第30話『ほんの数歩の距離』
電話が鳴ったのは、昼過ぎだった。
家の静けさを裂くような音に、胸の奥が小さく跳ねる。受話器を取る前から、花はそれが良い知らせではないと分かっていた。
「篠宮さん、今日、お時間はありますか」
病院の名前を聞いた瞬間、指先が冷える。
――やっぱり。
詳しい説明は電話ではできないと言われた。来院してほしい、と。それだけで十分だった。
受話器を戻し、しばらくそのまま立ち尽くす。
頭のどこかは妙に静かだった。驚きよりも、覚悟に近いものが先に来る。ずっと前から、身体の内側では時計が鳴っていた。耳を塞いでいただけだ。
それでも。
喉の奥が、ひどく寂しくなる。
隼人の顔が浮かんだ。
呼べば、来てくれるだろう。何も聞かずに、隣を歩いてくれるだろう。
けれど。
花は電話機の前に立ち、ゆっくりと隼人の家の番号を押した。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回――。
胸が締め付けられる。
このまま出てしまったら、きっと声が震える。何も言えないかもしれない。それでも「どうした」と聞かれたら、全部こぼれてしまう。
それだけは、嫌だった。
花は受話器を戻した。
カチリ、と乾いた音がやけに大きく響く。
「……ごめん」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
すぐに電話が鳴り返す。
今度は、花の家の電話。
心臓が跳ねる。
隼人だ。
分かっているのに、受話器に手が伸びない。鳴り続ける音を、ただ聞いている。
やがて、音は止んだ。
静寂が戻る。
それが、ひどく怖い。
家を出ると、風は思ったよりも冷たかった。
道路を渡るとき、ふと向こう側に人影が見えた気がした。けれど信号が変わり、視界が流れる。
ほんの数歩の距離だった。
花は気づかない。
その反対側を、隼人が走っていたことに。
病院の廊下は白く、静かだった。
診察室に呼ばれ、椅子に座る。
医師は穏やかな声で言った。
「よく、ここまで持ちました」
その言葉の重みは、思ったよりも軽く落ちてきた。
「正直に申し上げます。臓器移植以外に、助かる方法はありません」
淡々とした声。
「移植をしなければ、来年の春を迎えるのは難しいでしょう。ただし、移植を決断しても、すぐにドナーが見つかる保証はありません」
春。
その言葉が、やけに鮮明に耳に残る。
桜の色。ぬるい風。制服の袖。
来年の春。
そこに、自分はいないかもしれない。
花はうなずいた。
「……分かっていました」
医師は一瞬だけ目を細めた。
「ご両親がいらっしゃらないことは承知しています。本来なら保護者の方にお伝えすべき内容ですが……篠宮さんご自身の意思を、聞かせてください」
生きるかどうか。
そんな問いが、こんなにも静かに差し出される。
花は考える。
以前の自分なら、どうしただろう。
隼人に会う前の自分なら。
たぶん、迷わなかった。
静かに受け入れたかもしれない。
終わりがあることは、悪いことじゃないと、どこかで思っていたから。
けれど。
今は違う。
終わりがあることは悪くない。けれど、今は――怖い。
知ってしまったから。
並んで歩く帰り道の温度を。
何も起きない時間の重さを。
名前を呼ばれるときの、ささやかな嬉しさを。
「……移植を、希望します」
声は、思ったよりも震えなかった。
医師がうなずく。
「ドナーを待つことになります」
その言葉に、花はほんの少しだけ息を止めた。
待つ。
誰かの死を。
誰かの終わりを。
自分の始まりのために。
それは、違う気がした。
「でも」
花は続ける。
「誰かの死を願うことは、しません。もし……命が託されることがあったなら、そのときは、逃げません」
医師は静かにうなずいた。
「大切な考え方ですね」
病院を出たあと、花はまっすぐ家へは帰らなかった。
足は自然と、海へ向かう。
潮の匂いが、肺に広がる。
水平線は、どこまでも遠い。
来年の春も、あの向こうにあるのだろうか。
波が寄せては返す。
その繰り返しを見つめながら、胸の奥に言葉が浮かぶ。
――生きたい。
誰かのためじゃない。
隼人のためでもない。
ただ、自分のために。
あの帰り道を、もう少し歩きたい。
何も起きない日を、もう少し重ねたい。
「……生きたい」
小さく、口に出す。
その瞬間だった。
「花」
背後から、息を切らした声がする。
振り返ると、隼人が立っていた。
額に汗をにじませ、呼吸を整えながら。
花は目を丸くする。
「どうして……」
「電話」
それだけ言って、隼人は肩で息をした。
「すぐ切れたから」
怒っていない。
問い詰めもしない。
ただ、少しだけ安心したように、口元を緩める。
「……よかった」
その一言が、波音よりも強く胸に響く。
何が、よかったのか。
ここにいることか。
まだ間に合っていることか。
隼人は何も知らない。
それでも、追いかけてきた。
花は、胸の奥が熱くなるのを感じる。
言えない。
まだ言えない。
でも。
もう、消える覚悟だけではいられない。
生きると決めた。
自分の意志で。
その選択の意味を、今ならはっきり言える。
生きたい。
春を、迎えたい。
隼人の隣で。
波が、二人の足元で砕ける。
ほんの数歩の距離を越えて、隼人は花の隣に立つ。
それだけで、十分だった。




