第27話『触れてしまった温度』
久しぶりに、その場所を通った。
空き地の端、道に沿うように咲いていたはずの一輪の花は、
もう、そこに色を残していなかった。
茎は折れ、花弁は地に散り、
触れれば崩れてしまいそうなほど、完全に枯れている。
「……」
足が止まる。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
可哀想だな、と思った。
それだけのはずなのに、なぜか目を逸らせなかった。
隼人はしゃがみ込み、枯れた花にそっと触れる。
乾いた土は、ひどく冷たい。
「この花は……枯れないでほしいな……」
声は、独り言のように小さい。
「……僕と花が、出会うきっかけになった、大切な花だから……」
風が吹き、枯れ葉が音を立てて転がる。
指先には、何の反応もなかった。
それでも、胸の奥に浮かんだ不安を押し殺すように、隼人は続けた。
「この花が枯れると……不安になるんだ」
お願い、と。
そう心の中で繰り返しながら、もう一度だけ触れて、その場を離れた。
何も起きなかった。
その日は、それで終わった。
――翌日までは。
特別に暖かいわけでもなく、
恵みの雨が降ったわけでもない。
それなのに。
あの場所に、花が咲いていた。
昨日まで、確かに枯れていたはずの一輪が、
何事もなかったかのように、淡い色をつけて立っている。
「……?」
思わず、目を瞬かせる。
不思議だな、と思った。
理由は分からない。
でも、それ以上に――嬉しかった。
それでいい、と思ってしまった。
だから、その違和感を深く考えることはなかった。
***
その日の帰り道だった。
「隼人、待って……」
花が、ふいに足を止めた。
舗道の端、人通りから少し外れた道の隅。
落ち葉の影に、小さな影がうずくまっている。
最初は、気のせいかと思った。
けれど、近づくにつれて、それが子猫だと分かる。
身体を丸め、必死に呼吸をしている。
鳴く力も、逃げる力も、もう残っていない。
隼人には、すぐに分かってしまった。
この子は、もう長くない。
「……」
「動物病院、探そう」
花は迷いなく言った。
「このままじゃ……可哀想だよ。助けよう」
助からないかもしれない。
それでも、その思いを無駄にしたくなかった。
隼人は、そっと子猫を抱き上げる。
軽すぎる。
命の重さというより、失われかけているものの軽さだった。
「行こう」
歩く、という選択肢はなかった。
隼人は走り出す。
舗道を蹴り、息を切らしながら、ただ前を見る。
腕の中の体は冷たく、呼吸は浅いままだ。
「大丈夫だ……」
何度も、何度も背を撫でる。
「頑張れ……頑張れ……」
声は次第に荒れ、
自分に言っているのか、子猫に言っているのかも分からなくなる。
走っても、走っても、状況は変わらない。
信号に引っかかりそうになり、花が腕を引く。
「隼人、こっち!」
角を曲がり、細い道を抜ける。
足音だけが、やけに大きく響く。
時間が、異様に長い。
ほんの数分のはずなのに、
一秒ごとに、腕の中から何かが零れ落ちていく気がした。
息が苦しい。
足が重い。
それでも、止まれなかった。
止まった瞬間に、
この子は終わってしまう気がしたから。
「お願いだ……」
隼人は、子猫を抱く腕に力を込める。
「お願いだから……生きてくれ……」
理由も、理屈もなかった。
ただ、ここで終わってほしくなかった。
どれくらい走ったのか、分からない。
腕が痺れ始めた、その時だった。
「……にゃ……」
一瞬、聞き間違いかと思った。
足が止まり、二人で同時に腕の中を見る。
「……今……?」
もう一度。
「……にゃ」
弱い。
それでも、確かに生きている声だった。
さっきまで消えかけていた呼吸が、
ゆっくりと、しかし確実に戻り始めている。
花が、息を詰めたまま呟く。
「……鳴いた……」
隼人は、言葉を失ったまま、
ただ子猫を抱きしめ直した。
***
動物病院に駆け込むと、獣医は首を傾げながら言った。
「軽い栄養失調ですね。点滴すれば、元気になりますよ」
「……良かった……」
花は、心から安堵したように息を吐いた。
隼人は、何も言えなかった。
さっきまで、この子は――
もうすぐ、死ぬはずだった。
動物病院が子猫を引き取ってくれることになり、
二人は外に出る。
秋の空は高く、風は穏やかだった。
公園のベンチに腰を下ろし、
自販機で買ったジュースを飲む。
その瞬間、視界が揺れた。
「……っ」
隼人の身体が、前に傾く。
「隼人!」
花が咄嗟に手を掴んだ。
――冷たい。
異常なほど、冷たい。
「……大丈夫?」
「うん……大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないでしょ! 私は分かるんだから!」
今日は秋晴れで、気温も低くない。
それなのに、隼人の手は、氷のようだった。
公園は花の家の近くだった。
「今日は……うち、来て」
花は有無を言わせず、隼人を連れて帰った。
自分の部屋のベッドに寝かせると、
隼人はすぐに、深い眠りに落ちる。
花は、そっと手を握ろうとした。
――けれど。
隼人の右手は、何かを強く握りしめていた。
指をそっと開く。
そこにあったのは、花の家の合鍵。
小さな、一輪の花のキーホルダー。
「……っ」
理由は分からない。
でも、胸の奥から、どうしようもなく感情が込み上げてくる。
「ありがとう……」
声が震える。
「ありがとう……大好きだよ……」
花は、何度も、何度も隼人の頭を撫でた。
部屋を温めても、
布団を重ねても、
隼人の体温は戻らない。
花は、眠る隼人を抱きしめる。
自分の体温を、分け与えるように。
それでも――冷たいままだった。
気づけば、花も眠っていた。
その夜、
隼人の体温だけが、静かに世界から遠ざかっていった。




