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死の神と一輪の花 ―― それでも、君を呼ぶ  作者: 己己己己
第三章【それでも、名はここに在る】

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第27話『触れてしまった温度』


 久しぶりに、その場所を通った。


 空き地の端、道に沿うように咲いていたはずの一輪の花は、

 もう、そこに色を残していなかった。


 茎は折れ、花弁は地に散り、

 触れれば崩れてしまいそうなほど、完全に枯れている。


「……」


 足が止まる。


 胸の奥が、きゅっと縮んだ。


 可哀想だな、と思った。

 それだけのはずなのに、なぜか目を逸らせなかった。


 隼人はしゃがみ込み、枯れた花にそっと触れる。

 乾いた土は、ひどく冷たい。


「この花は……枯れないでほしいな……」


 声は、独り言のように小さい。


「……僕と花が、出会うきっかけになった、大切な花だから……」


 風が吹き、枯れ葉が音を立てて転がる。

 指先には、何の反応もなかった。


 それでも、胸の奥に浮かんだ不安を押し殺すように、隼人は続けた。


「この花が枯れると……不安になるんだ」


 お願い、と。

 そう心の中で繰り返しながら、もう一度だけ触れて、その場を離れた。


 何も起きなかった。


 その日は、それで終わった。


 ――翌日までは。


 特別に暖かいわけでもなく、

 恵みの雨が降ったわけでもない。


 それなのに。


 あの場所に、花が咲いていた。


 昨日まで、確かに枯れていたはずの一輪が、

 何事もなかったかのように、淡い色をつけて立っている。


「……?」


 思わず、目を瞬かせる。


 不思議だな、と思った。

 理由は分からない。


 でも、それ以上に――嬉しかった。


 それでいい、と思ってしまった。


 だから、その違和感を深く考えることはなかった。


 ***


 その日の帰り道だった。


「隼人、待って……」


 花が、ふいに足を止めた。


 舗道の端、人通りから少し外れた道の隅。

 落ち葉の影に、小さな影がうずくまっている。


 最初は、気のせいかと思った。

 けれど、近づくにつれて、それが子猫だと分かる。


 身体を丸め、必死に呼吸をしている。

 鳴く力も、逃げる力も、もう残っていない。


 隼人には、すぐに分かってしまった。


 この子は、もう長くない。


「……」


「動物病院、探そう」


 花は迷いなく言った。


「このままじゃ……可哀想だよ。助けよう」


 助からないかもしれない。

 それでも、その思いを無駄にしたくなかった。


 隼人は、そっと子猫を抱き上げる。


 軽すぎる。

 命の重さというより、失われかけているものの軽さだった。


「行こう」


 歩く、という選択肢はなかった。


 隼人は走り出す。


 舗道を蹴り、息を切らしながら、ただ前を見る。

 腕の中の体は冷たく、呼吸は浅いままだ。


「大丈夫だ……」


 何度も、何度も背を撫でる。


「頑張れ……頑張れ……」


 声は次第に荒れ、

 自分に言っているのか、子猫に言っているのかも分からなくなる。


 走っても、走っても、状況は変わらない。


 信号に引っかかりそうになり、花が腕を引く。


「隼人、こっち!」


 角を曲がり、細い道を抜ける。

 足音だけが、やけに大きく響く。


 時間が、異様に長い。


 ほんの数分のはずなのに、

 一秒ごとに、腕の中から何かが零れ落ちていく気がした。


 息が苦しい。

 足が重い。


 それでも、止まれなかった。


 止まった瞬間に、

 この子は終わってしまう気がしたから。


「お願いだ……」


 隼人は、子猫を抱く腕に力を込める。


「お願いだから……生きてくれ……」


 理由も、理屈もなかった。

 ただ、ここで終わってほしくなかった。


 どれくらい走ったのか、分からない。


 腕が痺れ始めた、その時だった。


「……にゃ……」


 一瞬、聞き間違いかと思った。


 足が止まり、二人で同時に腕の中を見る。


「……今……?」


 もう一度。


「……にゃ」


 弱い。

 それでも、確かに生きている声だった。


 さっきまで消えかけていた呼吸が、

 ゆっくりと、しかし確実に戻り始めている。


 花が、息を詰めたまま呟く。


「……鳴いた……」


 隼人は、言葉を失ったまま、

 ただ子猫を抱きしめ直した。


 ***


 動物病院に駆け込むと、獣医は首を傾げながら言った。


「軽い栄養失調ですね。点滴すれば、元気になりますよ」


「……良かった……」


 花は、心から安堵したように息を吐いた。


 隼人は、何も言えなかった。


 さっきまで、この子は――

 もうすぐ、死ぬはずだった。


 動物病院が子猫を引き取ってくれることになり、

 二人は外に出る。


 秋の空は高く、風は穏やかだった。


 公園のベンチに腰を下ろし、

 自販機で買ったジュースを飲む。


 その瞬間、視界が揺れた。


「……っ」


 隼人の身体が、前に傾く。


「隼人!」


 花が咄嗟に手を掴んだ。


 ――冷たい。


 異常なほど、冷たい。


「……大丈夫?」


「うん……大丈夫だよ」


「大丈夫じゃないでしょ! 私は分かるんだから!」


 今日は秋晴れで、気温も低くない。

 それなのに、隼人の手は、氷のようだった。


 公園は花の家の近くだった。


「今日は……うち、来て」


 花は有無を言わせず、隼人を連れて帰った。


 自分の部屋のベッドに寝かせると、

 隼人はすぐに、深い眠りに落ちる。


 花は、そっと手を握ろうとした。


 ――けれど。


 隼人の右手は、何かを強く握りしめていた。


 指をそっと開く。


 そこにあったのは、花の家の合鍵。


 小さな、一輪の花のキーホルダー。


「……っ」


 理由は分からない。

 でも、胸の奥から、どうしようもなく感情が込み上げてくる。


「ありがとう……」


 声が震える。


「ありがとう……大好きだよ……」


 花は、何度も、何度も隼人の頭を撫でた。


 部屋を温めても、

 布団を重ねても、

 隼人の体温は戻らない。


 花は、眠る隼人を抱きしめる。


 自分の体温を、分け与えるように。


 それでも――冷たいままだった。


 気づけば、花も眠っていた。


 その夜、

 隼人の体温だけが、静かに世界から遠ざかっていった。

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