を向けることは――
正しいのだろうか。
足が、わずかに止まりかける。
「寒い?」
花が振り返る。
「大丈夫」
声は、静かだった。
⸻
別れ際。
「また明日ね」
手を振る花に、隼人は頷く。
明日という時間は、まだ現実だ。
けれど。
胸の奥に、小さな違和感が残る。
救いは、正しい。
そう思っている。
それでも。
花の笑顔を思い出すと、
その言葉が少しだけ重くなる。
⸻
部屋に戻る。
机の上に、白い紙がある。
何も書かれていない。
ペンを手に取る。
冷たい。
今日は誰の名前も書いていない。
終わらせてもいない。
それなのに、指先が震える。
救いは、苦しみを断ち切ることだ。
それは、間違いではない。
ならば。
もし、その時が来たら。
自分は迷わず、同じように書けるのだろうか。
救いだと、言えるのだろうか。
ペン先が、紙に触れる。
インクは落ちない。
白い紙は、まだ白いまま。
時計の針が、ひとつ進む。
息を吸う。
まだ、書かない
――
まだ……
書けない。




