第29話『足りてしまった時間』
夕方の空気が、昼よりも少しだけ重たく感じられた。
歩道に伸びる影が、さっきよりも長い。
花と隼人は、並んで歩いていた。
手が触れるほど近くはないが、離れてもいない。
いつの間にか、そういう距離になっていた。
「今日は、寒いね」
花が言う。
「……うん」
それだけのやり取りで、十分だった。
住宅街に入ると、車の音は遠のき、代わりに生活の気配が近づく。
夕飯の匂い、テレビの音、玄関が開く気配。
角を一つ曲がったところに、古い自販機が立っている。
いつも通り過ぎるだけの場所だったが、今日は自然と足が止まった。
「喉、乾いてない?」
花が言って、小銭を探す。
「……大丈夫」
それでも、花はボタンを押した。
缶が落ちる音が、やけに大きく響く。
花はそれを一口飲んで、満足そうに息を吐いた。
「なんか、落ち着く」
隼人は頷くだけだった。
自販機の灯りが、二人の足元を照らす。
影は少しだけ重なり、すぐに離れた。
会話はなかった。
沈黙も、苦ではなかった。
何かを話さなくても、今が足りている。
そう思えてしまうことが、少しだけ怖い。
やがて、花の家へ続く細い道の手前に着く。
いつもの分かれ道。
「じゃあ……ここで」
花が言う。
「うん」
それだけで、別れになった。
名残惜しさはなかった。
だからといって、軽いわけでもない。
「またね」
「……また」
花は振り返らず、その道を進んでいく。
隼人も、見送ることはしなかった。
一人になった道で、隼人は立ち止まる。
さっきまで隣にあった気配が、嘘のように消えている。
それなのに、胸の奥は満たされていた。
何も起きなかった。
何も変わらなかった。
――だからこそ、完成してしまった。
理由は分からないまま。
遠くで、どこかの家の灯りが一つ、また一つと点いていく。
その光を横目に、隼人は自分の帰る道を歩き出した。
明日も、きっと同じように始まる。
そう、信じてしまえるほどには。




